4 カルタ・デ・アモル
お元気ですか。
僕は元気です。信じてもらえないと困るけど、元気です。君の笑顔が見られないけど、頑張って元気にやっています。
夜明け前に目覚め、薄暗い中で歯を磨き、顔を洗い、簡単な朝食をつまんだあとに野良仕事に出かける。帰ってきて水浴びをしたら、友人と一杯やり、ランプの明かりのもとで食事をともにする。僕は大抵の場合、はやめに小屋に戻り、日記をまとめ、君のことを考えます。日本にいるときの僕はしばしば昼夜逆転の生活を送っていたので、本当に健康な生活です。マイナスイオンもたっぷりあびていますから、健康すぎて困るくらいです。
毎晩、君のことを考えていると書きましたね。
夜空で満点の星空を見上げるたびに、この空は君の見上げる空とつながっている。そんなことを思います。
つながっているのに、僕の見ているこの星空を君に見せてあげることができないのが少々残念です。
この澄みきった空は、どこで濁っていくのでしょう。
文学を知らず、日本語をさえずることすら忘れかけた僕ですら詩人にしようとする、この密林の空のなんとすごいことか。
月並みの恋愛小説の文言を小馬鹿にし続けていた僕が、空はつながっているなどといいだすことからも君は笑いながら理解してくれるでしょう。
君がここに来ることがあれば、毎日、たくさんの歌を詠めることでしょう。そう、僕は君が歌を披露してくれるときの笑顔に包まれていたいのです。
ここに来た頃に読んだ小説についてお話させてください。
お話するといっても、小説自体は、疾うの昔に街で出会ったバックパッカーのもつジュリアン・ソレルの物語と交換してしまい、今では、タイトルも作者も思い出せません。それでも、どういうわけか最近よく考えにのぼるのです。
思い出すのは、多元宇宙論について登場人物が論じているところばかりです。
「宇宙が一〇〇あるとする。おそらく、七〇の宇宙で物理学者で、八つの宇宙で私は犯罪者で、二つの宇宙で哲学者だろう。残り二〇はわからない。ピエロをやる私やタップダンサーの私、すでに私は死んで存在していない宇宙もあるだろう」
たしか、こんなことが書いてあったと思います。
多元宇宙の数多の僕は何をやっているのでしょうか。
学部だって適当に選んだ僕ですから、七〇の世界で人類学をやっているなんてことはないでしょう。
ただ、多くの宇宙――すべてとまではいいません。だって、君に出会えなかった不幸な僕もいることでしょうから――で君に惹かれていることでしょう。
願うならば、多くの宇宙の君が僕のほうを向いてくれていますように。
君の笑顔が、笑うときの声が、僕をここまでに元気づけてくれるのですから。
今回は物資の補給に来ました。
参与観察で必要となってくるものの中には、密林の中では手に入らないものもあります。
今回は少し大荷物になるので、なかなか大変です。
僕が普段住んでいるところから一番近くにある小さな商店の主人マウリシオは仕入れに行くと、酒やタバコや薬や雑貨などでぱんぱんに膨れ上がったたくさんのビニールバッグを器用に持ち帰ってきます。
一度、街からの帰路で彼と一緒になったことがあるのですが、すごいものですという話は前にもしましたっけ。
なにはともあれ、僕はあれだけの荷物を担いで移動はできないので、ポーターを雇わないといけないかもしれません。
密林の中に来ると、日本的な時間の感覚がなくなります。
自分のことばかり話してしまうのは、以前から変わっていないところですね。許してください。
僕が森の中にいる間に君が送ってくれたメールを一つ一つ、噛みしめるように読みました。
どれもこれもが君の声で再生されて、そのたびに僕の胸は高鳴ります。
毎日の帰り道で出会うパグの話、近くの公園で日向ぼっこをしている猫たちの話、部活の指導の話、授業の話、近所に出来た美味しいお店の話、歌の話と一つ一つの作品。
どれもが僕の活力となります。
そういえば、君は今頃、定期テストの準備で忙しいころでしょう。
あまり無理をしないでくださいね。
さて、僕のフィールドワークも残り半年程度になりました。
次にメールを出すときには、帰国直前で君に早く会いたいとばかり書くことでしょう。
いや、これは不正確な表現かもしれません。
次のメールでは君に早く会いたいとばかり書くことを僕は自分に許していることでしょう。
今だって君に会いたくて仕方がないし、それを表明したくて仕方がないのですから。
僕がこんなことを書いていると、君は笑うかもしれません。
それでも、君の笑顔を見られることを楽しみにしています。
追伸
もっと直接的に、情熱的に愛のことばを語りたいのですが、密林の空は僕を詩人にしてくても恋愛の達人にはしてくれないようです。
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