第2話

小学校に無事入学した。そのころ実は母と兄が家に来ることもあった。

入学式の日はささやかながら、家族とお祝いした。

ランドセルを背負って家族で写真を撮ったり、親戚の所にランドセル姿を見せに行ったりした記憶がある。

でも母と兄はやはり帰るところがある為、別々に暮らしていた。


入学して間もなく新学期にも慣れ、新しい友達も増え新しい先生にも慣れた。

小学校一年生の時の女性教諭はとても親切で、母のいない生活をしてる私をすごく気にかけてくれていた。


その頃まだ学童に通っていた私は、学校が終わると学童に行き友達と遊んで過ごした。夕方になると迎えが来てひいおばあちゃんの所に寄って夕飯を食べる。夕飯を食べたらお風呂に入ってお父さんの帰りを待つ。その一連の流れが当たり前になっていた。


ひいおばあちゃんは相変わらず優しくて、台所に立つ時は私もつい一緒になって台所に立っていた。煮物の作り方、煮魚の作り方、お野菜のあく抜きの仕方、兎に角なんでも教えてくれるのが嬉しかった。


ひいおばあちゃんは食事の時に拘りのある人だった。

食前にミキプルーンをスプーン一杯お湯に溶かし、納豆は個別で食べる。ご飯は子供茶碗位の大きさの物に少しだけ。少しのおかず、それをゆっくり時間をかけて食べるという物だった。


父と過ごす休日も好きだった。夜の海にドライブに行って飲んだマックシェイク、たまたま通りかかった所で買ってもらったソフトクリーム、少し遠出をするときに食べたモスバーガー。どれも思い出の味だ。

父といえば当時ドラゴンクエストにハマっていて、夜な夜なやっていた。その頃父の近くに居たくて、なぜか父の寝室の押し入れで寝ていた私に唯一怖いものがあった。

部屋の電気の消されたテレビだけ付いた部屋で、父はゲームを始める。

その時テレビから聞こえる音楽が怖かった。


そう、ドラゴンクエストのセーブデータが飛んだ時のあの音楽だ。独特の低音とメロディーが怖くて、押し入れの中で布団に潜ったのをよく覚えている。あの音楽だけはこの年になった今も苦手だ(笑)





小学校に上がって2年が経つ頃、頻繁に母と兄と会う機会が増えていった。

父も嬉しそうで、私も母や兄と過ごせるのが素直に嬉しかった。

でも心のどこかで「いつかまたいきなり居なくなるんだろうな。それもお兄ちゃんだけ連れて」と思うこともあった。


母の体調も一時に比べ良くなってたのか、また家族四人で過ごそうと話が出ていた。

二年生の終わりころ急に引っ越しが決まって、私は転校することになった。


母と兄が住んでいたアパートに父と引っ越しをした。2Kの狭いアパートだった。でもまた母や兄と過ごせるのが嬉しくて、はしゃいでいた。


兄と同じ学校に行けるのも嬉しくて、よく一緒に登校した。学校から帰ると兄とマリオカートをしたり、兄の友達とも遊んでもらった。兄妹喧嘩はあまりなく本当に仲が良かった。


そこでの生活は父と母もあまり喧嘩もなく、割かし平穏な毎日だった。

私たち兄妹も大きくなって部屋も手狭になって来た頃、一軒家を購入しようと言う話が出た。私はまた引っ越しかーと思ったけど、みんなで過ごせるならば正直どこでもよかった。


内見に何件か行って色んな家を見た。両親なりにいろいろ考えてくれたみたいで、その時住んでたアパートからそこまで離れてない所に見つけた一軒家に決まった。


小学校三年の時、引っ越しが無事終わり二度目の転校もした。と言っても隣の学区だったから土地勘はあったし、さほど苦でもなかった。新学期から登校だったのと、登校班で通学だったので少し緊張した。初めて顔を合わす子たちばかりで、三年生にもなればある程度友達グループもできてるから少し構えた。

でも実際はすぐに友達にも恵まれ、あっという間に溶け込んだ。子供なんてそんなものなんだろう。


一軒家に引っ越しして私たち兄妹には夢があった。「犬が飼いたい!!」

兄妹結託して親に頼み込んだ。


この時母が子宮筋腫で子宮を全摘した直後で、両親も実は犬を飼おうか悩んでいたらしい。もう子供を授かれない体になった母は、子供の代わりに犬を迎えようかと話していたとか。


