鼻の出現

酒井創

鼻の出現

 その日、私は初めて入ったカフェにいました。友人との待ち合わせの駅に、珍しく約束の時間よりも早く着き、時間をもてあましていたためです。カフェは駅前にある昔ながらの純喫茶で、店内は少し暗いけれど落ち着いていて、雰囲気の良いお店でした。店内にはカウンターの向こうに老紳士のマスターが一人いるだけで、私の他にお客さんは一人もいませんでした。

 私は窓際の席に座り、まずホットコーヒーを注文しました。一息ついて正面の壁に目をやると、そこには古い幾何学模様のタペストリーが掛けられていました。タペストリーの模様はいくつかの文様が組み合わされたものでした。文様は同一の種類に見えるもの同士でも、一つ一つが微妙に異なっていて、そのわずかですが確かな差異は私に奇妙な印象を与えました。ですがタペストリーを引いて見てみると、全体としては統一感があり、何の違和感も感じられません。

 変わったタペストリーだな、と考えていた所で注文したコーヒーがテーブルに届けられました。香ばしい香りが私の鼻まで届いてきました。香りを感じながらカップを手に取りつつ目線を上げると、タペストリーの中央から象の鼻が飛び出ていました。

 それは何の前触れもない、余りにも唐突な出現でした。いつから鼻が出ていたのかはわかりません。気がついたときにはもう、象はこちらの世界に鼻をのぞかせていました。鼻以外の目や耳や口や胴体や足やしっぽといった他のパーツは、結局最後までこちら側に現れませんでした。鼻だけがこちらに来ていたんだと思います。

 象がすべてのパーツを動かすのは重くて大変なことですから、鼻にだけ、悪いけど出張してきてくれよ、とお願いしたのかもしれません。もしくは、鼻が思いつきで散歩に出かけたら、見知らぬ場所に迷い込んでしまい、タペストリーの裏側にたどり着いたのかもしれません。

 何にせよ私の目の前には象の鼻だけが現れて、私はその鼻と対峙しなくてはならなくなったわけです。

 鼻が現れたとき、店内にいたのは私と鼻だけでした。カウンターの向こうにいたマスターはいつの間にかいなくなっていました。つまりそのとき、そこにいた鼻は私の鼻と象の鼻の二鼻だけだったということになります。二つの鼻に対してコーヒーは一つですから、必然的にその一つのコーヒーの奪い合いになるわけです。ですが私はそのことに気がついていませんでした。鼻の出現が私の中から正常な判断力をすべて奪い去っていました。

 象の鼻はゆっくりと私に向かって伸びてきました。正確には私が手に持っているカップの中のコーヒーに向かって。私はそれを見ていることしかできませんでした。コーヒーに近づくと、鼻は恐る恐る匂いを嗅ぎ、そっとコーヒーを吸い上げました。熱さを恐れたのか、味を知らないからなのか、ごく少量だけを吸い上げたように見えました。

 それから少しの間、鼻はコーヒーを味わっていました。もっとも鼻がコーヒーの味を感じられるのかはわかりませんが。鼻はコーヒーの香りや味がお気に召さなかったのか、二鼻目に進むことはありませんでした。鼻は鼻全体を何度か細かく震わせると、そそくさとタペストリーの中に引っ込んでいき、私の目の前から消えました。

 私はずっと固まったまま、一部始終を呆然と眺め続けることしかできませんでした。鼻がいなくなった後もしばらくは、手にカップを持ったままの姿勢で硬直していました。もうそのときには、鼻に吸われたコーヒーはすべてを失い、全くの別物に成り代わっていたんです。私はそのことに気づかず、無意識にカップを口に持っていき、中身をすすってしまいました。その結果は私の鼻を見て頂ければ、もうお分かりだと思います。


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鼻の出現 酒井創 @hajimesakai1223

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