section 4 なぜ気になる?
次の日曜日、高尾山でデートした。頂上へ着くと、由紀は遠く霞んで見える都心のビル街に眼を輝かせた。ときおり谷から吹き上げる旋風(つむじかぜ)に飛ばされないように、蒼真は後ろからそっと抱いた。一瞬ビクッと固まって振り向いたが、蒼真を見上げてにっこりした。
手をつなぎ、風で乱れた前髪に手を添え、時々肩を抱くだけのデートが楽しかった。薬王院の参道にある蕎麦屋へ入った。
「今日は練習はいいのかい?」
「2時間弾きました。たまにはズルしてもいいんです。譜面とにらめっこするより、気持ちいい景色を見て、美味しい物を食べるのも心のレッスンです」
蕎麦に手を伸ばす由紀の指先を見ると、爪は短く切ってマニキュアはノーだ。
「爪は伸ばしちゃダメかい?」
「はい。曲によっては鍵盤に爪が当たってカチカチと音がするんです。それに大学にはものすごく高価で年代物のピアノがあります。長い爪を見つかったら叱られます」
「ふーん、プロになるって大変なんだ。いつか僕だけに弾いてくれるか?」
意味がわからず小首を傾げた由紀は、しばらくして真っ赤になって俯いた。
「ごめん、冗談だ、忘れて欲しい」
それからも、蒼真は通学の電車で由紀を探したが見つからなかった。俺は毎日でも会いたいが、あの子は日課の練習がある。だからどこへも行ったことがないと言った。早めに仙台に帰ったのだろうか? 迷ってもしょうがない、ケイタイしよう。
「東月さんですか?」
「君はまだ東京かい、田舎に帰るのか、その前に会えるか?」
「帰る予定だったけど熱があってかったるくて…… ああ、ごめんなさい、もう寝ます」
応答はそれっきりだった。何度ケイタイしてもダメだった。
夏風邪かも知れないと心配した蒼真は、ドラッグストアで解熱剤と鎮痛剤と総合感冒薬を買って、由紀のマンションに急いだが、表札がなく部屋がわからない。おまけにドアは暗証番号のロックキーだ。
ほとんどの部屋が真っ暗で不在のようだが、裏に回って見渡すと、1階に薄暗い灯が点った部屋があり、近づくと風鈴が鳴っていた。確か、これは仙台の“松笠風鈴”だ。親父がこの風鈴を自慢したことを思い出した。あの子は多分ここだろう。しかし防音の二重サッシの窓は施錠されていた。あーあ、手立てがない、どうしたらいいか…… 蒼真は考えあぐねてドアの前に座り込んだ。
どれだけ時間が経ったのか、中年の女がやって来て蒼真を見て驚いた。
「ひえっ、そこで何してるの! 警察を呼びますよ!」
「待ってください。僕は石原さんの体調が悪いのを知って、来ただけです。でも、ドアは施錠されて入れません。どうしたらいいかわからなくて…… すみません、驚かせてしまいました」
「しょうがないわね、ここは人目があるから入りなさい」
その女は隣のドアを開けて、蒼真を手招きした。
「どういうことなの? あなたは石原さんのカレシ? 恋人?」
「違います。メールをしたら具合が悪そうで、心配になって来たんです」
「だいたいわかったけどあなたは誰なの? どこの誰だかわかるものを出しなさい」
蒼真は学生証と通学定期を渡して、携帯メールを見せた。
「ふーん、ドロボーではなさそうね。それで石原さんに会って何をしたいの? はっきり言いなさい!」
「薬を持ってきました。あの子は小さい頃から病弱で学校もあまり通えなかった子です。心配なんです」
「おかしいわ、なぜそんなことを知ってるの? 説明なさい」
蒼真は青葉小のことを話した。
「そうか、そういうことか。あなたの話の半分は信じましょう。さあ、ついて来なさい。石原さんに確かめましょう、それからです」
女は由紀のドアの前に立ち、見事にロックキーを解除した。呆然と立ち尽くす蒼真に、
「ピアニストは指の動きでどのナンバーをプッシュしているか、チラ見で覚えるのよ。この能力がないと譜面なんて覚えられないわ。多分、石原さんは私のナンバーを知ってるはずよ、そんなものよ」
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