犬種とかに特に拘りがなかった私たち兄妹は、両親がペットショップで迎える子を下見しに行ってるのを車の中でワクワクしながら待った。


「どんな子がうちに来てくれるんだろう?男の子かな?女の子かな?」兄と車の中でいろいろ話その時を待った。


少し時間が経ちペットショップから両親が出てきた。その手には小さな手持ち付きの段ボールを持っていた。

兄と「ワンちゃん決まったんだ!」と車の中で喜んだ。


帰宅して早く早くとせわしない私たち兄妹を、両親は落ち着きなさいとなだめた。


ご対面の時。段ボールを開けると小さな二か月のシーズーの男の子が居た。

めちゃくちゃ可愛くて、お人形さんの様だった。


名前決めの時間が来て家族みんなで、それぞれがつけたい名前を書き袋に入れてシャッフルした。じゃんけんで父が紙を引くことになった。


天にも祈るような気持ちで父が引いた紙を、家族揃ってめくった。




「ゴンザレス」



私は家族が引くくらいの号泣をした。こんな可愛い子犬に、そんな名前を付けなきゃなんて…


お察しだろうが書いたのは父で、半分ふざけて書いたらしい。

私は泣きながら猛攻撃を開始した。


「絶対ゴンザレスは嫌だ!」両親はあまりにも私が必死だったから、笑った。

笑われてさらに暴走する私(笑)


結果子犬の名前は私の考えた「ロッキー」に決まった。


ロッキーは特別芸ができるわけではなかった。と、言うより自然のままでと言う両親の考えで芸を教えなかった。

だが、とても賢くて私たちが言ってる言葉を理解していた。家のお向かいさんのお家では、同じ月齢くらいのゴールデンレトリバーが飼われていて、よく一緒に遊ばせてもらっていた。


ロッキーは雄、相手のゴールデンレトリバーは雌だった。体の大きさも違うけど、お互いすぐに溶け込んでよく遊ぶようになった。


ゴールデンレトリバーは人にも良く懐き、特に私に懐いてくれていた。

飼い主が何か言っても聞く耳持たずなのが、私が言うと素直に聞いてくれ飼い主も「すごいねー、どうしてそんなに言うこと聞くんだろうねぇ?」と言っていた。


この二匹についてはこの後も出てくるので、いったんここまでにしようと思う。



念願の犬も飼い始め家族中も良く、順風満帆だなと思っていた。


転校してから半年もせずにまたあの両親の喧嘩が始まった。最初こそたわいもない喧嘩だったが、徐々に酷くなっていった。


父はお酒を飲まなければ子煩悩だし、仕事も真面目で口数も多くはないほうだった。そんな父も母の情緒の変化や、仕事のストレスなどで酒量が増えていった。

母のうつ病は決して良くはなっていなかったようで、母も我慢の限界があったようだ。


事が大きく動いた事件がある。


その時母が保険会社の仕事をしていたのだが、そこで知り合った母より少し年下の女性がいた。その人は私たち兄妹にも優しく接してくれ、いつの間にか家族ぐるみで付き合うようになっていた。その職場で出会った女性の弟さんとも仲良くなり、実家に父の飲み相手を兼ねて泊りがけで遊びに来てくれていた。


翌朝私は母の怒鳴り声で目が覚めた。「殺してやる!」聞こえてきた第一声がこれで「なんて物騒な朝なんだ」と思いながらも、両親の寝室に向かった。そこで見た光景は母が父を蹴るは殴るはの大騒ぎ。兄も両親の揉める声で起きてきて「何が起きてるの?」と私に尋ねた。私は状況が呑み込めずにいたので「起きたらこうなってた」と伝えた。


段々と母も父もエスカレートしていき、母が父の上に馬乗りになって首を絞めた。

さすがに子供でもやばいのが分かったけど、私たちの声は両親に届かなかった。


そこで兄が泊まりで遊びに来てくれてる弟さんの存在を思い出した。


「起こして喧嘩とめてもらおう!」兄の提案で寝ている部屋にすぐに向かった。


「起きて起きて!お父さんとお母さんが喧嘩してて、お父さんがお母さんに殺されちゃう」


兄は早くも半泣きだった。弟さんは飛び起きて両親の寝室に行き、母と父を引き離した。

「落ち着いて、子供たちがびっくりしてるよ。何があったの?」と両親に落ち着くように促した。 大人だけで話をするからと、私たち兄妹はその場から離された。


結局その時に喧嘩の発端は聞けなかったが、大人になって母に「あの時何があったの?」と聞いたら、教えてくれた。


「弟さんが泊まりに来てたのに、お母さんを酔った勢いで犯そうとしてきて節操がないって言ったら「俺の言うことが聞けないのか」ってなって、お母さんキレちゃったんだよね」と。


