3 マギア

 ブルホたちは夢を操り、夢の中を旅するとされている。

 現世と異界のはざまを乗り越えるために、彼らは神秘的な舟で大河に漕ぎ出す。

 舟はいつしか異界、すなわち精霊の世界に入っていく。

 彼らは異界で精霊と出会い、彼らの教えを受け、彼らの力を借り、それを用いて、現世の災いをはねのけ、敵を打ち倒す。

 こうやって言うと、大変幻想的であるが、この幻想はカルパ(Euphorbia Alucinationis)とマイエン(Tabernanthe Maien)と呼ばれる植物のアルカロイドによって誘発されるものだ。

 カルパはトウダイグサ科、マイエンはキョウチクトウ科、どちらの科も毒性植物の多いグループである。

 カルパとマイエンも例外ではなく、こいつらはそれぞれ、カルパイン、マイエニンというアルカロイドを含んでいて、こいつがブルホたちの幻視の源である。

 ロマンのない言い方をするならば、薬物によるトリップ体験でしかない。

 しかし、これらは一種の野生の精神療法とでも言うべきものであり、宗教的陶酔の一つの到達点とも言えるものである。

 僕はカスタネダほど現地に溶け込まず、かといって、これをただの薬理作用ともとらえず記述することで、何か新しいものを引き出せるのではないかと考えていた。

 そのためにも、自分自身が宗教的陶酔の極みを体験したかったのだ。


 ◆◆◆


 僕の願いがようやくかないそうになったのは、開墾もあらかた終わった頃であった。

 「おまえ、まだ仲間になる気はあるか」

 フアンがある日の帰り道、唐突に言った。

 僕は突然のことばに驚いてしまって、山刀を操る手元がくるった。ツタを切るはずの山刀で、僕は自分のスニーカーをこすってしまう。

 僕はスニーカーに穴が空いてないかを確認した後に、スニーカーよりも大事なことを確認しわすれていたことに気がつく。

 「ダーダも良いって言ったの?」

 僕の言葉にフアンは苦笑しながらうなずく。

 「お前を見ると、いつも不機嫌そうなのにな。それでも良いってさ」

 ダーダというのは、フアンの曾祖母にあたる(はずの)老婆だ。年齢不詳だが、老婆ということだけはひと目で分かる。

 彼女はフアン一族の家長であり、ブルホたちの導師的存在である。

 ここのブルホたちは、全員がダーダによって、イニシエーションを受けたという。

 でっぷりとした女性で、彼女だけはスペイン語を話さない。

 彼女との意思疎通にはブルホたちの通訳が必要だった。

 とはいえ、ブルホたちもダーダのことばをうまくしゃべることはできないようで、ブルホたちがスペイン語で話しかけ、ダーダがぼそぼそと返すと、それをブルホたちがスペイン語に翻訳して話してくれる。

 ダーダの話す言語が何かは、僕にはよくわからない。

 記述言語学をやっているやつを連れてきたら、大喜びしそうだが、僕はあいにく人類学徒でどうにも見当がつかない。

 フアンによれば、聖なることばパラブラス・サンタス精霊のことばパラブラス・デレスピリトであり、精霊が教えてくれるのだという。

 ダーダは精霊の子であり、それゆえに一番力の強いブルホとされる。

 「俺たちは、カルパとマイエン精霊たちの贈り物なしでは、力を使えない。でも、ダーダだけは違うんだ」

 実際のところは、よくわからない。

 この世界の呪術マギアは、映画やゲームのように発動しない。

 「精霊を呼び、その力で病を治す」ところを見ても、普通の人には参加者が錯乱しているようにしか見えないだろう。

 知識のある僕は典型的な憑依儀礼だとわかるけれど、そんな僕だって、はじめて見たときは、皆がおかしくなってしまったのではないかと恐怖した。

 それでも、いや、だからこそ自分で経験することは大切だ。

 よくある儀礼で片付けていたら、何も始まらない。

 でも、今までずっとダーダの許可がおりなかった。

 

 フアンが儀礼のために必要なものをノートの切れっ端に書き出してくれた。


 まずは金。だいたい、この国の大卒の人間が首都で働くときの月収でいうと、三ヶ月分程度で、僕からしてもかなりの大金だ。

 それに生きた鶏を三羽、干し魚を三キロ、タバコを一カートンにジュースとビールをそれぞれ二ケースずつ。

 こいつらは儀礼の最中に消費される。鶏については供物としても用いられるから、生きていなければいけない。

 ランタンを満たすための灯油を一〇リットル、あとは、黒いローブを一着。

 それに……。


 結構な支出になるが、現地の人間もこれくらいは支払ってきていることを僕は見ている。

 ぼったくられているわけでも、足元を見られているわけでもない。

 フアンたちはがめつい。でも、外人だから、ぼったくるというようなところはない。全てに対して、がめついだけだ。ただ、その金をうまく使えない。あれだけ金を得ていれば、チェーンソーくらい買えるだろうに、そこは不思議である。

