【完結】浜昼顔(作品230722)

菊池昭仁

浜昼顔

第1話 夜行列車

 列車は夜の田園地帯を走っていた。

 点在する家の灯りと、時折通るクルマのライトが流星のように光っては消えて行った。


 人生とは大空に放り投げたオレンジのように、放物線を描きながら加速して落ちて行く。

 自分の人生に惜別の情などは浮かばなかった。

 私には全力で生き抜いたという自負があったからだ。


 後悔はなかった。

 ゾウも猫も、死期が迫ると姿を消すというではないか? 

 そしてそれは仲間に対する配慮だと私は思う。


 「歳を取ると時間が早くなる」というがそうではない。

 そう感じるのは加齢と共に記憶が衰えてゆくからだ。

 だから時間が早いのではなく、短いのだ

 人間の脳は都合良く出来た物で、辛い思い出は消去し、楽しかった思い出だけを残そうとする。

 私もそんな神の恩恵に浴していた一人だった。

 夜の車窓に映る自分に、そんなどうでもいいことを私は心の中で呟いていた。


 大宮駅のKIOSKで買ったチョコレートを口に含み、私はバーボンのポケットボトルを飲んだ。

 喉が焼け、鼻からバーボンとチョコの甘い香りが抜けてゆく。

 行楽シーズンも終わり、北陸の地へ向かう夜の新幹線には乗客も疎らだった。

 時折聞こえる中年男性の咳払いと、レールを走る車輪の音だけが車内に浮遊していた。



 マナーモードにしていた携帯電話が列車の折畳みテーブルの上で振動を始めた。

 店からだった。私が店に出勤して来ないことを心配しているのだろう。

 東北の場末の歓楽街で、私はキャバクラなどの飲食店や、風俗店を任されていた。


 一時は震災の復興支援のお陰もあり、多少の賑わいを見せたが、今ではすっかり落ち着いていた。



 「あんた、店長はんやろ?

 なんぼ? なんぼ出せばこの店の女の子とやれるん?」


 震災の復興の名の元に、全国から名ばかりのボランティアたちも訪れていた。

 彼らの多くは企業や役所から無理やり駆り出された者たちで、殆どが興味本位の連中だった。

 ボランティアではなく、彼らは「仕事」として被災地へやって来ていた。


 昼間は善良なボランティアとして、だが夜になると会社や役所の経費でタダ酒を飲み、女を抱いた。


 「悪いけど領収書には金額は入れないでくれ」


 真面目そうな中間管理職は、そう私に願い出る。

 そして彼らは口を揃えてこう言うのだ。


 「これも復興支援だよな?」


 そう言って被災地で浴びるほど酒を飲み、女を貪る。

 そうとは知らない地元の被災者たちは自分たちも大変な中、なけなしの手土産を用意し、彼らに持たせた。

 

 「本当に助かりました。ありがとうございます。

 大した物ではありませんが、地元の名産です、お持ち下さい」

 「いいんですよ、困っている時はお互い様ですから。

 気を遣わないで下さい。

 また来ますからね? 大変でしょうが頑張って下さい」



 そして彼らは帰りの新幹線のゴミ箱に、その善意をまるで汚物のように捨てるのだった。


 「こんな放射能に汚染された物なんて食えるかよ」


 それがマスコミの報道しない、被災地の真実だった。




 今日は給料日前の雨の火曜日、客など知れたものだろう。

 こんな日に来る客といえばアニソン好きのロリコン税理士の高山か、リオ狙いの変態警察官、杉山くらいのはずだ。


 私は携帯電話の電源を切り、読みかけのサマセットモームを閉じた。


 すぐに私は深い眠りの中に落ちて行った。


第2話 未遂

 富山に着いた。

 すっかり様変わりしてしまった富山駅には、学生時代の面影はもうなかった。


 私はタクシーに乗り、予約しておいた鯰鉱泉の宿へと向かった。

 タクシー運転手は話好きな老人だったが、私が返事をしなかったので、無言のまま目的地に着いた。



 「神崎様、長旅お疲れ様でした。

 では、お部屋へご案内いたします」


 年配の、人の良さそうな丸顔の仲居が出迎えてくれた。



 私は湯に浸かり、旅人の気分を味わった。

 食欲はなかったが、出されたお膳を少しだけ啄み、富山の地酒を飲んだ。



 床に就いたが中々眠れなかった。

 くだらない深夜のお笑い番組を観ても笑う気にもなれず、いつの間にか朝を迎えた。



 朝風呂に入り、朝食を肴にビールを飲んだ。



 私は会計を済ませて宿を出ると、富山湾沿いを走る路線バスに乗り、最期の目的地へと向かった。




 かつて私が青春時代を過ごした場所、#海老江練合__えびえねりや__#でバスを降りた。

 天然ガスの微かな匂いと、懐かしい磯の香り。

 蘇る学生時代の思い出。

 久しぶりの日本海だった。夕暮れの穏やかな海。

 日本海では沈む夕日が見える。

 私は朝日が煌めく雄大な太平洋より、夕焼けに染まる日本海が好きだった。


 日本海に夕日が沈み、富山新港の灯台が光り始め、星が輝き出した。

 綺麗な星空だった。

 

 私は持って来たウィスキーで睡眠薬を多量に流し込み、背広を脱いでネクタイを外し、砂浜に大の字になった。

 春とはいえ、まだ肌寒かった。


 睡眠薬が効き始め、起きる気力は失せた。

 意識はあるが、瞼を開けることが出来なかった。


 波が砂に滲み込んでいく音が耳元で聞こえていた。

 潮が満ちて来ているようだった。

 あと2時間もすれば満潮を迎え、私は離岸流に乗って沖へと流されて行くだろう。


 西北西の風、風力2。

 「船乗りの死に場所は海だ」と、船長をしていた先輩がよく言っていた。

 だから私も元航海士として、死に場所をこの新湊の海に選んだのだ。

 この母なる海で。


 

     我、海に憧れ海に育ち、そして今、海に船出する



 海を#生業__なりわい__#としていた者にとって、海はいつまでも艶めかしく、母のように慈愛に満ちていた。

 嵐の海も、穏やかな海も、決して海は手を抜くことはない。

 海はいつも真剣なのだ。


 誰にも知られず、看取られることもなく、海へ流され私は泡沫となり、消える。

 家族も友人も去って行った。

 私には守るべき物も、失う物も何もなかった。




 私は3日前、医師から死を宣告された。

 


 「神崎さん、ご家族は?」

 「おりません、7年前に家族とは別れました。

 今、どこに住んでいるのかさえもわかりません」

 「そうでしたか・・・。

 心エコーの検査で心筋梗塞と判明しました。

 現在、神崎さんの心臓は50%しか機能していない状態です。

 紹介状を書きますので、一刻も早く設備の整った大学病院で精密検査を受けることをお勧めします」

 「先生、心筋梗塞と言えば末期がんと同じだと聞きますが、私はあと、どのくらい生きられますか?」


 銀縁のメガネを掛けた、温厚そうな中年医師は即答を避けた。

 私は法廷に立つ被告人のように、裁判長としての医師からの余命宣告を待った。

 数秒の沈黙の後、右手の中指で眼鏡の位置を整えると医師は言った。


 「それは医者である私にもわかりません。

 寿命は神のみぞ知ることですから」


 ベストアンサーだった。




 私はクリニックを出て、川辺の駅に続く道を歩いた。

 散り行く間際の桜が春風に揺れ、花びらが風に飛ばされていった。

 川面に散った桜の花びらが、無数に川を流れて行く。

 川はピンクに染まっていた。

 その光景に私は自分の姿を投影した。


 自分が死ぬことなど考えもしなかった。

 私はいつ訪れるかもしれない死の恐怖に怯えた。



      死んだらどうなるのだろう? 


 

 私は会社を倒産させ、家を追われ、すべての財産を失った。

 家族を食べさせるため、生きてゆくために私は何でもやった。

 私はあの日から夫であることも、父親であることも捨て、命掛けで働いて来た。

 そしてやっと希望の光が見え始めた時だった。



 私は土手に咲くタンポポの花を泣き叫びながらむしり取り、川に向かって投げつけた。

 まるで狂人のように。


 「何のために俺は生きて来たんだ!」


 私は自分の人生に失望した。

 私はそのまま土手に仰向けになり、ネズミ色の空を見上げた。

 流されて行く千切れ雲。

 私は死を待つことを止め、自ら死ぬことを決意した。




 そして私は青春時代を過ごしたこの新湊の海にやって来たのだ。死場所を求めて。


 人は死ぬ間際、今まで生きてきた自分の人生のショートムービーを観るという。

 それが喜劇であることを私は願った。

 

 そろそろ上映開始のベルが鳴る。

 人はひとりで生まれ、ひとりで死んでゆくのだ。

 潮が満ちて来た。私の足元を波が舐め始めた。

 私の目から涙が零れ、砂に落ちて行った。


 口に海水が入って来た。

 私はその時、涙が海水と同じ成分であることを知った。

 そして私は自分が海から生まれ、そして今、海に帰ろうとしていることを。

 

