プロローグ②

   ***


 話は数日前に遡る。場所は避暑地の森の中、広い湖が眼前に広がるふもと

 美しい景色にこころうばわれたかったフルールだったが、あいにくと心も視線も別荘のとなりに立つ屋敷にくぎけだ。思わず貴族の令嬢らしからぬあんぐりと口を開けたぜんの表情まで浮かべてしまう。

 そんな建物から出てきたのはリデットこうしやく家のヴィクター・リデット。うすみず色の髪と紺碧の瞳が麗しいと社交界を騒がせる公爵子息である。だんしやく家のフルールと公爵家のヴィクターでは身分の差こそあるものの、両家は何代も前からこんにしており、いわゆるおさなじみという仲だ。

 ……もっとも、ヴィクターは『幼馴染』では満足していないようだが。

 それはさておき、当然のように建物から出てきたヴィクターはまるで待ち合わせをしていたかのようにフルールをむかえてくれた。その堂々とした態度といったらなく、逆にフルールが「もしかしてヴィクターと過ごす予定だったかしら……?」と自分の記憶を疑って手帳を開いてしまうほどである。

 ちなみに手帳にはそれらしい事は書かれていなかったので記憶ちがいでは無かった。それはそれでヴィクターがここにいる事が問題になるのだが。

「やぁフルール。ちょうどきみに会いたいと思っていたんだ。こんなところで会えるなんてうれしいな。きっと僕のおもいが伝わったんだ」

「別荘の場所を知られてるのは仕方ないとして、今日この日に来る事はどこから情報が漏れたのかしら……。屋敷にはかんこうれいいてるし、友達にはくわしい日程は伝えないようにしてたのに。……まさか伯母おば様? それとも従兄弟いとこ経由かも。でも親族を疑うのはつらいから深入りするのはやめましょう」

「ここは涼しくて過ごしやすい場所だから夏用の別荘を建てたんだ。そうしたらまさかフレッシェント家の別荘の隣だったなんて驚きだ」

「さすがにここまでピッタリ隣接しておいてぐうぜんよそおうのは無理があるわよ、ヴィクター」

 一刀両断ぴしゃりとフルールが言い切ればヴィクターがさわやかに微笑ほほえんだ。……微笑むだけで何も言わないあたり、このままそうと考えているのだろう。バツの悪い話題はうるわしい微笑みで流す、彼のじようとうしゆだんの一つだ。

 そうはさせまいとフルールはじっとりとした目つきで彼を見上げた。幼いころは身長差もあまりなかったのに、いまやすっかりと頭一つ以上の身長差をつけられてしまっているではないか。今このじようきようではそれすらも不満の一つだ。

 だというのにヴィクターは動じず、むしろフルールに見つめられている事が──にらまれているのだが──嬉しいのかみが強まっていく。挙げ句に悪びれる事なく、やわらかく微笑み「そんなに見つめてくれて嬉しいな」とまで言ってのける始末。

 しさと品の良さをたずさえたじよう。女性ならば誰もがれて熱っぽいいきいてしまいそうなほど麗しく整った顔。

 そんなヴィクターが微笑む様は絵になっている。社交界のほとんどの女性がこの笑みを前にすれば胸をときめかせるだろう。

 だが残念ながらフルールはその『殆どの女性』には当てはまらない。ヴィクターの微笑みを前にしても胸をときめかす事は無く、むしろ彼の微笑みが麗しければ麗しいほど白々しく見えてくるのだ。

「そうやって微笑めば誤魔化せると思ってるの、バレバレなんだからね」

「フルールにはすべてお見通しか、参ったな。でもそれほど僕の事を知ってくれているのは嬉しいな。ところでフルール、立ち話もなんだから庭に行かないか? フルールが好きそうなアーチを用意したんだ。ながめられるようにテーブルセットを用意したし、お茶をしながら夏の予定を立てよう」

