第一章 幼年時代

第2話 初恋

 わたしにとって恋とは、ただ相手を回想し、空想を膨らませるばかりの行為でした。つまり、それは手を繋ぐでも、身を寄せ合うでも、キスでも、セックスでもありませんでした。ましてや、浮かれた祝宴やダンスであったはずがありません。眠れない夜のベッドの上や、市で誰かに目を惹かれたとき、ともかく何かがわたしに恋を催させたとき、わたしの意識は針で刺されたような胸の痛みと共に、空想の世界へ溶けてゆきました。きっかけは、何であってもよかったのです。それこそ、少女の見るようなうっとりとした夜の夢であっても。そうした点でいえば、わたしには、たしかにどこか自分が変わり種だという覚えがありました。わたしの感性は、まったく十歳のままでした──


 十歳。そう、十歳のままだったのです。いま、どうしてわたしは十歳と書いたのか? 何も九歳でも、十一歳でも構わないではないか、とあなたは思われるかも知れません。あるいは、「子供の頃」とか「少年時代」とかいう、広義の言葉を使ってもよいのではないか、とか。しかし、あえて書いたからにはこだわりがあります。つまりはそのこだわりについて、わたしは以下に書こうと思うのです。


 これの説明のため、わたしはどこから始めるべきだろう?


 悩ましいけれど、さしあたり、初めての恋についてから書くことにしましょう。きっと何事であっても、線形的な、順序立てられた説明がもっともわかりやすいから。


 さて、わたしの初恋は、誰にとってもそうであるように、ひどく愚かしいものでした。それは夢のように淡く、幻想的で、それでいて生涯唯一純然たる真正でした。ところで、当時のわたしは恋をするには内気過ぎたし、何より人付き合いに不慣れでした。ですから、わたしたちの間に、恋人らしい交渉などあったはずもありません。あの頃のわたしは、ただ自分の愛人をずっと目の端で追いかけていたものです。特にわたしは、愛人の後ろ姿を眺めることに、幼年の時間の多くを費やしました。滑らかで艶のある黒髪と、うなじから覗く生白い素肌。シャツの襟がいつも折れ曲がっていたことを、いまでもよく覚えています。堪え性がないのか、十分もすると身体を捻って坐りなおすのが、愛人の悪い癖でした。わたしはこのとき以来、後ろ姿というものが、さやかにその人の特徴を表すことを知っています。


 また、ときおり相手を真似るというのが、気弱な年少者にとっての最大のコミュニケーションでした。当時のわたしからはとても生み出されないような言動を、相手に見せつけるようにするのが、幼い冒険心を強かくすぐったのです。ですから、わたしと愛人との間に、会話と呼べるものは一度としてありませんでした。きっとあの人は、わたしのことなど初めから眼中になかったのだと思います。しかし、どうしてでしょう、当時はそれで十分でした。遠く耳にする愛人の声が、わたしの耳をひどく喜ばせましたし、その横顔を見ているだけで、わたしの心はまるで水鳥のように、大きく波紋を生んで舞い上がりました。その波は少しずつ胸いっぱいに沁み渡って……やがて岩を削る荒波のように、心にひびを入れ、侵食して、ついには化石した水がずっしりと重しとなって全身を苛むのです。そういうとき、いつも空想を膨らませる孤独な習慣だけが、唯一わたしを慰め、恋の胸痛を癒してくれました。


 しかし、これも少年の心にはよく起こることでしょうが、取り巻く環境が変わると、それこそ夢から醒めるみたいに、わたしは愛人のことをきっぱりと忘れてしまいました(上には書き忘れましたが、我が初恋の舞台はあなたもよく知る例の寄宿学校です。当時、わたしは市の他の子供たちと同様に、あそこの生徒だったのですよ)。ときおり学舎ですれ違っても、別段何も感じられなくなりました。それどころか、新しい交友の中で幾らか外向性を強めてゆくかつての情人を、わたしは軽蔑さえしたのです(わたしが好きだったあの人は、思うに単なるおとなしい好人物でした)。

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