section 9 魂の慟哭
由紀は休日以外は時間が取れないので、蒼真はガイドブック片手にあちこち歩き回ったが、心はいつも由紀にあった。歴史ある寺院や荘厳な建築物を見学してもつまらなかった。
金を工面してくれた親父にメールした。
「父さん、ありがとう、会えたよ。この人だ」とメールに画像を添付した。それを見た父は、ふーんと興味を示さなかったが、蒼真の母はどこかで見たような気がすると首を傾げた。3日後の夜、食器を洗いながら「わかったわ! きっとそうだ!」と夫に告げた。
「あれは10年以上の昔かな? ほら、仙台に転勤したときよ。スーパーに続く道で、いつもピアノが聴こえる家があったの。2丁目の角の石原医院だったけど、弾いてるのは奥さんだと思ってた。あるとき、とっても哀しいメロディなんで、足を止めて聴き入ったことがあったわ。突然ピアノが止んで、おかっぱ頭の小さな女の子が窓を開けたの。その子は空を見上げて泣いてた。その子が弾いてるのを初めて知ったけど、この時間にどうして学校に行ってないの? 不思議に思ったのを思い出したわ。
それからもピアノがいつも流れていて、あまりにも上手なんで拍手したら、窓を開けてその子はにっこり笑った。きっとその子だわ! ちっとも変わってない! バカにしないでよ、私のカンは当たるのよ!」
はぁ? 妻の推理に夫は笑うしかなかった。妻が言う娘さんかどうかわからんが、蒼真、頑張れ! 遠く離れたロンドンにエールを送った。
蒼真が指折り数えて待った由紀の休日が来た。肩を抱いてデートしたが、なぜか元気がなかった。
「東京のデートとまったく同じですね」と微笑むが、何か違和感がした。楽しそうではなかった。
どうしたんだ? 何かあったか? 訊きたい言葉を隠して手をつないで街を彷徨った。突然、由紀は悪魔に取り憑かれたように鋭く尖った眼をして怯え、カチカチと歯を鳴らして震え出した。
「話してくれ、何を苦しんでるんだ!」と迫る蒼真に、
「私の全部がダメなんです! 何もかもヘタなんです。もうイヤ! ダメです、死んでしまいたい……」
急に走り出した由紀を追いかけて抱き止め、宿泊先のホテルのベッドに座らせた。
「何なんだ、こんなに君を苦しめる原因は? 教えてくれ! なぜそんなに苦しむのかわからない! 僕はピアノはわからないがピアノで苦しむ君を見たくない! そんなにピアノが大事か? 違うだろ! 君の心と体とこれからが大事だ、そうだろう、違うか?」
由紀は体を投げ出して枕に顔を埋めてずっと泣いていたが、急に起き上がって、「帰ります」と呟いた。ここで帰したらこの子は死んでしまう、そんな気がした。
「待て! 君が死ぬなら僕も死ぬ、僕は死んでもいい! 生きてくれ! 頼む、お願いだ、死ぬな! 僕は命が惜しくて言ってない! 君の命が惜しいだけだ。わかるか、わかってくれ!」
蒼真はセーターとTシャツを脱いで、虚ろな眼をした由紀の頬を叩き、
「よく見ろ! これが僕だ」
蒼真の胸に刻まれた十字の傷痕に由紀は驚いた。
「えっ、これは!」
「君と同じだ。君が青葉小で倒れたときに君の十字を見た。なぜこれが僕にもあるのかわからない。さっき、君を抱こうと思ったがやめた。もしそうしたら、喘いでいる君の苦しみをひとつ増やすだけで、君は死んでしまうとわかったからだ。絶対に何もしない、僕が守るから朝まで眠れ! 頼む、わかってくれ!」
由紀は驚いて、混乱したまま蒼真の胸を何度も触って呟いた。
「あ~ 私と同じ……」
由紀を抱き包んだまま朝を迎えた。眠れないまま時間は再び動き出した。時々由紀の涙を拭いてキスするだけの蒼真は辛かった。この子の苦しみや絶望を救えない、何もできない、抱きしめて温めるだけだ。そんなに頑張らなくてもいいじゃないか、ピアノだけが人生か? 探しても答えはなかった。
女子寮に送り届けた別れ際に、「君が死ぬときは僕も死ぬときだ、忘れるな!」、そう告げた。
俺はなぜ「君が死ぬときは僕も死ぬときだ」と言ったか、わからなかった。あのとき不意に言葉が走り出た、何かに操られたように口にした。夢に出るおっさんか? おっさん、出てこいよ! アンタに訊きたいことがある。さあ、出てこい! 蒼真が吠えても男は出て来なかった。
しばらく由紀から何もメッセージはなかった。山ほど心配だったが、何かあったら誰かが携帯履歴を見るはずだ。何も連絡がないのは由紀が耐えていると信じたかった。
しかし俺はいつまでもロンドンに居られない。だが、このまま顔も見ずに帰るのはイヤだ! どうするかと悩んだある夜、ケイタイが鳴った。
「蒼真さんの傷を見て本当にびっくりしてパニックでしたが、今は少し落ち着きました。そして、絶望する前にやれるだけやろうと、自分に言い聞かせています。ヘタでもいい、自分のピアノしか出来ないと知りました。蒼真さんはいつまでロンドンですか? 明後日は学院の行事でオールフリーです。会えませんか? 聞いて欲しいことがあります」
「会う、会うよ、会いたい! どこに行けばいいんだ? やっとロンドンの街がわかったんだ!」
バンザイしたいほど嬉しかったが、あのとき抱かなかった自分を少し後悔した。
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