 私は自分の映画を観ることもなく、私の記憶はそこで途絶えた。






 「神崎さん! 分かりますか? ここは病院ですよ!」


 白い無機質な天井、消毒液の匂い、医療機器の作動している電子音が聞こえていた。

 気が付くと私は病院のベッドに寝かされていた。

 若いナースがしきりに私の名前を呼んでいる。


 「よかった意識が戻って。

 今、先生を呼んで来ますね!」

 

 どうやら私は死に損ねたらしい。

 若い#細面__ほそおもて__#の医師がすぐにやって来た。


 「お名前は?」

 「神崎仁です」

 「この指が何本に見えますか?」


 医師はマニュアル通りの診察を始めた。


 


 一通りの診察が終わり、彼は言った。


 「神崎さんのご事情は私にはわかりません。

 ただ、人は自分で死を望まなくても、死は向こうから勝手にやって来るものです。

 神崎さんがここに運ばれて来たのは、たまたま近くを犬の散歩で通り掛かったご老人があなたを発見し、通報してくれたからです。

 その方はこう仰っていました。

 「助けたなんて言わんでくれ。その代わり、もしも命を捨てるというのであれば、その命、ワシにくれと伝えてくれ」と。

 私も多くの臨終に立ち会いますが、いつも考えさせられます。

 人の命って何だろうと」


 私は病室から見える吸い込まれそうな春の青空を眺め、再び、あの日本海の海を思い出そうと目を閉じた。


第3話 帰って来た男

 その昔、「東北のシカゴ」と恐れられた歓楽街に私は戻って来た。


 西日の強い会長室。

 逆光で井岡会長の表情を読み取ることは出来なかった。


 「会長、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 「神崎、無断で休むなんておめえらしくもねえな?

 いったい何があった? 言ってみろ」

 「ちょっと体調を崩しまして・・・。すみませんでした」

 「体調を崩した? 竜聖会の若頭と命の遣り取りまでしたお前が体調が悪い?」


 井岡はタバコの煙をユックリと吐いた。


 「会長、ここを辞めさせて下さい」

 「何だ? いきなり藪から棒に。

 何があったのか、俺に正直に話してみろ。ラクになれ神崎」


 すると井岡は近くの冷蔵庫を開け、缶ビールを取出すとそれを私の前に置いた。


 「飲んで少し落ち着け。この一週間で何があった?」

 「いただきます」


 私は缶ビールを開け、ゴクリと一口だけビールを飲んだ。


 「先日、医者に行きました。心筋梗塞だと言われました。

 私の心臓は50%しか機能していないそうです。

 会長からお預かりしている大切な店に、迷惑を掛けるわけにはいきません。

 ですからお暇をいただきたいのです」


 すると井岡は椅子から立ち上がり、腕を抜き、和服の上を#開__はだ__#けて見せた。

 そこには数カ所の銃創や切り傷、刺し傷があり、腹には十文字の縫合跡もあった。


 「これがこの暗黒街で生きて来た証よ。

 俺もいつかは死ぬ、殺されるかもしれねえ。

 それは10年後かも知れねえし、この5分後かもしれねえ。

 それは誰にもわかりゃあしねえ。

 道を歩いていて交通事故で死んじまうかもしれねえんだ。

 神崎よ、一寸先は闇だ。わかるな?

 その命、俺に預けろ、悪いようにはしねえ。

 身体がキツイときは無理をするな、そのかわり連絡だけは入れろ、いいな?」


 私は会長から貰ったまだビールが残ったビール缶を持ち、立ち上がった。


 「これ、いただいていきます。喉が渇いているので」

 「神崎、辛れえのはおめえだけじゃねえ、みんな同じだ」


 私は井岡会長に頭を下げ、会長室を後にした。




 缶ビールを飲みながら店に向かって歩いていると、後ろからミュウに声を掛けられた。


 「おっはよ! 神崎部長。

 お久しぶりだね? どうしたの? 一週間もいなくなっちゃって。

 女と一緒だった? なんか瘠せたね? 大丈夫?」

 「心配かけたな?」

 「ううん、別にー。

 ただ寂しかっただけ」


 ミュウは店の稼ぎ頭で、気配りと洞察力のある女だった。


 「これから同伴なんだ。

 今日、お店が終わったらサブちゃんのお店で焼肉ごちそうしてよ、ミュウちゃんを心配させた罰だかんね?」

 「ああわかった、気を付けてな」

 「じゃあお店でね? バイチャ。うふふふふ」



 ミュウたちは初め、私を受け入れようとはしなかった。

 彼女たちは大人を信用してはいないのだ。

 子供の頃から虐待され、虐められて大人になった子が殆どだったからだ。

 彼女たちはいつも愛情に飢えていた。

 彼女たちが本当に欲しいのは金ではなく、愛情だったのだ。




 久しぶりに店に出ると、彼女たちは笑顔で私を迎えてくれた。


 「支配人、お帰りなさーい!

 どうしたの? 連絡もくれないでー」

 「すまなかった。俺の留守中、何かあったか?」

 「いつもとおんなじだよ、スケベ客のお相手してたよ、あはははは」

 「そうか? じゃあ朝礼を始めるぞ」

 「はーい!」


 クラブ『ジュリエット』の幕が開いた。


第4話 スーパームーンの夜

 「ごめんな、遅くなって。井岡会長との話が長引いてな?

 なんだ、まだ食べていなかったのか?」


 ミュウの前にはすっかり氷が解けてしまった、カルピスサワーが寂しげに置かれたままだった。


 「だって焼肉だよ、ひとりで食べても美味しくないじゃない」

 「馬鹿だなー、腹減っただろうに。

 サブ、取り敢えず生とカルピスサワーのお替わりをくれ。

 それからセンマイ刺しとハラミ、それとカルビと牛タン、それからライスをひとつ」

 「はい、かしこまりー! オーダーいただきましたあ!」


 深夜のこの小さな焼肉屋には、仕事帰りのホステスやホスト、黒服たちでいっぱいだった。

 飲物が運ばれ、私とミュウは乾杯をした。


 「それじゃあ改めて、お疲れサマー!」

 「お疲れ、ミュウ。

 今日もありがとな? 会長も喜んでいたよ、これは会長からだ」


 私はミュウに大入袋を渡した。


 「へえー、うれしいなあ、またがんばっちゃおうっと」

 「また来ていたな? 佐々木の奴。

 余程ミュウが気に入ってるんだろう。でも気を付けろよ、あの手はちょっとタチが悪いからな?

 何かあったらいつでも俺に連絡しろ」


 ミュウは喉が渇いていたようで、美味しそうにカルピスサワーを飲んだ。


 「あれで小学校の先生だよ、信じられる? どんな顔して子供たちに教えてんだろうね?

