第12話 運命の最終セット
6-6
泣いても笑っても最後のセットの火蓋が切られようとしていた。観客も呼応するように両者の応援が加熱していく。
13セット目は大野のサービスゲームであった。
両津となった大野のサーブは冴え渡っていた。あれほど入らなかった外国人の鼻サーブも入るようになり、優位を取れるかと思いきや、ユウキも負けず劣らず、元バレー部副部⾧の意地を見せて、リターンを返してくる。
「この試合どっちが勝っても新時代の幕開けじゃのぉ」
観客席で一人の老人が呟いた。
「え、なんでですか?そういうあなたは誰ですか?」
横の青年が老人に問う。
「いや、彼等のテニスはもはやテニスの枠を超えておるからのぉ。もはやこれはテニスじゃなくて小さな戦争じゃわい。ちなみにワシは藤原こうへいじゃわい」
「え、あなたが伝説のグランドスラム50 勝の藤原さんですか?」
「うむ、そうじゃ。あの頃に比べてテニスは変わってしもた。単なる技術を比べるだけのものが、今や己のプライドとプライドをかけた漢同士の戦いになっておる。こやつらを見ておると、わしも昔の血が騒ぐわい。」
そう言って老人はその場を去った。
藤原こうへいはプロとして数々の栄光を手にしてきた。
前人未到のグランドスラム50勝に加え、600連勝、2年連続首位打者、3度のバロンドール、G1では芝4勝ダート2勝、サイバー大学名誉教授の称号、ベストジーニスト賞、出勤皆勤賞、残酷な天使のテーゼで100点、ブラインドタッチ、犬から好かれやすい性格etc...
挙げればキリがないほどの、栄光を手にした裏には挫折もあった。
それでも藤原がプロとしてのキャリアを成功させた要因として大きかったのは、テニスが好きであるということだけである。
引退後も数多くのプロテニス選手を指導しており、”東織圭”や、”岐阜なおみ”も藤原が、メールでアドバイスを送っていたというのは言うまでもないことである。
藤原は生後4 ヶ月でテニスを始めた。
彼が生まれたばかりの頃、日本は戦時中であり、ろくに外に出ることすら危なかったという。
テニスボールも当時はそれほど出回っておらず、不発の手榴弾をボール代わりにして打っていたこともあるという。
その際に友人の光一は爆発して亡くなったという逸話もあるほどだ。
彼がテニスを本格的に始めたのは13 歳の頃であり、日本がちょうど”第二次世界大戦”で敗戦国となったばかりの時である。
アメリカの奴隷として参加したメキシコオリンピックでは、まさかの銀メダルを獲得し、彼は一躍スターダムに乗ることになる。
その後の彼は怒涛の200 連勝を達成し、いつしか藤原は”japanese great smash ”(日本の偉大な強打)と呼ばれるようになり、今日の活躍に至る。
テニスの歴史そのものを変えたとして言われており、彼の前後でテニスは大きく変わっていった。
彼の有名な名言で下記のようなものがある。
「テニスはおっぱいと一緒だ。優しく打つ時もあれば、強く打つ時もある」
今なお、数多くのテニスプレーヤーの心に深く刺さっていることだろう。
そして、藤原の意思は若いプレーヤーへと継承されていった。
そんな藤原は幼少期にはテニス以外にも、サッカーをプレイしていた。
天性の運動神経に恵まれた彼は若干11歳にして、日本代表の10 番を背負うものとして選出された。
しかし、当時は”玉”や”張嶋”といったプロ野球の全盛期であり、サッカーの人気というのは、ごはんのお供で言えば塩辛くらいで、好きな人は好きだが、ごはんで食べるのは、うーんと言う人が多いのと同じで、今ほどの国民的スポーツのようなものではなかった。
世間の声も
「サッカーなんてやらずに農業やってくれよ」とか
「サッカーよりフットサルのが人少ないし、おもろくね?」
「スパイクは紐よりも、マジックテープのが楽だよね」
といった逆風の声が多かった。
そんな中、行われた第9回ワールドカップにおいて藤原は、周囲の声を蹴散らすかのような活躍を見せる。