 ぼったくりではないし、これまでも見てきたものだけど……ただ、最後の……、

 「高級ブランデー?」

 銘柄の指定まであった。日本でも高級なブランド。もちろん、僕は飲んだことなんてない。

 「ダーダは最近寝付きが悪くて、寝酒が欲しいんだと」

 僕の加入が許された理由は、ダーダの不眠らしい。

 それでも構わない。

 感謝の気持をこめて、酒屋で探そうじゃないか。

 

 ◆◆◆


 歩いて、舟に乗り、バスに乗ると街に着く。

 チノという言葉に見送られながら、宿に入る。

 顔なじみとなったフロントのじいさんは挨拶代わりに「冷えたビールセルベッサ・フリア?」と言って笑う。

 宿泊カードの空欄を埋ながら、僕はうなずく。

 じいさんはフロント横のバーから冷えたビールをもってくると、鍵とともにこちらによこす。

 「にいちゃん、毎度のことだけど、あんたぁ、汚いからな、ベッドに転がる前に身体を洗えよ」

 もちろん、そのつもりだ。


 部屋を開ける。

 とうの昔に動かなくなったスマートフォンを充電する。

 ポケットからアーミーナイフを取り出して、ビールの栓を抜く。

 冷えたビールを喉に流し込みながら、天井の扇風機が回っていることを確認する。

 ビールを片手にバスタブに湯を溜めはじめる。使い古されたバスタブに黄色いお湯がたまっていく。最初こそ、汚水でないかと疑ったし、まぁ、実際、それほど綺麗な水でもないのだろうけど、もう慣れてしまった。