 でもこの前、すごく怖かったんだ」

 「どうしたんだ?」

 「家に帰ったらね、すぐに佐々木からLINEが来たの「お疲れ様、今帰ったんだね?」って。

 どうやら私の家を探し当てたみたい、キモーイ」

 「わかった、佐々木は俺がちょっと怖い思いをさせてから出禁にするから安心しろ。

 デコ助(警察)の三田さんにも言っておくよ」

 「ありがとう、神崎さん。

 あー、私も結婚したいなー」

 「どうした? いきなり」

 「なんだか寂しいんだよねー、このままでいいのかなあーって」

 「竜也とは結婚しないのか? あのイケメン君とは?」

 「ダメダメ、竜也はただのセフレ。

 アイツには家庭なんて似合わない、無理無理。

 売れないホストだよ、ただのヒモ君」


 私はミュウの空いた皿にハラミを乗せてやった。

 腹が減っていたのだろう、ミュウは飯も美味しそうに食べ始めた。


 「神崎さんみたいな人だといいんだけどなあ、旦那さんにするんなら」

 「俺とミュウでは親子だろ?」

 「いいじゃない、近親相姦」


 私とミュウは笑った。

 確かにミュウと私は20歳以上も歳が離れていたが、私とはよくウマが合った。

 それはこの子がそれだけ苦労して来たという証でもある。

 女とは常に別の顔を持っているものだ。

 増してや夜の世界で生きている女たちは、何人もの「別な自分」を持っている。

 それはいくつもの顔がないと生きては行けないからだ。

 欲望をギラつかせ、夜の街で女を漁る男たち。

 正直に生きていたら奴らの餌食にされてしまう。

 もちろんそれは客だけではない。

 私は何人ものロクデナシたちをクビにした。

 店の女の子に手を出す、店の売り上げを持って「ふける」奴なんて日常茶飯事だった。

 まともな奴はここには来ない。

 事実、ウチの従業員の殆どは前科者たちだった。


 ミュウは家の事情で高校を中退したが、地元では有名な進学校に通っていた。

 彼女は小児科医になるのが夢だったらしい。

 ミュウは他の女たちとは違う種類の人間だった。


 ミュウは昼間は親戚の叔父の経営する町工場で事務の仕事をしていた。

 「両方は大変だろう?」と私が言うと、


 「この仕事にどっぷり浸かりそうでイヤなの、昼職してないと」


 そう真顔でミュウは言った。

 ミュウの言う通り、昼間、家に籠り、夜の酒場にいると「夜焼け」して来るのだ。

 男も女も青白い顔になってゆく。



 「ねえ、何で一週間もお店、お休みしたの?」

 「疲れたんだ、酔っ払いの相手をしているのが」


 ミュウは射るような目で私を見た。


 「嘘ばっかり。神崎さんの嘘はいつも丸見えなんだから」


 ミュウはカルピスサワーをチビリと飲むと、今度は悪戯ぽく上目使いで私を見た。


 「本当は海を見に行ってたんだ、富山の海を。

 日本海が好きなんだよ、あの暗い日本海が」


 私は少し温くなったビールを飲んだ。


 「ズルーイ、神崎さんばっかり。

 私も神崎さんと一緒に行きたかったなあ、富山の海の見える温泉に。

 一緒に温泉に入ってさ、美味しいお刺身食べて、そして神崎さんに抱っこされてフカフカのお布団で寝むりたかったなー」

 「また今度な」

 「約束だよ、絶対に!」


 私は果たせもしない約束をしてしまったと後悔した。

 ミュウはそれ以上の詮索はしなかった。

 なぜ私が海に行ったのか、それは既に彼女は確信しているはずだった。


 「サブちゃん、お酒、冷で」

 「いいのか? 朝から昼職だろ?」

 「いいのいいの、今夜はいいの。

 明日は生理でお休みしまーすって言うから。

 嘘だけど」


 そう言ってミュウは冷酒を一気に飲み干した。


 やがてミュウはそのまま酔い潰れて寝むってしまった。

 今日も一日、客を相手に疲れ切っていたのだろう。

 あどけない寝顔だった。


 「ほら帰るぞ、起きろミュウ」

 「神崎さーん、歩けないからおんぶー、おんぶしてー」

 「しょうがねえなあ、ほら掴まれ」


 私はミュウの肩を支えようとしたが駄目だった。

 私は仕方なく、ミュウを背負うことにした。


 「悪いけどケツ、触るぞ。

 足を持つわけにはいかないから」

 「うん、いいよー」




 私はミュウを背負ったまま、駅のタクシー乗り場へと歩いた。

 意外にミュウは軽かった。


 「神崎さん・・・」

 「どうした? 気持ち悪いのか?」

 「ううん、大丈夫。

 神崎さん・・・、死んじゃやだよ・・・」


 私の肩に、雨雫が落ちた。

 それはミュウの大粒の涙だった。


 ミュウは私の背中にしがみつき、いつまでも泣いていた。

 

 スーパームーンの美しい夜だった。


第5話 花屋の女

 街角にあるいつもの花屋に寄った。


 「あら神崎さん、いつもありがとうございます」

 「俺たちの商売は寂しがり屋の集会所みたいなもんだからな、花があるとホッとするんだよ」

 「うれしいです、そんなふうに言っていただけると。

 今日はどんなお花にしますか?」

 「任せるよ、アンタのアレンジはセンスがいいからな」

 「お褒めいただき、ありがとうございます。

 ではいつものように3,000円のご予算でお作りして構いませんか?」

 「ああ、それで頼むよ」


 私は毎週金曜日、この歓楽街にポツンとあるこの小さな花屋で店に飾る花を買っていた。

 友理子はその花屋の雇われ店長だった。

 高校生の娘がひとり、旦那はいないと言っていた。

 


 「夫は8年前に亡くなりました。胃がんで」


 彼女は笑顔の素敵な美人だが、時折見せる悲しい横顔が妙に気になる女だった。

 赤いエプロンをした友理子は、テキパキと花を選んでいった。



 花を包み終えると友理子が言った。


 「神崎さん、相談があるんですけど」

 「何だ?」

 「私を神崎さんのお店で働かせていただけませんか?」


 私は友理子の意外な申し出に少し戸惑った。


 「キャバクラでか?」

 「いえ、デリの方で」


 店としては友理子のような女が来てくれれば大助かりだが、なぜか私はそれを素直には喜ぶことが出来なかった。



 「風俗で働いた経験はあるのか?」

 「ありません」

 「大丈夫なのか? 知らない男と寝るんだぞ」

 「耐えて見せます」

 「デリに来る女はな、それぞれに事情を抱えてやって来る。

 殆どの目的はカネだ。アンタもそうか?」

 「お恥ずかしい話ですが、もう限界なんです。

 何とかしないと・・・」

 「辛い仕事だぞ?」

 「覚悟はしています」

 「わかった。じゃあ面接をするから俺の事務所に来てくれ、場所はわかるか?」

 「はい、椿ビルの3階でしたよね?」

 「そうだ、じゃあ早い方がいいだろう。仕事が終わったら俺の携帯に電話をしてくれ」

 「よろしくお願いします」


 私は名刺を友理子に渡すと、花を携えて店に向かった。





 友理子が事務所にやって来た。

 窓のないデリヘルの事務所には経理事務の小野寺、女の子のスケジュール管理をする電話番の香織と君江がいた。

 デリのキャストは2階の部屋でそれぞれ待機させていた。

 待機室には監視カメラを設置してある。

 私はなるべく女の子同士を同室にはしなかった。

 それは女同士のケンカや苛め、カネの貸し借りやホスト通い、中にはクスリを捌く女もいるからだ。

 

 デリは繁盛していた。

 予約の電話が引っ切り無しに鳴り響き、女の子の出入りも頻繁だった。



 「はい、ホテル・ラビアンローズですね? はい、ヘネシーさんを、はい、痴女コースで90分で、はい、山本様、いつもありがとうございます。はい、30分ほどでお伺いします。

 はい、202号室ですね? かしこまりました」


 香織は電話を切ると、待機していたヘネシーに内線を掛けた。


 「ヘネシーちゃん、ラビアンローズで山本さん、痴女コースの90分でお願い」


 

 友理子は緊張していた。 

 私は友理子をパーテーションで区切られた打合せ室に案内した。


 経理の小野寺が麦茶を持って入って来た。


 「どうぞ」

 「ありがとうございます」


 小野寺は何も言わず、部屋を出て行った。

 彼女は余計なことは言わない女で、いつも淡々と仕事をこなしていた。



 「びっくりしただろう? 結構忙しいんだよ、それだけ世の中にはスケベな男で溢れているということだ。

 この仕事だけは大昔からずっと需要がある。供給がいつも足りないのが現状だ」

 「びっくりしました、こんなに依頼があるなんて」

 「じゃあとりあえず、このアンケートに記入してくれ。それに基づき何点か質問するから」

 「わかりました」


 友理子はスラスラと書類に記入を始めた。



 「これで大丈夫ですか?」


 私は記載内容を確認した。



 「年齢は38歳? アンタ随分落ち着いて見えるな?

 悪い意味ではなく、美熟女という意味でだ。

 男は癒しを求めている、つまりマザコンだということだ。でも高校生の娘がいるんだよな?

 結婚は早かったのか? 初体験は中学3年、 相手は?」

 「学習塾の先生です」

 「そうか、経験人数はふたり、つまりその先生と亡くなった旦那だけということか?」

 「そうです」

 「あとは可能なプレイは顔射とごっくん以外はすべてOKと・・・。

 最初はラブホとビジネスホテルだけの方がいいな、自宅は盗撮や盗聴も多いから。

 給料の支払いは日払いと週払いだが、週払いの方が率はいい。

 ウチの取り分は店が55%、女の子が45%だ。

 オプションは全額アンタの取り分になる。

 後は売り上げに応じていろんな手当が付く。

 本番行為は厳禁だ、これは意外にわかるから注意してくれ。

 それは客がSNS等にその事実を晒すからだ。

 その場合は即クビで、給料はすべて没収だから気をつけるように。

 それから闇営業をした場合は100万円の罰金。

 他に聞きたいことは?」

 「ありません」

 「じゃあ、これから俺とホテルで研修になるが時間は大丈夫か?」

 「はい・・・」


 友理子は少し恥ずかしそうだった。


 私は友理子をクルマに乗せ、ホテルへと向かった。



第6話 研修

 ホテルでの研修に向かうクルマの中で、友理子が私にこんな質問をした。



 「神崎さんはいつもこうしてひとりひとりを面接して研修をするんですか?」

 「ああ、多い時で一日5人以上もすることもある。

 よくみんなから羨ましがられるよ、「いいですね神崎さんは? いつも色んな女とヤレて」なんて言われてな?

 でもこれが遊びならいざ知らず、仕事となると話は別だ。

 ほら、銀行の人が金を見て金だと思わないのと同じだ。

 俺は女を見ているんじゃない、商品を見ているんだからな?」

 「でも安心しました。神崎さんが私の研修の先生で。

 他の人だったら嫌ですもの、なんだか怖くて」

 

 友理子は笑った。


 「俺も怖いぞ、仕事だからな?」

 「神崎さんなら平気です」


 

 

 ホテルに着いた。


 「派遣先に着いたらまずきちんと挨拶をしてコースを確認し、先にカネを貰う。

 後でカネを払わない奴や、終わってから「まけろ」という奴もいるからだ。

 集金したら店に電話をする。コースと時間を確認するためだ。それが次の予約を受ける際の調整にもなる。

 ヤバそうなお客の場合にはこう言え「お迎えは予定通りでお願いします」と。

 そして携帯はすぐにドライバーに繋がるようにスタンバイしておくんだ。

 送迎のドライバーは近くで待機しているから、何かあればすぐに発信ボタンを押せ、いいな?」

 「そんな変な人もいるんですか?」

 「いろんな奴がいる。

 だってそうだろう? まともな奴なら金を払ってまで女を抱こうなんて思わねえからな?