1 回戦で負けるかと思われた日本は、圧倒的エースの藤原を中心に、DF には”吉田婆也”や、FWでは”久保髪フサ”などが躍動し、ワールドカップ初出場ながら、決勝の舞台にまでたどり着いて見せたのである。
決勝の相手は宿敵ブラジルであった。
ブラジルはすべての選手のレベルが高く、どこからでも点が取れるような攻撃、鉄の壁と呼ばれた守備、隠し味にはオリーブオイルの速水、など弱点という弱点がない完璧なチームと評されていた。
試合は熾烈を極めた。
藤原が得点を決めたら、相手のロナウジーニョが決めてくる。
ロナウジーニョが決めたら、藤原が決める。
藤原がパスをしたら、ロナウジーニョが決める。
ロナウジーニョが決めたら、ロナウジーニョが決める。
藤原が外したら、ロナウジーニョが決める。
藤原がPKを獲得したら、ロナウジーニョが決める。
ハーフタイムの15分の間にもロナウジーニョの猛攻は続き、後半戦開始時には、すでにスコアは12-3となってしまっていた。
当時のことを藤原はこう語っている。
「いやぁ、正直昔過ぎてあんまり覚えてないね(笑)」
結果的に、日本はブラジルに敗戦こそしてしまったが、世界に対して実力を証明した。
その大会以来、ワールドカップにおいて日本は優勝はおろか、決勝にすら到達していないことから、藤原というプレーヤーの偉大さはわかっていただけることだと思う。
色々な伝説を残してきた藤原にも苦手な事は唯一1つだけ存在した。
藤原は大の甘党であり、毎日欠かさず2L のコーラを3 本、カントリーマームを1 袋、ポッキーを20 本、ハイチュウを4 本は必ず接種する生活を送っており、医者からは糖尿病であるから、甘いものをやめろと言われていた。
しかし、彼は甘いものを遂には断つことができなかった。
そんな彼は、現在76 歳にして、両足切断の手術を控えている。
糖尿病になると、血液の中の血中糖度が高くなり、心臓やその他臓器の機能不全を引き起こす症状のほかにも神経症や血管不良を引き起こし、症状が悪化すれば足の壊疽へとつながる。
手術に臨む藤原の目には、覚悟をした男の姿があった。
どんな逆境があっても絶対に挫けなかった、あの頃のように彼は自分自身の未来に向けて大きく足を踏み出した。
厳密には、手術をした場合両足を切断することになるため、車椅子の車輪を漕ぎ出すことになるという表現のが正しいのだが、それはまた後の話ある。
最後に藤原はこう語ってくれた。
「俺の先に、道はない・・・俺の後ろに道ができる。
セメントを敷いて、専用の機械でならした後に、数時間おいて固めたら石灰で白線を引いてガードレールを付ける。これが一連の動作だ」
彼の眼には、未来を見据える若者のような輝きがまだ残っていた。
試合は色々あったが、大野は13 セット目を獲得して優勝した。
勝った大野の髪の毛は全て抜き去っていた。
「いや、勝っても負けてもハゲるんかい!」
大野は天に向かって一人ツッコミをいれた。
大野が優勝を決めたのと同時刻、藤原はロッカールームにいた。
藤原は全麦オープン会場のロッカールームを見て懐かしさを覚えていた。
何を隠そう第1 回全麦オープン優勝者はこの藤原だったからだ。
藤原が全麦オープン決勝の舞台に立った時、彼はすでに世界No.1プレイヤーとしての地位を確固たるものにしていた。
その同年行われた全国子供会マスターズでも全試合ストレート勝ちを納め、全麦オープンも藤原の優勝は確実視されていた。
しかし、試合は予想外の接戦となっていた。
対戦相手は、後にテニスの大将と呼ばれる”ボブ・デュック”であった。
7 時間30 分にも及んだ戦いの末、藤原は悲願の初優勝を納めた。
藤原は優勝者インタビューで以下のようなことを語った。
「全麦オープンには魔物が潜んでいる。
サイズは15mで重さは4t、首はキリンくらい⾧く、足はチーターくらい早い」
藤原の戦いは、まだまだ始まったばかりである。
------終わり------
【12話完結】大野かんた プロテニスプレーヤー物語 ☆くらっしー☆ @kurara477
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