あーそれは子供には説明できないわってなった。


話を当時に戻す。


その事件後両親はものすごく仲が悪くなった。父はさらに酒量が増え、母はそれに手を焼いていた。


絶対にしてはいけないのだけれど、当時の父は仕事が終わるとビールを飲みながら運転して帰宅した。それも母が何度も注意したが、聞く耳持たずだった。


小学三年生の時私が交通事故にあった。


母方のおばあちゃんの所に遊びに行ってた時のこと。おばあちゃんの家の隣に母の妹、私にとっては叔母にあたる。そこの家族は子供六人居て、要するに私の従兄妹たちだ。

そこで自宅の前で従兄妹たちとボール遊びをしていた。


買い物に行くおばあちゃんに「ボールがもし大通りに行ったら、絶対に追いかけるんじゃないよ!」と言って買い物に出かけた。


最初は楽しく遊んでいた。少し経ったときボールが勢いよく大通りに向かって転がってった。従兄妹の中でも最年長だった私は「私が取りに行くよ」と言って走って追いかけた。


そこで私の記憶は途切れてる。目を覚ました時には救急車の中だった。おばあちゃんと兄が同乗していて、兄は泣いていた。

救急隊員が両親の生年月日を訪ねていた。おばあちゃんは母の生年月日はすぐに言えたのだけれど、父の生年月日がなかなか出てこず兄に確認していた。


そこで私が「お父さんは昭和34年です」と急に話したから、兄はびっくりして「生きてるよ、おばあちゃん!!」と、とてつもなく失礼な発言をしてくれている(笑)


救急車は近くの脳神経外科へと走り出した。父の生年月日を伝えてから、私は眠ったらしく次に目を開けたのは手術台の上だった。

「なんかチクチクする。そしてとてつもなく眩しい」右の側頭部を11針縫ってる最中だった。手当が終わり手術室から出ると。母に兄、おばあちゃんが居た。まだ歩くことが出来なかった私に、誰よりも先に駆けつけてくれたのがおばあちゃんだった。


おばあちゃんにおんぶしてもらって病院を後にした。母がおんぶ変わるよとおばあちゃんに言ったが、私がおんぶしていくと聞かなかった。帰宅してる車内で「あれだけおばあちゃん飛び出すなって言ったでしょう!」とプチお叱りも受けた。


後日事故のあった時の話を聞いた。おばあちゃんは買い物を終え、荷物を両手に持っていたらしい。

なんでこんなに渋滞してるんだろうと思ったら、道路に私が倒れていたらしくおばあちゃんは荷物をすべて投げ捨て私の元に来てくれたらしい。


事故の相手はバスだった。おばあちゃんはバスに乗り込み、乗客の方々に謝ったらしい。

「この度は孫が飛び出したばかりに事故になってしまい、大変申し訳ございません。お急ぎの方もいらっしゃるとは思いますが、もうしばらくお時間をくださると幸いです」

おばあちゃん尊敬します(笑)私なら気が動転して、乗客のことまで考えれないよ。


その後救急車が来て先ほどの流れに至った。


おじいちゃんはというと、ちょうど仕事帰りで道がいつもより混んでるなと思って、対向車に何があったのか尋ねると「女の子が事故にあって、それで渋滞している」と聞いて「なんでこんな時間に事故なんて起こすかね」と思いながら帰宅したら、自分の孫で驚いたらしい。


自宅に帰ってからの記憶があまりなく、事故当日は夜泣きが酷く一晩中「痛い痛い」と泣いていたらしい。母は「お母さんここにいるよ」と寝ずに看病してくれた。


事故翌日の早朝6時に自宅のチャイムが鳴った。

「バス会社の者ですが示談でお願いします」母と父は「朝から何なんだ!まだ事故から24時間も経ってないんだぞ」と言って追い返した。


事故から7日が経って経過を診せるために、病院に行くためタクシーに乗ろうとした。

そしたらまたバス会社が来て「示談でお願いし…」言い終える前に母が「もし事故で亡くなってたら今日は初七日に当たるんですよ!少しは考えて行動してください!」

そういうと母は私をタクシーに乗せ、早々に出発した。


幸い私はすぐに回復し一月後には学校にも行き、友達とも遊べるほど回復していた。

右半身を思い切り地面にたたきつけられてるので、将来もしかしたら後遺症が出るかもしれないといわれたが特別変わりなく、今も生活できている。


と、2話目はここまでにして。次は小学校4年生からの話を記していこうと思う。

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