 彼女のいない奴、出来ない奴、そして自分の性癖を彼女や女房では満たせない奴らがお客だ。

 いわゆる変態君しか来ないと思って間違いない。

 しかも「元」を取ろうとするから厄介だ。

 最初は戸惑うはずだ。

 そしてそれがふたつに分かれる」

 「どんな風にですか?」

 「いいやつと、そうじゃない奴。

 つまりSかMかということだ。

 友理子はどっちだ?」

 「私は少しだけ、Mです」

 「そうか? でも気をつけろよ、体を傷つけられたり性病をうつされたりすることもあるからな?

 必ず最初に一緒に風呂場に行ってカラダを確認しろ。

 体が熱っぽかったり、ペニスをしごいた時、痛がる奴も要注意だ」

 「その時はどうすればいいんですか?」

 「病気を持っているか訊け。そしてプレイは出来ないと伝えろ」

 「怒りませんか?」

 「もし病気だと後で判明した場合、お客さんに#ご迷惑__・__#がかかりますのでと言え。

 それでもし暴れる様ならドライバーに言え」

 「わかりました」

 「じゃあ、実戦形式の研修をするから下着だけになってこっちにおいで」


 友理子は恥ずかしそうに服を脱ぎ始めた。



 「すみません、お花屋さんでの帰りなので、下着が少し汚れているかもしれません」

 「別に気にしなくていい。それが好きな男も多いからな?

 それからデリヘルのような派遣型風俗の場合、本当は下着は脱いではいけない決まりになっている」


 友理子はブラとショーツだけになり、私の前に立った。


 「ブラを取ってみて」

 「はい」


 友理子はブラを外し、両腕でそれを隠した。


 「手をどけて。うんいいね? 何カップ?」

 「Bです」


 私はスタッフカルテにBと記入した。


 「わかった。今度は後ろを向いて。タトゥーとかはないようだな? 次にパンティーを降ろしてくれ」


 すると友理子はショーツを降ろし、それを足から抜いた。

 やや濃いめのヘアが現れた。

 出産を経験した女性に多い形だった。

 

 「足を開いてベッドに横になって」


 恐る恐る股を広げる友理子のそこに、私は顔を近づけた。


 「うん、大丈夫だね? 性病にはかかっていないようだ」

 「わかるんですか? 匂いで?」

 「ああ、性病になると匂いがキツイからな。

 だが俺はその女が服を着ていても、見ただけで性病だとわかる。

 それに体が熱っぽいしな?

 それじゃ風呂場に移動しよう」



 私も服を脱いだ。


 「風呂場ではなるべくお客といっしょに入り、イソジンやモンダミンなどでうがいをさせる。

 コツとして、まず自分が入念にうがいをしてみせることが重要だ。

 そして男のペニスを目で確認し、匂いを確認しろ。

 そしてイソジン等の消毒液でよく洗う。

 その時痛がるようならプレイは中止しろ。

 それは虚偽になるからカネは返さなくていい。

 それで文句を言う場合はドライバーに電話を代われ。

 そしてキスや指入れはさせないこと。いいな?

 特に雑菌性の淋病などは完治しないと言われているから注意しろ」

 「わかりました」

 「マット洗いとか知っているか?」

 「いいえ、何ですかそれ?」

 「気に入った相手なら自分の体にボディソープをたっぷりと塗り、そこにあるマットに男を寝かせて身体を重ねてこすってやれ。ただし、本番行為はもちろん禁止だ」

 「はい」


 私と友理子はお互いに体を洗い、ベッドへと戻った。



 「じゃあ、各オプションについて説明をするが、こんなのは見た事はあるか?」


 私は鞄から研修用のローターやバイブレーターを取出して友理子に見せた。


 「前に旦那に一度だけされました・・・。

 でもその時は痛くて・・・」


 私はスキンをバイブに装着し、準備を始めた。


 「かなり濡れてるな? これなら大丈夫だろう?」

 

 私は友理子のそこに右手の人差し指を入れ、友理子の滑り具合を確認した。


 「うっ」


 友理子が軽く反応を示した。


 「じゃあ、ゆっくり入れるから痛かったら言ってくれ、止めるから」


 友理子は心配そうに私を見詰め、頷いた。

 私はバイブを握ると、ゆっくりと慎重にそこへ差し入れた。

 友理子の顔が苦痛で歪んだ。


 「痛いか? 止めようか?」


 すると友理子が言った。


 「大丈夫です・・・」


 子宮に到達した感じがあったので、今度はゆっくりと引き戻した。


 「大丈夫か?」

 「はい、なんとか・・・」

 

 私はそれをゆっくりと出し入れを始めた。


 すると友理子の反応が変わり始めた。

 徐々に声は淫らになり、あえぎ声へと変化していった。

 私は彼女の声と表情を注視しながらスピードを徐々にあげていくとバイブのスイッチを入れ、くねりと振動を与えた。


 「あう、くねりはいりません、そのままで、お願い、します・・・」


 私はスイッチを振動だけにしてピストン運動を続けた。


 次第に友理子の声が大きくなり、顔も身体も紅潮し、ついに絶頂を迎え、がくりとカラダが落ちた。

 その後、ぴくんぴくんと友理子のカラダは制御不能になっていった。



 やっと友理子が落ち着いたので、私は研修を再開した。

 

 「後は分かるな?」

 「神崎さん、このAFって何ですか?」

 「それはアナル・ファックの略だよ。

 ケツの穴でしたことあるか?」

 「ないです」

 「無理にやることじゃない、歳を取ってからは緩くなるようだからな?」



 私はAFの欄にもバツを付けた。


 「フェラチオは出来るか? いいか? この仕事は効率良くやることが大切だ。

 男は女と違い、射精すればそれで欲望は満たされ、戦闘意欲がなくなる。

 つまり、いかに焦らしながら射精させるかなんだ。

 だからレイプされるようなことがあれば、抵抗するよりも早く射精させることだと言われるのもそれが理由だ。

 では、実際にやってみよう。したことはあるよね?」

 「はい・・・」

 「じゃあやってごらん」


 友理子は私のそれを咥えると、顔を動かし始めた。


 「よしよし、かなりいいカンジだ。もういいよ、そんな感じでやってあげてくれ。

 ざっと説明したけどオナニーにパンスト破り、下着のお持ち帰りとか・・・。他に何か質問は?」

 「質問ではないんですが神崎さん、私の最初のお客さんになっていただけませんか?

 ひと通り、さっき教えていただいたことを通しでやってみたいんです」

 「じゃあ60分の「M女コース」でお願いするか?」

 「はい、かしこまりました」



 そして友理子との実戦が開始された。



 「お客様、本日はご指名ありがとうございました。

 今日が初めてですので、優しくお願いします」

 「はい、よろしく」



 そしてコースが終了に近づいた時、友理子が言った。


 「神崎さん入れて、下さい・・・」

 「本番は禁止だ。それに俺は商品には手を出さない」



 コースを中断し、私は友理子にポケットマネーの3万円を渡した。


 「お金は要りません」

 「入店祝だ、取っておきなさい。

 どうだ? やれそうか?」

 「とにかくがんばってみます」


 友理子はあどけないホッとした表情をした。



 「そうだ、源氏名なんだけど何がいい? ウチの店は酒の名前で統一しているんだが?」

 「神崎さんが付けて下さい、私の源氏名」

 「それじゃあ「ボルツ」はどうだ?

 ボルツ・バレリーナという酒があってな? 透明な酒瓶の中にバレリーナの人形が酒の中に入っていて、底のネジを回すとオルゴールが流れ、そのバレリーナの人形が回転を始めると、酒に入れられた金箔が雪のように舞うんだ。

 友理子のように美しい女にはピッタリの名前だと思うが、どうだ?」

 「それ素敵です。

 その名前にして下さい、ボルツに」

 

 私はようやく友理子の研修を終えた。



第7話 漂うふたり

 ボルツはすぐに店のナンバーワンになった。

 美人で接客にも優れ、テクニックも抜群のボルツには人気があった。



 「凄いですね? ボルツさん。

 入店してまだ1か月なのに指名の嵐ですよ。神崎部長」

 「そうだな」


 私の心境は複雑だった。

 ボルツが自分からどんどん離れ、欲望を剥き出しにした男たちの生贄にされているのかと思うと堪らなかった。

 そんな私の想いを見透かしたように香織は言った。


 「なんだか部長、とっても寂しそう。

 さてはボルツさんに惚れましたね?」

 「馬鹿を言え。ボルツはウチの大切な商品だぞ、商品に惚れてどうする? これは仕事だ」

 「そうかしら? 何だか怪しいなあー」



 予約の電話が鳴った。


 「はい、『エデンの園』です。

 ああ、森本さん。先日はボルツちゃんのご指名、ありがとうございました。

 はい、また今日も? はい、ボルツちゃんを? はい。

 すみませんがボルツちゃんが空くのが3時間後の23時半になるんですよ、どうします?