 おだやかに微笑みながらヴィクターがうながしてくる。

 いつの間にか別荘横に建てられた建物、ちゃっかりと庭に用意されているというフルール好みのアーチ、さらには夏の予定……。リデット家の別荘だけでも驚きなのにぎ早に話が展開され、何をどこからたずねるべきなのか分からなくなりそうだ。もはや呆れているのかおこっているのか自分の事さえも見失ってしまう。

 そんなフルールのちんもくこうていと取ったのか、ヴィクターがゆうに庭へとエスコートしてきた。


「それで、気付けばヴィクターと庭でお茶をしていたのよ。本当に勝手なんだから。……でも確かにてきなアーチだったわ。レンガ造りですご可愛かわいくてね、しかも眺めていたらリスが通っていったの! どこで入手したのか聞くのを忘れちゃったのがしまれるわね」

「後でリデット家に聞いてまいります。それで、お茶をした後は?」

 ルドに促され、アーチの事を考えていたフルールははっと我に返った。

 次いで自ら話をそらしてしまった事を誤魔化すようにコホンと一度せきばらいをし「それでね」と話を続けた。


 まるで当然のように隣に屋敷を設けていたヴィクターに流されるように、しよでの生活が始まった。

 朝は別々だが、昼は彼と共に湖を眺めながら食事をし、その後は湖をボートで一周しようといどんだり森の中を散策したりして過ごす。その流れで夕食も共にり、食後のお茶を楽しんだあと「もう少しいつしよに居たいけど、さすがにここは引かないといけないかな」とヴィクターが自ら辞退して別々に夜を過ごす。

 そんな湖畔での日々を過ごし、今日。

 避暑地での生活も明日で終わりだとフルールは湖の美しさを改めて楽しんでいた。

 隣には当然のようにヴィクターが座っている。彼をちらと横目で見て、フルールはまったくと言いたげにこつためいきを吐いて見せた。

「結局ずっとヴィクターと一緒に居る羽目になったわ」

「そりゃあフルールが居るんだから僕が一緒に居るのは当然だろう。フルールが居る所に僕が居る、当然であり普遍の理論だ」

「真顔で独自理論を語ってくるわね」

 呆れた、とフルールがヴィクターを睨みつける。もっとも、睨んだ程度で彼が考えを改めるわけがないのは十年以上の付き合いで分かっている。

 現にヴィクターはまったく悪びれる様子無く、それどころか「楽しい夏だったね」とまで言ってすではないか。

 挙げ句に、穏やかに微笑んだままそっとフルールの手を取ってきた。大きな彼の手にれられてフルールがピクリと肩をふるわせる。

「……ひと夏の思い出、か。いとしいフルール、最後にもう一つ特別な思い出をくれないか」

 ヴィクターのこんぺきひとみがよりいろくなる。まるで瞳の奥にほのおともしたかのような熱い視線。男くささを感じさせない彼だが、この瞳に見つめられている時だけは男だと意識させられる。

 どうが速まり、フルールはおのれの顔が熱くなるのを感じた。まるで彼の瞳の炎が燃え移ったかのように、顔が、胸が、熱い。

 とつに手を引こうとするも、ヴィクターの大きな手に包まれるようにつかまれては手を引きく事が出来ない。それどころかがすまいと強く手をにぎられた。

 痛くはない。だけど強く握られた事でよりきんちようが全身をこわらせ、もはや手を動かすすべすらも分からなくなりそうだ。

 そして取られた己の手がそっとヴィクターのくちびるに寄せられるのを察し、鼓動にも熱にももうえられないと息をんだ。

「逃がさないよ、僕のフルール」

「逃がさないなんて、そんな、だからそういうのは困るって言ってるじゃない!!」

 さそうようなヴィクターの言葉に、悲鳴じみた声で返す。

 次のしゆんかん、フルールはパッとしゃぼん玉がはじけるようにその場から姿を消した。

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