第5話 考察の続き
「まず男は親父が小屋に入ってきた時に、すぐには声をかけなかった。親父が食事をしているあいだ、ずっと暗闇から様子を伺っていた」
私は続けた。
「男は、親父が男の存在に気付かなかったら声をかけるつもりはなかったんだ。そのまま親父が寝るまで待っていたと思う」
「待っていた? お父さんが寝るのを?」
「うん」
「何で?」
私は母親の質問には触れず、話を進める。
「でも気付かれたから、姿を現した。そして食事中に、親父が一人なのかどうか、連れはいるのかいないのか確認している。親父もそのことは不思議に感じていただろ? そりゃそうだよな、確認するまでもないことなんだから」
「そうね。一人なのは見れば分かるわよね」
「だろ?」
私は再び口を開く。
「男は、質問したことで親父に疑われ始めたことに気付いた。その後に『誰かに見られている気がする』と言い出したのは、『本当に一人なのか?』という質問の怪しさを誤魔化そうとしたんだよ。親父の警戒心を解くためにさ」
「いきなり幽霊の話を始めたところでしょ?」
その箇所は覚えていたのか、急に母は活気づいた。
「幽霊」という単語はノートにひと言も出てきていないはずだが、母の中では「幽霊の話」になっていた。
私は「そうそう」と軽く受け流して話を続ける。
「男は親父に警戒されたことに気付いた。だから、いったんその場から離れることにした。そうすれば油断するだろうからね。実際親父は男の話を真に受けて、男の心配までしている」
「『誰かに見られている気がする』っていうのは、丸きりの嘘だったってこと?」
「そうだよ」
「そうなんだ」と、母は感心した顔つきになる。
「そのあと、親父は三十分くらい男を待った。だが戻ってこないから、結局諦めて寝てしまった」
最初は訳が分からないと言いたげだった母も、今や話に聞き入っている。私は満足し、ビールを再び口に含んだ。
「そのあと、寝ている親父を男がすぐ近くで見下ろしているって書いてあったろ?」
「あれは、お父さんが寝ぼけていたんじゃなかったの?」
私は頷いた。
「寝ぼけていたんじゃない。男は本当にそばに来て、寝ている親父の様子を伺っていたんだ。起きていないかどうか、確認するためにね」
「何で起きているかどうか確認したの?」
私はちょっと黙った。
ただの怪談話をしているわけではない。
自分の父親が関わる話だ。
いくら五十年近くも昔の話で、当の本人は既に死んでいると言っても余り気持ちがいいものではない。
だがここまでくれば乗りかかった船だ。
私は思いきって言った。
「親父の……荷物を奪うためだよ。男はたぶん、山に来る人間を襲って生活していたんじゃないかな。だから『普段に滅多に人に行き合わない』ような山に、定期的に来るんだ」
「女性を狙っていたんじゃないか」本当はそう考えていたが、母親に対してその推測を話すのはいささか気まずかったため、私は微妙なあやふやさを込めてそう言った。
母親は私の複雑な心の内に気付いた風もなく、首をかしげて言った。
「山賊ってこと?」
「山賊」と言われると一気に非現実的な話に聞こえてくるが、とりあえず頷く。
「そう、単独で登山する人を狙った強盗だったってことだよ」
「でもその人、お父さんからは何も盗らなかったのよね?」
「うん……」
その点は私も不可解さを感じていたが、考えた末に言った。
「親父が起きていることに気付いたからだと思うよ。男に『知らないほうがいいこともある』と言われたって書いてあっただろ。あれは『自分の存在を誰にも言うな、忘れろ』っていう忠告だったんじゃないかな。男にとっては、あの山が絶好の狩場だったんだろうからさ」
「やあねえ、狩場だなんてそんな言い方」
母は不満そうに口を尖らす。
私は肩をすくめた。
「俺が言いたいのは、山小屋にいた男にとっては自分の生活が一番大事だったってことだよ。親父が何も気付かなかったから、このまま見逃したほうがいいって考えたんだと思うんだ。それで親父は助かった。でもその判断がどっちに転ぶかは、ギリギリのラインだったんじゃないかな」
「どういうこと?」
私は少し黙ったあとに言った。
「もし親父が男を少しでも疑っていて相手がそれに気付いたら、何をされたかわからなかったっていうことだよ。親父は命拾いをしたんだ、何も気付かなかったおかげで」
母は、コップをテーブルから宙に浮かせた状態で、あんぐりと口を開けた。
「お父さんが……その人に殺されていたかもしれないっていうこと?」
「そうだよ」
はっきり言わないまでもずっとそういう話をしていたつもりだったが、母は今初めて話の重大さに気付いたようだ。にわかに深刻な表情になり「ああでもない、こうでもない」と言い出した。
母の話に適当に相槌を打ちながら、私は父が晩年よく言っていた言葉を思い返した。
知らないほうがいいこともある。
世の中にはそういうこともある。
もしかしたら父は、かなり後になって自分が経験した出来事の意味に気付いたのではないか。
あの場で気づいていたら、父の人生はあの暗い小屋の中で終わっていた。
当然、母とは出会わず結婚もせず、息子である私たちが生まれることもない。
あの小屋の中で何も気付かないことで命拾いをし、父の人生は長く続くことになった。
その運命の不思議さを、死が近づくにつれてしみじみと実感するようになったのではないか。
「気づかないほうがいいこともある」
父は自らの体験から、そのことをただの言葉としてではなく自らの存在を支える真実と感じていたのだろう。
※※※
ずっと心に一人で留めていたことを母に話したためか、私はその夜、いつもより多く酒の飲み、台所のテーブルで寝入ってしまった。
半覚醒の状態の時に母に肩を揺すられ、肩から上着をかけられた感覚があった。だが意識は、再び夢の中へと入っていった。
5.
夢の中で、私は真っ暗な小屋の中にいた。
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