 それともレミーちゃんはどうですか? レミーちゃんならすぐにご案内できますけど。

 えっ? ボルツちゃんでいいんですか? はい、かしこまりました。ではホテル・パシオンの304号室に23時30分にお伺いさせます。はい、ただし、ボルツは1時までですので90分コースのみになりますけど大丈夫ですか?

 はい、かしこまりました。では90分の「いけない人妻コース」ということで。はい、かしこまりました」


 電話を切ると不機嫌そうに香織が言った。

 

 「あの森本のエロジジイ、相当ボルツさんが気に入ったようね?

 大変だな、あんな変態ジジイのお相手なんて。

 私には絶対無理」


 香織に私の気持ちが気付かれないように、私は外へタバコを吸いに出た。

 




 ボルツが店に戻って来たのは午前2時を回っていた。


 「ただ今戻りました」

 「お疲れー、大変だったでしょー? あの変態森本のジジイは?」

 「お仕事ですから、平気です」

 「さらに1時間の延長だなんて、ボルツさん凄いわよ。

 でもあまり無理しないでね? ボルツさんにはここに長く居て欲しいから」

 「ありがとうございます。

 これが今日の売上になります。確認して下さい」


 香織が入金を確認した。


 「はい確かに。お疲れ様。ボルツさんは明日はお休みだったわよね?」

 「はい。明日はお休みをいただきます」

 「ゆっくり休んでね?」

 「ありがとうございます」





 私が駐車場でクルマに乗り込もうとした時、ボルツに呼び止められた。


 「今、お帰りですか?」

 「ああ、今日もありがとう。おかげでいい稼ぎになったよ」

 「神崎部長、ちょっとこの後、『カリブ』に寄って行きませんか?」

 「俺はいいけど、楓ちゃんは大丈夫なのか?」

 「もう楓は高校生ですよ、大丈夫です」


 私たちはBAR『カリブ』へと向かった。





 『カリブ』は私と同じ学校の先輩、雨宮さんがやっている店だった。

 雨宮さんは大手船会社の船長を10年前に定年退職し、地元に戻って始めたのがここ、『カリブ』だった。

 常連たちは先輩をマスターとは呼ばず、親しみを込めて「キャプテン」と呼んでいた。


 とても穏やかで、品の良い人だった。

 だがそんな先輩も、かつては港町のゴロツキたち7人を相手に、たったひとりで半殺しにした猛者だった。

 今のこの穏やかな笑顔からは想像することも出来ない。


 店には外国人客も多く、海外の酒場にいるような雰囲気の店だった。




 真鍮製のキックプレートの付いた分厚いマホガニーのドアを開けると、店内にはミッシェル・ポルナレフが流れていた。

 


 「キャプテン、おはようございます」

 「いらっしゃいませ。今、お帰りですか?」

 「はい、今日はキャプテンさんのマルガリータが飲みたくて、神崎さんを誘惑しちゃいました」

 「そうでしたか? 神崎さんはいつもと同じ物でよろしいですか?」

 「はい、ワイルド・ターキーをロックでお願いします」

 「かしこまりました」

 

 キャプテンは後輩の私にもいつも敬語だった。

 先輩は鮮やかな手つきで酒の準備に取り掛かった。

 店には白人のカップルが一組、ドイツ語で話しをしていた。

 どうやらドイツ人のようだった。

 


 酒が私たちの前に置かれ、私とボルツはグラスを合わせた。


 「お疲れ様でした」

 「お疲れ。大変だったな? 最後は延長で?」

 「平気ですよ、お爺ちゃんでしたから。

 あっちの方はもうダメなんですけど、私のことを舐めるのが好きなお客さんで、私は何もしなくていいのでラクでした」


 私はその時の光景を想像してしまい、嫌悪感を覚えた。

 不思議なことに、他のデリの女の子たちにはそんな感情を持ったことは一度もなかった。



 「そうか? もしイヤな客なら断ってもいいんだぞ」

 「お仕事ですから」


 ボルツは私の肩に頬を寄せた。



 「ホントはね? 疲れちゃいました。

 今日は変態さんのオンパレードだったから・・・。

 男なんて出して終わりじゃないですか?

 精子を絞り取るだけの女って、どう思います?

 こうやって私、オチンチンの世話をして一生を終えるんでしょうかね?

 なんだか辛いです・・・」


 私はやさしくボルツの髪を撫でた。


 「お前は偉いよ、女手ひとつで楓ちゃんを育てて。

 昼は花屋、夜はデリ。

 身体だけは無理をするな」


 ボルツは悲しそうな顔で頷いた。

 私がポケットから煙草を取り出すと、ボルツは私からカルティエのライターを取り、火を点けてくれた。


 「このライター、女性からのプレゼントですか?」

 「忘れたよ」

 「神崎さんってモテますもんね?」

 「女にとって、俺はただ都合のいい男に過ぎない」

 「私、死んだ旦那とは不倫だったんです。

 楓を妊娠しているのが分かって、夫は私たち親子を選んでくれました。

 バチが当たったんでしょうね? ガンで死んじゃうなんて・・・。

 いい思い出なんかありませんでした。

 夫が入院している病院に行くと、いつも哀願するような目で私を見るんです。

 それがすごく厭でした。

 看病しなければという気持ちと、逃げたい気持ちが葛藤していました。

 夫が死んだ時、私、ホッとしたんです。

 酷い妻ですよね? 私」

 「それは当事者にしかわからないことだからな?

 どうして俺たちは生きているんだろうなあ? 辛い事ばかりなのに。

 朝起きて会社に行って、部下や上司に気を遣い、ヘトヘトになって家に帰ると女房と子供は我儘ばかり。

 安い発泡酒を飲んで寝るだけの毎日・・・。

 でもそれが幸せなんだよ。

 仕事があって家族がいて、帰る家がある。

 健康で毎日飯が食える。

 そんなありふれた日常がいかに普通じゃない幸福か、それを知るのはそれを失くした時だ」


 ボルツは私に寄り添いポツリと呟いた。


 「こうして神崎さんといる今が、いちばんしあわせです・・・」



 キャプテンはポルナレフからシナトラに曲を変えた。

 『夜のストレンジャー』だった。


 私とボルツは黒い川の中を、小舟に乗って下流に流されているようだった。




 店を出ると東の空はブルーパープルに染まり始めていた。


 夜は私たちふたりを残したまま、朝を迎えようとしていた。



第8話 100万本の薔薇と 5本の薔薇

 いつもの金曜日、私は友理子の店に花を買いにやって来た。


 「いつもの花をくれ」

 「かしこまりました」


 ボルツは花屋で働いている時はとてもしあわせそうだった。

 女には多くの顔がある。

 私は花屋で働くボルツが好きだった。


 最近、自分の身体が少しずつ弱っていくのがわかる。

 私は後どのくらい、こうしていることが出来るだろうか?

 当たり前のように無情に過ぎゆく毎日。だがその先には大きな深い滝壺が、口を開けて待っているのだ。

 それが今、どのあたりまで近づいているのか私には知る由もなかった。


 人生はメリーゴーランドのようなものだ。

 木馬に跨り、上がったり下がったりを繰り返しながら、何度も同じところをグルグルと回り続ける。

 そしてその木馬の上で歳を重ね、多くの苦悩と僅かな喜びのなかで死を迎える。

 私は何のために生きているのだろう? そしてなぜ、今ここにいるのだろうか?

 


 「ハイどうぞ! そしてこれは私から神崎部長へ。いつものお礼です」


 それはカスミ草に彩られた、5本の深紅の薔薇だった。


 「ありがとう。女から花をもらうなんて、普通の会社員だった時の送別会以来だよ」

 「私は初めてですよ、男性に花を贈ったのは。

 とてもお似合いです。部長に薔薇って。

 なんだか映画、『ゴッドファーザー』のアルパチーノみたい」

 「マーロンブランドではなくか?」

 「あの人はおじいちゃんじゃないですか?」


 私たちは笑った。


 「100万本のバラの話を知っているか?

 貧しい絵描きの青年が、大好きな女に恋をして、家を売り払い、100万本の薔薇を買って彼女の住む街を薔薇で埋め尽くすという話だ。

 薔薇が1本500円だとして、100万本だといくらになる?」


 ボルツは即答した。


 「5億円ですね?」

 「いい話だよな? 自分を愛してくれるかどうかわからないその女のために、全財産を投げ出す。それに意味はあると思うか?」

 「部長はどう思うんですか?」

 「俺は意味はあると思う。そいつは自分がその女を愛したという確実な想いを手に入れたからだ。

 死ぬほど人を好きになるとはそういうことじゃねえのかなあ」

 「そんな風に愛されたいです、私も・・・。

 神崎さん、ところでお願いがあるんですけど」

 「何だ?」

 「今度、娘の楓と一緒にお食事に付き合っていだたけませんか?

 娘が私の夜の仕事を心配しているようなんです。

 ですから「この素敵な人がママの上司なのよ」と安心させてあげたいんです。

 安心というより自慢ですけどね? あはははは ダメですか?」

 「いいよ、今度の日曜日、焼肉でもどうだ?」

 「ありがとうございます! あの子、焼肉大好きなんです!」

 「じゃあ、また後で」


 私は花束を2つ抱え、店に向かった。





 「あれ? 支配人、今日はお花が2つも、どうしたんですか? それ?」


 すると、ミュウがすかさず言った。


 「どうせそっちの薔薇の花束は、あの花屋の美熟女に貰ったんでしょー?

