section 3 魅入られた演奏

 バイト中の蒼真に恵子からケイタイが来た。

「会えないかなあ、ピザ持ってくけど」

 恵子は大手家電販売店のパート社員だ。バイトの休憩タイムに家電を見て回っていた俺に話しかけ、買う気がないと知るとデートしようと迫った年上の女だ。愛してはいない、嫌いでもないが、その強引さがうっとおしく感じる時がある。若い男の体が欲しいだけで、抱き合うだけの仲だ。

「悪いが今日は予定があるんだ」

「あらっ、そう。若い子とデートなの?」

「若い子? ほっといてくれ」

 つい、プツンとケイタイを切った俺は、由紀に会いたいと唐突に思った。


「元気かい? 東月蒼真だ。もし良かったら会えないかな」

「あの~ 今度の土曜日に学内のコンサートに出してもらえるんです。あの~ 時間があったら来てくれませんか?」

「へぇー 凄い! ぜひ聴きたいなあ」

「私のピアノは幕間のオマケで、芸大フィルオケの演奏がメインです。チケットを渡したいので、いつだったら会ってくれますか?」

「今日はバイトだけど、明日は授業が終わって7時ぐらいでもいいかい?」

「国立のお店を覚えてますか? あそこで待ってます」


 一度家に帰ったのか、由紀はTシャツにジーンズで待っていた。

 渡されたチケットは、上下に芸大フィルオケの演奏曲が並んでいたが、センター付近に「ピアノ独奏:石原由紀 1年 曲:ショパン エチュード 作品10-4」と印刷されていた。

「1年生は君だけじゃないか、すごいなぁ、見直したよ!」

「へへっ、ピアノ科の1年生は25人ですけど、3人もドロンしたので学生が少ないんです。だからすごくないです。東月さんは何を勉強しているのですか?」

「経営工学だ。企業活動の生産管理と販売や会計に関して、工学的・科学的分野から考察して、企業活動を効率化する分野だ」

「何だか難しそう。それを学びたくて東京に来たのですか?」

「そうじゃない、推薦入学が決まっていたが、高3の秋に故障した。それで浪人したんだ。だから2年生だ。それ以来サッカーはやってない」

「ごめんなさい、辛いことを思い出させて、すみませんでした」

「いや、気にしてないよ。そんなことより、ピアノは毎日の練習が大事なんだろう、君は何時間練習してるんだ?」

「私は体力がないので、えーっと、毎日3時間ちょっとでしょうか。45分を1セットにして、気が散ったり疲れたらやめます。集中するって厳しいです」

「部屋にピアノがあるのか?」

「はい。音大生専用のワンルームで防音なんです」

「へーっ、知らないことばかりでつい質問攻めして悪かった。君は仙台でずっと暮らしたのかい? ごめん、また質問した」

「ふふふっ、そうです。東月さんはあちこちなんでしょう、どこが好きですか?」

「親父は造船技師で、長崎、広島、岡山、愛媛、香川といろいろ転校したが、愛媛の今治が長かったかな。サッカーが盛んな土地だった。しかし好きな街は長崎だ、他の都市とは違った。仙台に転校したのは、親父がJFEスチールの東北支社に出向したからだ。

 ああ、もうこんな時間か、練習の邪魔しちゃ悪いな」

 蒼真は、“ソナーレ国立”と書かれた2階建てのマンションに由紀を送った。にっこり笑ってエントランスに消える由紀に手を振りながら、今日は楽しかったよ、とりとめのない会話を思い出したが、エチュードって何だ?


 土曜日、蒼真は芸大コンサートホールで芸大フィルの演奏を聴きながら、由紀の出番を待った。音楽の授業で聴いた曲ばかりだが、フルオーケストラの迫力と荘厳な演奏に耳を傾けた。前半と後半の幕間に学生が3人演奏した。最初はフルートで次が由紀だった。

 由紀は淡いピンクのワンピースで、聴衆に静かにおじぎして弾き始めた。16分音符か? スピーディな指さばきにコロコロとテンポが変化して、抜群の疾走感と躍動感に蒼真はすっかり魅入られた。大きな拍手を浴びて由紀はステージから消えた。小さなあの子がステージでは大きく見えた。

 演奏会が終わって後片付けが始まった頃、由紀が譜面を抱えて学生たちと出てきた。

「ものすごく良かったよ、感動した! 時間はあるか、遅いが昼メシに行こう」

 蒼真は由紀を学友から引き剥がし、手を引っ張って走った。


 美術館内のミュージアム・カフェで遅めのランチにした。

「君が落ち着いてたから驚いたよ、ドキドキしなかったのか? そしてあれは何だ? やたら速いテンポで弾きまくって、次はバタンと調子が変わって何だか情熱的な曲だった。よくわからないが素晴らしかった!」

 由紀は微笑んで聞いていたが、

「あの曲はショパンが20歳前後に作曲したそうで、ちょっとヘンなとこがあるらしいです。アルペジオがいっぱいあって難しい曲だけど、好きなんです」

「あーあ、僕は素人で君の話を全部は理解できないが、君が好きな道を進んでいることはよくわかった。羨ましいなあ。いつか時間があったらデートしてくれないか?」

「デートって?」

「近くだったら深大寺や井之頭公園、少し遠くだと高尾山や相模湖に行かないか? そうだ、夏の高尾山もいいぞ、行ったことあるか?」

「いいえ、どこにも。東月さんは詳しいんですね、連れて行ってください」

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