第20話 雨の日のデート(3)

「昨日は、軟膏のお礼も言わず失礼しました。シリーさんから頂いたあの軟膏、保湿効果が高くて驚きました。ありがとうございます」


 シリアン様の呼び方は、ちょっとした攻防を経て「シリーさん」にすることで互いに妥協した。


 ナッツがぎっしり詰まったハードな食感のビスコッティをザクザク咀嚼し、ミルクをたっぷり入れたコーヒーをひと口飲んだところで軟膏のお礼がまだだったことに気づいた。


 お礼を言って頭を下げると「手を見せて」と言われ、おずおずと両手をテーブルの上に差し出す。

 

 軟膏のおかげでマシにはなったものの、シリアン様の綺麗な指と比べると相変わらず悲惨な状態であることには変わりなく、これは罰ゲームなんだろうかと勘繰ってしまう。


 そんな羞恥心まみれのわたしの胸中などまったくおかまいなしの様子で、わたしの指先をじっと観察したシリアン様は満足げに微笑んだ。

「本当だ、すごい効き目だね。こちらこそ昨日は申し訳なかった。きみが嫌がって泣いているのかと思って、どうすればいいかわからなくて逃げ出してしまったんだ。みっともない姿を見せたね」


「嫌がるだなんて、とんでもない。とても嬉しかったんです。弟たちが変なことを言って失礼しました。あの軟膏は大事に使いますね」


 嬉しさと驚きと、さらにはみっともないガサガサの手が恥ずかしくて、気持ちがぐちゃぐちゃになったせいで涙がこぼれたのだと説明しても、その微妙な乙女心がこの野暮天な王子様には理解できないかもしれないと思ってやめておいた。

 

「軟膏は水仕事の度に塗り直した方がいいらしいよ。使い切ったらまた詰め直してもらうから、あの瓶を持っておいで」


 いやいや、何をおっしゃる!

 贅沢はモブの敵です!


 あんな高価そうな軟膏を何度も頂くわけにはいかないと首を横に振ると、シリアン様は憮然とした顔で言った。

「だからこそ、私からきみへの贈り物としてぴったりだと思っているんだけど。もっと甘えてもらいたいぐらいなのに」


「我が家はですね、父が馬で、わたしと母が荷台の両輪なんです。そのどれかひとつでも欠けたら馬車は走れなくなります。誰かに甘えて寄りかかることを覚えたらきっとわたしはフニャフニャな車輪になって上手く走れなくなってしまいます」


 するとシリアン様がわたしの手を握って、少し困ったような顔で笑った。

「サクラ、きみって子は……。好きだよ」


 不意打ちの「好き」と、サクラって誰!?という混乱で固まってしまう。


 自分のことを「サクラ」だと言ったのは確かにわたしだけれど、まさか名前だと思われているってこと?

 でもそれならそれで都合がいい。

 本名を知られてそこから父の素性がバレるとまずいことになる。

 わたしの意思とは無関係に、夜会に無理矢理参加させられた時のように父に圧力がかかって断れなくなるだろう。


 だったら、バレないうちに諦めてもらわないとっ!

 

「夜会で、いいなと思ったご令嬢はいなかったんですか?」

「だから、それがきみだろう」

 なにを言っているんだとでも言いたげにシリアン様が首を傾げる。


「わたしのどこがいいんです?」


「一緒に逃げようと手を引いてくれたきみにズキューンときたんだ」


 ……はあっ!?


 その瞬間、衝立の向こうでブッ!とコーヒーを吹き出す音が聞こえた。



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