 いいですねー、モテる男は。

 赤い薔薇が5本。「あなたに出会えて本当にしあわせ」かあ?

 嫌な女。

 神崎さんには黄色い薔薇がお似合いよ」

 「どうして?」

 「浮気者だから」


 ミュウは怒って奥の休憩室に行ってしまった。



第9話 家族ごっこ

 ボルツは少し遅れるということだったので、私は楓と肉を食べ始めていた。 


 「少しレアだけど、いい肉だから大丈夫だ。

 ここの肉は刺身でも食えるからな。

 もう少し焼いた方が好きか?」

 「ううん、私もレアが好きです。

 本当にお刺身でも食べられそうなお肉ですよね?

 こんなお肉、食べたことがありません」

 「たくさん食べろよ」


 私は遠慮している楓の皿に、肉を取り分けてやった。


 「ありがとうございます。神崎さんも食べて下さいよ、さっきから焼いてばかり」

 「もう爺さんだしな? あんまり沢山は食えねえんだよ。

 でも、こうやって人に喰わせるのは好きだけどな」


 私はまた、楓の皿に肉を乗せた。


 「ママ遅いですね? 神崎さん、いつもママがお世話になっています」

 「助かっているのは俺の方だ。いいからどんどん食え」

 「神崎さんにお会いして、安心しました。

 私、心配していたんです。ママが私のために変なお仕事をしているんじゃないかって。

 でも、神崎さんだったら安心です。

 ママ、家では神崎さんのことばっかり話すんですよ。

 その時のママ、すっごくうれしそうなんです。

 だから神崎さんってどんな人なのかなあって、勝手に想像していました。

 神崎さんは想像以上に素敵な人でした」

 「そうか?」


 私は心が痛んだ。

 ボルツが遅れているのは、客からの延長のためだったからだ。


 「神崎さん、奥さんと子供さんはいるんですか?」

 「逃げられたよ。今はひとりだ」

 「彼女さんは?」

 「俺に寄って来る女はいない」

 「うそばっかり。神崎さんってモテそうです。

 うちのママはどうですか?」


 俺は苦笑いして話題を変えた。


 「何か飲むか?」

 「はぐらかさないで下さいよー、うふっ。

 あっ、私はお水でいいです」

 「そうか? 生ビールをくれ」


 私は空になったジョッキを店員に示した。

 楓の顔が明るくなった。


 「じゃあ不倫じゃないですよね? ママが神崎さんのこと、好きになっても?」

 「それはママが決めることだ」

 「絶対に好きですよ、間違いありません!

 私、わかるんです、娘だから」


 こんなかわいい娘のために、ボルツは男に抱かれているのかと思うと、私は胸が締め付けられる想いだった。

 楓の携帯に着信があった。


 「ママからでした。あと5分で着くそうです」

 「そうか」


 楓はとても嬉しそうだった。

 30分前に会ったばかりだというのに、私たちはすぐに打ち解けることが出来た。

 美味しそうに肉を頬張る楓に、私は目を細めた。



 息を切らせてボルツが店にやって来た。


 「すみません部長、遅くなっちゃって。

 中々最後のお客様がお帰りにならなくて」

 「そうか? ご苦労さん。

 とりあえずビールでいいか?」

 「はい」

 「楓、ママと俺に生を追加してくれ」

 「はーい、すみませーん! ここに生ビールふたつお願いしまーす!」

 「楓、ちゃんと神崎さんにご挨拶したの?」

 「したよ。もう高校生だよ、私」


 ボルツもうれしそうだった。

 私たちはまるで親子のように食事を続けた。




 その日以来、私たちは週に一度、家族のように食事をし、ボーリングやカラオケ、一緒にプリクラを撮ったりもした。


 私とプリクラを撮った楓が言った。



 「ママも神崎さんと撮りなよ、ふたりで」

 「えーっ、部長にご迷惑よ」

 「そんなことないですよね? 神崎さん?」


 私は無言のまま、プリクラのボックスの中に入って行った。

 後から照れ臭そうにボルツも入って来た。


 「どうすればいいんだ? これ?」

 「私がやります」


 私は履歴書写真のように硬い表情で写っていたが、ボルツは微笑んでプリクラに写っていた。





 ボルツの家で夕飯を食べていると、


 「神崎さん、今日はウチに泊って行って下さいよ」

 「こら楓、神崎さんに失礼よ。神崎さんはお忙しいんだから」

 「ダメですか? 神崎さん?」

 「泊めてくれるのか?」

 「もちろんですよ、そして3人で一緒に寝ましょうよ」


 私とボルツは驚いて顔を見合わせた。


 


 私を真ん中にして楓が右に、そしてボルツが私の左に寝た。


 「なんだか修学旅行みたいだな?」


 すると楓が恥ずかしそうに言った。


 「神崎さん、パパって呼んでもいいですか?」

 「別に、いいよ」

 「パパ・・・、おやすみなさい」

 

 楓は布団の中で私と手を繋いだ。

 ボルツは泣いているようだった。


 楓は安心したのか、すぐに寝息を立てて眠ってしまった。

 ボルツが私に体を寄せてきた。


 「楓は神崎さんが大好きなんですよ。「神崎さんとならお風呂も平気、一緒に入れるもん」って。

 あんなに楽しそうな楓を見たのは久しぶりでした・・・」


 私はボルツをそのまま抱き締めた。


 「本当の家族みたいだな? 俺たち」

 「本当、家族みたい・・・」


 私とボルツは静かに寝息を立てて眠っている、楓を見ていた。


 (この母娘を守ってやりたい)


 私はそう思った。



第10話 神崎の決断

 私はある決断をした。

 私は井岡会長にそれを報告するために、会長室のドアをノックした。


 「神崎です。お話しがあります」

 「入れ」


 井岡は私をギロリと一瞥すると、


 「嫌な話なら聞きたくねえぞ」

 「ボルツを嫁にすることにしました。

 そういうことですので、ボルツは今日限りで『エデンの園』を辞めさせます」


 井岡は深々と椅子に座り直すと笑って言った。


 「はっはっはっ、おめえの連れて来た女だ、好きにしろ」

 「ありがとうございます」

 「でも俺は賛成しねえけどなあ。

 神崎、おめえのカラダのことはボルツに話したのか?」

 「話していません」

 「ボルツは旦那をガンで亡くしたんだったよな?

 そして今度はお前。

 その悲しみにボルツが耐えられると俺には思えねえ」

 「耐えさせます。

 私の余命が短いからこそ、一緒になろうと思いました」

 「なぜそう思う?」

 「惚れたからです」


 井岡は大きな声で笑った。


 「あーはっはっはっ おめえ、本気なんだな?

 俺とお前は似ている。いや、寧ろお前の方が実務には優れているかもしれねえ。

 だがな神崎、俺にあってお前にはないものがある。

 それが「非情」だ。

 俺はどんなに可愛がっている自分の子分でも、俺の為に「死ね」と言える男だ。

 お前にそれが言えるか?

 無理だわな? 所詮、甘ちゃんのおめえには。

 そのお前の中途半端な優しさが、逆に相手を傷つけてしまう。それを忘れるな。

 「俺のために死ね」と言われた方が喜ぶ女もいる。

 俺はボルツはそんな女だとは思うがな?」



 すると井岡は隣の部屋に行き、戻ってくると私の前に100万円の札束を投げた。


 「結婚祝だ,取っておけ」

 「ありがとうございます」

 「神崎、いよいよ死ぬわけにはいかなくなったな?」


 井岡は私を見て満足そうに微笑んだ。

 まるで父親のように。





 ボルツが派遣先から帰って来た。



 「ボルツ、これからちょっと『カリブ』に寄って飲んで帰るか?」

 「あら、うれしい! いいんですか?」

 「後はコイツらに頼んでバイバイだ。いいよな? 香織、後は頼んだぞ」

 「ハイハイ、どうぞどうぞ、ごゆっくり。

 ボルツさん、部長からちゃんとお金貰いなさいよ」

 「私が払わなくっちゃいけませんよ」


 香織とボルツは笑った。




 「キャプテン、シャンパンはありますか?」

 「あまりいい物はありませんが、ブリュット・ナチュレでもよろしいですか?」

 「それをお願いします。グラスは3つで」

 「あら部長、今日は何かおめでたいことでもあったんですか?」

 「それはこれからのお前の返事次第だ」

 「んっ? それはどういうことですか?」

 「友理子、お前は今日限りでクビだ」

 「えっ、そんなの困ります! 私、何か部長の気に障るようなこと、しましたか?」

 「お前は仕事を辞めて、俺の女房になれ。

 どうだ? ダメか?」

 「えっ・・・」

 「結婚しよう、友理子」



 友理子の目から大粒の涙が幾つもカウンターに零れた。



 「泣くほどイヤか?」


 友理子は両手で顔を覆い、声をあげて泣いた。



 「うれしい、幸せです、私・・・」


 私は友理子を抱き締めた。


 「今までご苦労さん」


 私たちの前に苺がざく切りにされたシャンパングラスが置かれ、キャプテンはそこへシャンパンを注いだ。



 「神崎さん、友理子さん、今日は私の奢りです。それではよろしいですか? 神崎さんと友理子さんのこれからの幸せな航海を祝して、乾杯!」

 「キャプテン、ありがとうございます」

 「今日は貸し切りです、夜が明けるまで飲み明かしましょう」


 キャプテンは店の看板の灯りを消した。


 ささやかな祝宴が始まった。



第11話 月光ソナタ

 翌日、私は友理子と宝飾店で結婚指輪を選んでいた。


 「どれがいいんだ?」

 「たくさんあって迷っちゃう」


 友理子は真剣な眼差しで、煌びやかなショーケースを食い入るように見詰めていた。


 結婚式は挙げず、私たちは役所に婚姻届を出して来たばかりだった。

 お互いに再婚同士ということもあり、その記念に1泊2日の近場の温泉に出かけることにした。

 もちろん楓も誘ったが、彼女なりに気を利かせてくれたようだった。



 「パパとママの大事な新婚旅行について行けるわけがないでしょー?