 鏡の中の僕に挨拶をする。

 やつの顔は汗をベースに土と埃でメイクされている。

 ぼさぼさでごわごわのごみだらけの長髪が揺れ、小汚い髭面が、おかえりと笑う。

 僕は鏡に向かって、ただいまと答える。

 久しぶりに発する日本語の音は、ほんの少し奇妙で舌がもつれる。


 僕は残り半分になってしまったビールを抱えながら、バスタブに浸かる。

 葉っぱと羽虫の死骸がバスタブに浮く。今回はおまけに蝶まで髪の毛にくっついていた。

 スネがかゆかったので、足をあげてみると、蟻の頭だけが食い込んでいた。体はとうに払われてしまっている。

 舟を降りたあたりで、蟻の行列に足を突っ込んでしまった跡がいまだに残っているわけだ。

 僕はスネに食い込んだ蟻の頭をつまむと、タイル上に投げ捨てる。


 風呂上がり、メールをチェックする。

 こんな僕にも恋人はいて、メールの返事すら三ヶ月に一度しか出さない僕を待っててくれている。

 それが当然の権利だなんて、傲慢な僕ですら思わない。

 だから、メールのチェックをするのは、とても怖い。

 僕が出した最後のメールに返事がないかもしれない。

 別れを告げることばが返事に紛れ込んでいるかもしれない。

 その可能性はいつだって十分にあるのだ。

 幸いなことに、僕はまだ愛想を尽かされていなかった。

 僕は多幸感につつまれながら、メールの続きを読む。

 一通、一通、彼女の声を思い出しながら、僕は至福の時を過ごす。


 それから、おもむろにノートを取り出す。

 森の奥の掘っ立て小屋とも言えない部屋、ランプの明かりのもとで、僕は毎日少しずつ、彼女に向けたことばを書き綴ってきた。

 それを読み返しながら、電子メールにうつしかえていく。

 電子メールは魔法だ。

 ブルホたちも羨む魔法だ。僕のことばを地球の裏側にいる彼女に伝えてくれる。

 僕は呪術師になる前から、魔法を駆使している。

 ただ、この魔法でも伝えられないことばもある。

 帰ったら、一緒に住もう。遠回しなプロポーズをしたい。

 プロポーズのことばを投げかけて、密林の中に戻るということはできなかった。

 もちろん、魔法を駆使すれば、半日の時差があっても、簡単に通話もできる。

 だから、電話で……いや、やはり、それでも躊躇してしまう。


 儀礼については、手紙には詳しく書かない。清書のときに省いた。

 彼らが用いる植物に含まれるアルカロイドは、どう婉曲的に書こうと、毒薬ないしは麻薬のたぐいであり、死亡事例も報告されている。

 僕はそれなりに丈夫な方だし、薬物などをやったこともないから、身体もそれなりに耐えてくれるだろう。

 それでも、そんなことは彼女には言えないし、家族にも言っていない。


 僕は彼女にあの星空を見せてあげたいが、死の臭いがそこら中に転がっているこの土地に彼女を連れてくることなんて到底できないだろう。

 ブルホたちに抱く相反する気持ちを、僕はこの地域一帯にも持っていた。

 僕は発展途上国をいけすかなくまなざし、論文という形で物語をつむぎ、地位や名誉、金に変えようとする。

 彼らはそれを感じ取っているにちがいない。抵抗しようとする。

 僕らの関係は、綺麗に記述できるものではなく、だましあいのようなものであった。

 彼らは協力者であり、詐欺師であり、僕もまた詐欺師である。

 僕たちは共犯的に物語を、いくつもの物語を創り上げる。


 毎晩、書き連ねた彼女への手紙、蝶についての一節も清書時に省いたところだ。

 最近、僕はよく蝶になって飛び立つ夢を見る。

 虫にさしたる興味のない僕だから、蝶にもさしたる興味はない。

 それでも、これまでの人生で蝶に関して、よく思い出すことがある。

 一つは、高校の時の生物で習ったアラタ体の話、もう一つはどこかで聞きかじったサナギの中の話だ。

 蝶の幼虫にはアラタ体という器官があって、そこから出るホルモンがサナギになろうとするのを止めるのだという。

 だから、このホルモンさえ補充し続ければ、幼虫のまま、どんどん大きくなるという。

 僕は幼虫のまま、大きくなり続けている。

 同級生が働く中、何の役に立つのかわからない研究を続けている。

 羽ばたくことも出来ないイモムシだ。

 僕は蝶になることができるのだろうか。

 サナギの中身はどろどろの液状なのだという。

 自分を一度解体して、美しい蝶に姿を変える。

 通過儀礼には、しばしば死と再生のモチーフが見られる。

 幼虫として僕は死に、大人として羽ばたくことができるのだろうか。

 この不安は、異国で危険な通過儀礼を受けることが原因ではないのだ。

 何者にもなれない僕の根源的なものなのだろう。

 こんなことを彼女に書き連ねて何になろうか。

 ただのイモムシの甘えでしかないのだ。


 身ぎれいにした僕は、ホテルのテラスにおもむく。

 頬にあたる風がほてりを覚ましてくれる。

 ここでコーヒーを頼むまでが街到着後の僕のお決まりコースだ。

 コーヒーの産地だけあって、本場ものが楽しめるなんてことはない。

 路地裏の露天や掘っ立て小屋で消費されているのは、アフリカ産の豆を使ったインスタントコーヒーで、僕が優雅にコーヒーを楽しめるのは、僕が「第一世界」から来たいけすかない若者だからに過ぎない。

 僕にしても、明日からはインスタントコーヒーのお世話になるのだ。

 

 それにしても、この地はどこまでも僕を感傷的にさせる。

 ブーゲンビリアの花が、色濃い赤らみを、眩しいくらいの白さを放つ。

 あれはブーゲンビリア、街なかで咲く花の名前も知らないとモテないわよ。

 彼女の言葉を思い出す。僕は精一杯格好をつけて、君にモテればそれでいいと答えた。

 甘い言葉、甘い声、甘いコーヒーの香り。

 運ばれてきたコーヒーから香り立つ湯気であごひげが濡れる。

 ソーサーに載せられた角砂糖を全て放り込む。

 日本にいるときはブラック派だった僕だが、ここではどういうわけか砂糖が必要不可欠だった。

 足がむずむずした。

 かかとを見る。

 プクリとふくれた小さなコブ。

 僕はカバンに入れた裁縫セットから針を抜き出すと、ライターであぶり、コブにつきさす。

 小さな卵を取り出す。

 おまえは一人前になれずに死んでいく。

 僕だってどうなるのか、わからないのだ。

 お互い様ってことで許してほしい。

 僕はスナノミに謝り、針をぬぐう。

 角砂糖を何個も入れたコーヒーをゆっくりと飲み、タバコをふかす。

 こんなときでも手放すことができない短波ラジオが日本語を話し始める。

 ネットは使えるけれど、動画をがんがん見るような通信量的、すなわち金銭的余裕がない僕が日本語の音をただで聞くことのできる少ない機会だ。 

 「朝の六時になりました」

 アナウンサーの言葉に答えるように、夕方五時になりましたと発音する。

 舌がもつれる。

 ニュースを楽しみ、危険情報に耳を傾ける。

 隣国の流行病は収まることなく、治安が悪化している。

 民衆は病で倒れるか、暴動の中で倒れるかという選択肢は治安だけではなく、政情不安までももたらしているらしい。

 折しも、テラスの脇にあるホテルのバーに置かれたテレビが隣国の政情不安についてのニュースを流していた。

 この街も含め、僕がいる地域は国境付近、そういえば、街なかには普段以上に兵士の姿を見かけた。

 憲兵ヘンダルメもたくさんうろついていた。

 ブルホたちがいくら呪術を行使しようと、伝染病や軍隊にはかなわないだろう。

 

 でも、この国も隣国も、小さな、さしたる資源もない国だ。

 日本ではニュースになんかなっていないだろう。

 僕はそれを願う。

 君に心配はかけたくないんだ。

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