第二章 ナオスミ

第4話 ナオスミ

 十二歳になり、わたしは中等部に上がりました。そして、わたしが再び恋に落ちたのは、ちょうどこの辺りのことになります。この頃のわたしは、初恋の折と比べると、幾らか社交性を獲得していましたから、二、三の友達もおりましたし、パーティや催しごとに自ら参加することだってありました。そうなると、世の常として、人はこれまでになかったような人間関係を持つことになります。彼との出会いは、まさにそういった場面においてでした。


 寄宿舎では、毎年年暮れになりますと、(あなたもご存知かも知れませんが)食堂を開いてパーティが催されました。それは、花飾りもなければ、バンドやダンスもない、たとえば昔の映画なんかで見るものと比べてしまうと、決して煌びやかとは言えない淡泊なパーティでした。ですが、それでも生徒であれば寄宿生以外からでも参加が可能であり、食事が普段と異なりビュッフェ形式になることもあってか、毎年多くの参加者が集い、盛況になったものです。このとき、わたしにとっては初めての参加で、これほど大規模な立食パーティの経験もありませんでしたから、前々からこの日が訪れることを待ち望み、首を長くしていたのをよく覚えています。


 わたしたちは部屋の隅の方で、ひそひそと楽しくやっておりました。そこに、彼は声をかけてきたのです。


 とんとん、と肩を叩かれ、わたしは振り返ります。すると、一人の男の人が、彼の右耳のふちを人差し指で二、三度ちょこちょこと指さし立っていました。これは、わたしたち生徒の間で通じる「チャンネルを合わせろ」という合図で、つまりはわたしたちの会話に自分を入れろと要求しているのです。わたしは半ば反射的に、彼をわたしたちの会話に招き入れました。


「きみがS・マイカだろうね?」(わたしは、この本名を初めてあなたに告白します。だけど、あなたにとってはさほど重要でもないのでしょう。あなたがカオリさんについてさえ名前を言えず、ずっと「鳥の女」と心の中で呼んでいたように)。


 その声は、何か探るようなふうではありましたが、とても気さくで、感じのいい調子でありました。また、その年頃の男声にしては、いささか高い方で、特徴のある、耳に残る心地のよい音をしておりました。率直に言って、わたしは彼の声が好きでした。彼といいますと、同い年の男性であり、名前はナオスミといいました。彼は、もともとわたしとは縁遠い人物で、二年生のとき初めて同じ学級になったのですが、わたしとナオスミとでは、それまでいっさいの面識がありませんでしたし、わたしとしては(たとえ同級であったとしても)彼を認めていませんでした。ですが、彼の方はというと、わたしのことをずっと以前から知っていたようであります。


 しかしわたしは、突然名前を呼ばれたこともあり、びっくりして、背後をきっと鋭く睨めつけました。この頃のわたしは、友人の後ろ盾さえあれば、うんと勇気が湧いてきて、どんなことでもできてしまったのです。そしてそのことを、いっさい彼女らのおかげだとは思わずに、すべて自分の能力──単なる内気だったあの頃とは違う、成長により獲得した自分だけの力──だと思い込んでいました。わたしはまさに、「内気」でした。自分の心は自分だけで完結し、周囲の存在はいっさい作用しないのだと、本気で信じ込んでいたわけですから。


 そんなわたしですから、相手を睨めつけたあと、その口は以下のように続けました。


「そうだけど……だったとして、あんたに何の用事があるわけ?」


 それを──しかしナオスミは、軽く口角を持ち上げ、鼻息とともに存外上機嫌に受け入れました。彼はわたしの態度を、なぜだか気に入ったらしいのです。彼はにやけ面を隠すように、右手を口に押し当てて、面白そうにわたしを見下ろしました。ですが、わたしとしては、彼の態度が気に入りませんでした。普段おとなしい女が、パーティだからと不遜な振る舞いをしていると、鼻で笑われたのだと受け取ったのです。だからわたしは攻撃的に、たぶん腰に手でもあてがいながら、ずいと大きく一歩を踏み出し、いっそう眉をひそめて相手を見上げました。


 友人たちは、わたしを後方から、心配そうな目つきをして──わたしにはその目を見られるはずもありませんが、このときはなぜだかそう思えたのです──見ていました。突然見知らぬ男の人が、馴れ馴れしく話しかけてきたのですから、仕方がありません。他方ナオスミの方も、一種特別な目でわたしを見ていました。大きな目を皿のように見開き、まるでわたしの瞳に映る、彼自身の姿に見とれているみたいでした。彼がそうやって何も応えないものですから、わたしと彼とはしばらくの間、まっすぐ視線を交わし合ったまま静止していました。彼の目は透き通るようなブラウンで、部屋の灯りに当てられて、きらきらと輝く、まるで黒く美しい水晶のようでした。


 一分間もの沈黙のあと、ナオスミは少し照れたみたいに、突然何やら思い出した様子で、わたしから目を逸らして言いました。


「おれはこのひとに用があるんだ。悪いんだけど、きみたちは少し外してくれないかな?」


 それがわたしの友人たちへ向けられた言葉なのだと気がついたとき、彼女らはすでにこの場を立ち去る決心がついたあとでした。わたしがふいに振り返ると、彼女らは云々と言って、遠慮深げにわたしから背中を向けました。「待って」と声をかけることすらできずに、彼女らは人集りの中へ、ずんずんと遠ざかってゆきます。わたしはそれを目で追いかけて……ふっと、悲しさとも恐ろしさともつかない、新しい感情が胸中に芽生えたことを知りました。わたしは急に心細くなって、ゆき場を失った手を、だらりと下に垂らしました。彼女らは人混みの中に消え、わたしは一人立ち尽くしていました。そのあと、ナオスミに何をされたのか、彼と何を話したのか、わたしにはいっさい覚えがありません。

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