 私、かわいい弟が欲しいからよろしくね?」


 私たちの結婚をいちばん喜んでくれたのは楓だった。


 「よかったね? ママ・・・」

 「ありがとう、楓・・・」





 私たちは山間やまあいの戸建ての温泉宿に宿泊をした。

 近くを流れる川のせせらぎ、森を吹き抜けてゆく風の中で、檜風呂にふたりでゆっくりと浸かった。



 「こんな温泉に来るなんて、もう何年振りかしら?」



 友理子は後ろから私に抱かれたまま、軽く背伸びをした。


 「俺もそうだ。こんなに寛いだのは久しぶりだ」

 「私、夢を見ているんじゃないわよね?

 これが夢で、あなたが裏山の狸さんだったとしても、この夢が醒めないで欲しい。このままずっと」


 私は友理子の乳首を抓った。


 「痛い」

 「よかったな、夢じゃなくて?」

 「ばか・・・」



 

 風呂から上がり、私たちは上品な懐石料理を堪能していた。

 酒も進み、私たちは思い出話をした。


 「ねえ、今まで行った外国で、どこが一番良かった?」

 「ハワイだよ」

 「えっー、30か国以上も行ったあなたのお勧めがハワイ? なんだか意外」

 「友理子はハワイに行ったことはあるのか?」

 「ないわ、海のリゾートといえばグアムか沖縄くらい」

 「ハワイはいいよ、行ったことがない奴はバカにするけどな? 俺は好きだよ、ハワイ」

 「ハワイの何が魅力なの?」

 「ハワイは不思議な島でな? 俺は4回行ったがハワイで居酒屋をやりながら、遊覧船の船長をするのが夢だったんだ」

 「へえー、なんだかあなたに似合いそう」

 「俺は前にハワイで虹を見たことがあるんだ。夜の虹を」

 「夜の虹?」

 「ハワイの空気はとても澄んでいるから月明かりもすごく明るい。本も読めるほどだ。

 そこにスコールがやって来ると、夜空に銀の虹が架かるんだ。

 それを現地では『Moon・bow』と呼ぶ。

 海で死んだ船乗りの魂が集まって出来ると信じられている、とても幻想的な銀の虹だ」

 「見てみたい。その銀の虹を」

 「楓と観に行くといい。まあ必ず見える物ではないがな? オーロラと同じで。

 君たちに運があれば見ることが出来るだろう」

 「もちろんあなたもいっしょにね?」


 私はそれには答えず、吟醸酒を飲んだ。





 私たちは初夜を迎えた。

 私たちは布団の上に座り、お互いの指に購入したばかりの結婚指輪をはめた。


 「今日から友理子は神崎友理子だ、出来るだけしあわせにするよ」

 「何よそれ? 出来るだけって何? いっぱい幸せにしてね? 私もたくさんあなたをしあわせにするから」


 友理子は泣いて私に甘えた。


 (ごめんな、友理子。

 俺に残された時間はあまりないんだ。だから出来るだけ、力いっぱい君と楓を愛すると誓うよ)


 私は部屋の電気を消した。

 綺麗な満月の夜だった。

 寝床からは大きな明るい、青白い月が見えていた。


 「綺麗なお月様。雨が降るといいのにね? そうしたら銀の虹が見えるかもしれないのに」

 「そうだな・・・」


 友理子と私は布団の中で手を繋いだ。


 「美しい満月だな?」

 「お月様って不思議よね? 太陽に照らされて丸くなったり半分になったり、そして三日月になったりして。

 私はあなたに照らされる月よ」

 「友理子、月は太陽によって光り耀くかもしれないが、月自体の美しさは同じだ。月は太陽がなくても美しい物だよ。たとえ俺という太陽が消えたとしても、友理子の美しさは変わりはしない」

 「そんなのイヤ。太陽が死んだら月も死ぬわ。

 だからそんな悲しいこと、もう言わないで」


 私は友理子を抱き締めた。


 「ねえ、本当に私でいいの?」

 「どうしたんだ今更?」

 「だって私、娼婦だったのよ? それでもいいの?」

 「友理子は生きるために仕方なくカラダを売ったかもしれないが、心までは売らなかったはずだ。

 それでいいじゃないか?

 俺はお前が好きだ。そんなことはもう忘れてしまえばいい。

 もう終わったことだ。

 辛い思い出はいつか消えてしまうのだから」


 私は友理子の浴衣の帯を解き、自分も全裸になった。

 私たちは口づけを交わし、二人の身体は青い月夜に照らされ、私たちは契りを結んだ。



 私は死にたくないと思った。


 この美しい月を守るために。



第12話 約束

 「あー、お腹空いたー、何にしようかなー?」


 楓はうれしそうに回転寿司のタッチパネルを眺めていた。

 友理子の代わりに楓を学校に迎えに来た私は、楓を回転寿司に誘ったのだ。


 「パパは何がいい?」

 「俺か? じゃあ縁側とタコ、それとコハダを頼む」

 「了解。私はマグロとサーモン、それから唐揚げもいい?」

 「この店の皿、全部食べてもいいぞ」

 「それではお言葉に甘えて、茶碗蒸しもいい? パパも食べる?」

 「俺も頼む」


 楓はウキウキしながらパネルをタッチした。



 やがて目の前のレーンに新幹線の形をした台車に寿司が乗せられて運ばれて来た。


 「来た来た、はいパパの縁側と私のサーモン、そして茶碗蒸し」


 楓は私の皿を取り、そして自分の皿を取ると旨そうにそれを頬張った。

 

 「おいしー、美味しくて死んじゃいそう! 美味しいね? パパ」


 楓は何度もパパを連発した。

 私はそれがうれしくもあり、切なくもあった。

 楓は父親の愛情に飢えていたのだ。



 「ねえねえ、パパが今まで行ったところで何処が一番良かった?」

 「それは国内でか?」

 「うん、取り敢えず」

 「神戸だな? 神戸は港町の中でも飛び抜けてエレガントな街だ。

 外国の文化がいい意味で根付いている。

 街も綺麗で、美味しい物もたくさんある。

 それにお洒落な服もたくさんあるしな?」

 「いいなあ、神戸かあ。行ってみたいなあ」

 「じゃあ行くか? 家族で神戸に」


 家族で・・・。

 私はつい迂闊なことを言ってしまったと後悔した。


 「えっ、いいの? 約束だよ、パパ!」

 「ああ、行こうな? 神戸」

 「やったー、そうしたらまた、神戸で三人で寝ようよ」


 そう言ってはしゃぐ楓を見ていると、心が軋んだ。

 私はこんな何気ない日常が欲しかったのかもしれない。それを人生の終わりに差し掛かって気付くとは、皮肉なものだ。





 家に着くと、楓は友理子に興奮気味にその話をした。


 「ママー! パパがね、今度、神戸に連れて行ってくれるんだって!」

 「いいのあなた? 楓とそんな約束をして?」

 「今度は家族で旅行しようと思ってな?

 楓が春休みになったら出掛けるか? 神戸に」

 「よかったわね? 楓」

 「うん、楽しみだなー、神戸。

 何を着て行こうかなー」


 楽しそうに笑う友理子と楓を見て私は思った。


 (神様、桜の咲く季節まで、どうか私を生かしておいて下さい)


 私は神に祈った。



第13話 神崎の秘密

 「すみません、お花を下さい」

 「はい、贈り物ですか? それともお家に飾るお花でしょうか?」

 「贈り物です、神崎さんとあなたへの」

 「失礼ですけど主人とはどんな?」

 「愛人です」

 「えっ・・・」

 「嘘ですよ、神崎さんのキャバクラで働いているキャバ嬢です。

 いつも神崎さんには良くしていただいています。

 あなたが友理子さん?

 なんだか安心しました。美人でやさしそうで。

 私、ミュウっていいます。よろしくね?

 神崎さん、結婚したなんてひとことも言わないからびっくりしちゃいました。

 ずっと独身だと思っていたし、本人もそう言っていたんですよ、「俺は誰とも結婚はしない」って。

 会長から聞いたんです、友理子さんのこと」

 「そうでしたか? いつも主人がお世話になっています」

 「主人かあ? 私も言ってみたかったなあー、「ウチの主人」って神崎さんのことを。

 本当はね? 私も神崎さんに憧れていたんです。素敵な人ですよね? 神崎さんって。

 でもいつも自分のことは言わない。ただ黙って聞いてくれるだけ。

 不思議と神崎さんには何でも話しちゃうんですよね? 神崎さんにだけは。

 片想いで終わっちゃいましたけどね、私の恋は。

 でも友理子さんなら諦めます。

 今日、少しお時間ありますか?

