第5話 パーティのあと

 さてそれから、パーティが終わったのか、あるいは途中で抜け出してきたのか、わたしたちは二人で食堂の外にいました。年暮れの、真冬の夜のことでしたけど、上着もなく、ひどく寒かったように記憶しています。わたしはこの日、この冬初めて、もう吐く息が白く凝固するほどなのだと知ったくらいです。それで、わたしが寒さに身を震わせていると、ナオスミが少し前の方から、「送るよ」と一言言いました。直ぐそこだから、送る必要はない。と、わたしはたったそれさえ言えなくて、ですから彼に従うほかありませんでした。


 ナオスミが三歩先を歩いていました。彼はポケットに手を入れ、ときおり寒そうに身を捩らせていました。曲がった背中、わざとらしい寒がり方が、彼の後ろ姿の特徴でした(彼はいつでも他者から見られる立場にいたのです)。そして、わたしが口を利かないものだから、彼は気まずくて、たびたび「寒いね」と、そうくり返していたのでしょう。


 ですが、わたしはそのたびごとに、何だか胸が押しつぶされそうな感じを覚えるのです。それは、いまでは容易にわかりますが、わたしはこんなにも臆病なままじゃないか、という自己嫌悪の感情でした。変われたと思っていたものが、ちっとも変われていなかったのだという、自分自身への失望の気持ちです。


 わたしは、彼のもう何度目かになる「寒いね」を聞いて、ついに喉元から何かが込み上げてくるのを感じました。つんと鋭く鼻が痛んで、それから堰を切るように涙が溢れてきました。さらさらとした、真水のような涙。それは頬から顎を伝って、やがて服の襟元を濡らしました。かっと燃えるように体温が上がってきて、服の中に冷や汗のような汗が噴き出しました。わたしは嗚咽を洩らさぬようにと、慌てて手のひらで口を覆いました。それでも、息が詰まって、まるで咳でもするように、嗚咽は洩れ出てしまいます。わたしはそれを、彼に聞かれたくなくて、思わずその場に立ち止まりました。


 しかし、気遣い屋の彼のことですから、その思惑は直ぐに見破られてしまいました。彼は立ち止り、後ろを振り返りました。


「どうしたの?」


 と、彼は言うと、わたしが泣いているのに気がついたのでしょう。二歩、三歩と歩み寄り、わたしからすんでのところで立ち止まりました。世界から、ぴたりと風が失われたかのように思いました。彼の背中が、わたしからすべての風を堰き止めてくれたみたいに。すると、わたしには、彼の体温が、わたしたちを隔てる窒素とか酸素とかの分子を介して、肌の表面にぴりぴりと鋭敏に感じられるのがわかりました。それは、それだけ二人の身体が近くにあった、ということでもありますが、それ以上に、このときのわたしが以下のように考えていたからでございましょう。


 すなわち──『ああ、わたしはこれから、彼にうんと優しくされるんだわ』


 わたしには、これから起こるだろうすべてのことが、それこそ手に取るようにわかったものです。わたしはそれを心地よく思ったし、同時に悔しくも思いました。だって、そうでしょう? 突然わがままに泣き出した女が、よく知らぬ男の人に優しく抱きしめられるだなんて……そんなの、まるで漫画かドラマの世界じゃありませんか。わたしは悔しくて、彼を押し退けようとも思いましたが、しかし実際に起こったのは、次のような事態で、それはわたしの想定からして、全然考えてもみないことでした。


 彼は右の手を、ゆっくりとわたしの目元まで伸ばしてきて、ただそっと、これから頬を濡らそうとする涙の粒を、優しく拭ってみせたのです。彼の手がわたしの下瞼に触れるとき、その冷たさに驚いたのか、わたしの身体はびくりと小さく痙攣しました。しかし、そのあと直ぐに、瞼をなぞる彼の愛撫の優しさを感じて、涙の熱が、彼の手を温めてくれたらいいのに、と思いました。


 彼の手が目尻から離れたとき、わたしは恐る恐ると目を見開いて、改めて彼の顔を(今度は薄闇の中でしたが)まっすぐ見つめました。ああ、さっきまで憎々しいばかりだった彼の顔の、なんと美しいことでしょう! 彼は同情的な目を浮かべて、わたしを見下ろしていました。ただし、その目はわたしの涙を見ているのではなく、涙で潤む瞳のずっと奥の方、わたしの心の凍り付き、すっかり凍えてしまっているところを覗いていたのです。それはまるで、わたしのすべてを見透かそうとするような、わたしを吸い込んで、彼の頭の中に閉じ込めてしまおうとするかのような目つきでした。


 わたしは急に恥ずかしくなって(あるいは恐ろしかったのかも知れません)、思わず一、二歩と後退り、彼から目を逸らしました。彼の方も、「ごめん」と言い、それからやがて黙り込みました。彼はわたしから目を逸らして、後ろを向き、何だか照れくさそうにして、わたしから離した手を空中に遊ばせていました。こうした彼の振る舞いが、彼にとっての処世術であったのか、それともただの偶然だったのか、いまのわたしには確かめる術もありません。ですがともかく、わたしは彼の素朴な優しさを嬉しく思い、感動したのです。


 それから、この夜は、少しの会話も交わされないまま、直ぐに解散となりましたが、部屋に帰ったあとも、わたしの頭は熱ったままで、同室の者たちからは、さんざ訝りの目を浴びせかけられました。深夜、ベッドの上にあっても、わたしは上のシーンが忘れられず、まんじりともしないで、何度も思い返しては、激しく身体を捩らせました。その回想が、彼のことをことさらロマンティックに飾り立てていたことは、彼女が中学の少女であったということに免じて、どうにか赦していただきましょう。

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