 神崎さんのことでどうしても奥さんに伝えたいことがあるんです」

 「わかりました。では17時30分にアーケードにあるフルーツパーラーで」

 「じゃあ、お花はその時に持って来て下さい」


 ミュウはそう言って1万円を置いて店を出て行った。



 


 約束の17時30分を少し遅れて、友理子が大きな花束を抱えて店にやって来た。

 

 「いらっしゃいませ」

 「アイスティを下さい」

 「かしこまりました」


 走って来たらしく、友理子は息が上がっていた。


 「ごめんなさいね? 仕事が少し長引いてしまって。

 これ、お花とレシートです」

 「レシートはいりません」


 ミュウは友理子から花束を受け取ると、再びそれを友理子に渡した。


 「ご結婚、おめでとうございます」

 「ありがとうございます。何だか変ですね? 自分で作った花束を、自分が受け取るなんて。

 私、お花を貰ったのってミュウさんが初めてでした。凄くうれしいです」

 「女って、お花を貰うとうれしいですよね?」


 友理子は愛おしそうに、ミュウからプレゼントされた自分の作った花束を抱いた。


 「いい香り」

 「友理子さん、神崎さんをよろしくお願いします。

 私は本当の父を知らずに育ったので、神崎さんは私の父親のような人なんです。

 いつも他人のことばっかり気にして、自分の事はいつも後回し。

 そんな人ですよね? 神崎さんって?」

 「わかります。あの人といるとホッとしますよね? 癒されるというか、素直な自分でいられます」

 「神崎さんを甘えさせてあげて下さい。

 神崎さん、自殺しようとしたんです。半年前に」


 突然、友理子からさっきまでの笑顔が消えた。


 「その話って本当ですか?」

 「おそらくですけど、本当だと思います。

 私には分かるんです、なんとなくですけど。

 その時の神崎さん、無断でお店を1週間ほどお休みしたんです。

 そして戻って来た時、聞いたんです「どこに行っていたんですか?」って。

 そうしたら酷く寂しい顔をして、「富山に海を見に行ってた」って。

 だから友理子さん、神崎さんを守ってあげて下さい、神崎さんを死なせないで下さい。

 神崎さん、今、とってもしあわせそうなんで」


 友理子は運ばれて来たアイスティーにストローを刺し、飲んだ。

 ミュウの突然の告白に、喉の渇きが潤されてゆく。

 


 「そうでしたか・・・、あの人が自殺を・・・」


 友理子は深い闇の中に、ひとり取り残されたような気がした。






 家に帰ると楓が花束を見て驚いていた。


 「ママ、どうしたの? その綺麗なお花!」

 「パパの会社の人からいただいたのよ、作ったのはママだけどね?」

 「そうだったんだ。良かったね? ママ?」


 もちろん楓にはあの話は出来なかった。

 友理子はその花を花瓶に活けると、深いため息を吐いた。


 (きっとそれはミュウさんの思い違いよ)


 だが、友理子の気持ちは晴れなかった。


 一抹の不安を消すかのように、カサブランカの甘い香りが室内を包み込んでいた。

 



第14話 別れの予感

 朝方6時、私は仕事を終えて帰宅した。


 「あなた、お帰りなさい」

 「パパ、お疲れさまーっ」

 「ただいま。凄い花だな? いいね、心が和むよ」

 「今日ね、ミュウさんがお店に来て下さって、私たちにお祝いのお花ですって。

 私が花束を作って、それを私にプレゼントしてくれたのよ。

 後でお礼を言っておいて下さいね」

 「結婚したことは井岡会長にしか話していなかったんだけどな?

 まあいい、いずれわかることだ。

 他に、何か言っていなかったか?」

 「いいえ、別に何も。ビールでいいですか?」

 「いいよ、自分でやるから」


 友理子は嘘を吐いた。



 私は冷蔵庫からビールを取り出し、食卓についた。


 「パパ、いつもご苦労様、朝までお仕事なんて大変でしょう?」

 「もう慣れたよ。それに働いている時間は同じだからな。俺は夜に働く#普通__・__#のサラリーマンだよ。

 昼に働くか、夜に働くかの違いだけだ」



 楓は食事を終えると、学校へと出掛けて行った。


 「行ってきまーす!」

 「いってらっしゃい」

 「気をつけて行くんだぞ」

 「ハーイ!」

 


 すると友理子は楓が出て行くのを待っていたかのように話し始めた。


 「ねえ、何か心配ごとはなあい?」

 「何だよいきなり。あるよ」

 「どんなこと?」


 友理子は真顔だった。

 おそらくミュウが私を心配して友理子に何かを話したようだった。

 大体の予想はついている。



 「心配なのはな? もっとお前のことが好きになりそうだということだ」

 「もう、ドキドキさせないで下さいよ」

 「ダメなのか? ドキドキさせちゃ?」


 友理子は私に抱き付き熱いキスをした。


 「ほら、花屋の仕事に遅れるぞ」

 「ねえ、あなた」

 「何だ?」

 「私たちを見捨てないでね」

 「当たり前だ、お前たちから見捨てられても、俺がお前たちを見捨てることはないから安心しろ」


 友理子は私を真っすぐに見て言い放った。


 「あなたにもしものことがあったら、私もそうしますからね」


 それだけ言うと、友理子はエプロンを脱いで花屋の仕事に出掛けて行った。




 私は湯舟に浸かりながら考えた。

 やはりミュウは友理子に俺の異変を伝えたようだった。

 

 だがそれは悪い事ではない。いずれ訪れる別れの序章として、寧ろ必要な事でもあった。

 いきなり氷の水に入るよりは、多少、冷たい水に慣れておくべきなのかもしれない。


 長い間、私はずっと孤独だった。

 家に帰れば愛すべき妻と娘が私を待っていてくれる生活。私はこれ以上、人生に何を望むというのだろう。

 

 その日私は少し長湯をした。



第15話 失う悲しみ

 私と友理子は愛し合った後、穏やかな気持ちでお互いの温もりに包まれていた。


 「あなたとこうしていると、しあわせすぎて怖いくらい・・・」

 「終わりが来ることに怯えるよりも、今のしあわせを噛みしめればそれでいい。

 俺は思うんだ、このまま友理子を抱いたまま死ねたら、どんなにしあわせだろうと」

 「そんなのイヤ、私よりも先に死ぬなんて。

 私があなたに抱かれて死ぬんだから」


 私は静かに友理子を抱き締めた。


 「この世に絶対という言葉があるとすれば、それは「生と死」だ。

 生まれた者は必ず死を迎える。それが定めだ。

 明日のことは誰にもわかりはしない。

 だが俺たちはその現実を受け止めなければならない時がいつかやって来る。

 未来を心配することは止めよう。

 人生とは「甘んじて受ける」というものだからだ」

 「私は弱い女だから、そんなに強くは生きられないわ。

 楓が小学生の頃だった。私が仕事で帰宅が遅れてしまい、酷い土砂降りの夜に楓が家の鍵を忘れて、玄関の前でずぶ濡れになって寒さに震えて泣いていた。

 私は楓を抱いて泣いたわ、そしてふたりで死のうと思った・・・」

 「お前も苦労したんだな?」


 私は友理子の涙を指で拭った。

 友理子は私を見詰め、呟くように言った。


 「約束して下さい。私と楓を残して、絶対にいなくならないと」


 友理子は私の胸に顔を乗せて泣いていた。

 私はそれには答えず、友理子と私はいつの間にか深い眠りへと落ちて行った。




 

 「朝礼を始める。今日はレイとリオ、それからミュウが同伴。21時にお客様と出勤予定だ。

 他に連絡事項はあるか?」

 「神崎支配人、モエシャンとカフェドが足りなくなりそうですから補充をお願いします」

 「わかった。寺戸、酒屋に連絡して補充するように」

 「わかりました」

 「紗理奈、男とは何だ?」

 「男はね、バカでスケベで見栄っ張りでーす」

 「その通りだ。女にモテる奴がこの店にやって来るか? 高い金を払ってまで? 小雪!」

 「来ません」

 「なぜだ?」

 「女に不自由してないからです」

 「その通りだ。つまりこの店に来るお客はバカでスケベで見栄っ張りな奴ばかりだ。

 では今日も一日、そんな寂しい彼らに夢を与えてあげてくれ! 君たちのやさしい癒しでな!

 以上!」



 給料日後の金曜日の歓楽街は賑わっていた。

 一次会を安い居酒屋で終えた酔客たちが、少しづつ店に入り始めていた。


 ミュウが警察官の小島と同伴してきた。


 「小島様、いつもありがとうございます」

 「やあ支配人、今日もここはいっぱいだね?」

 「おかげさまで、ありがとうございます。どうぞごゆっくりと遊んで行って下さい」

 「支配人、小島さんからミスド買ってもらっちゃった。ほらいいでしょー」

 「いつもお気遣いいただき、ありがとうございます」



 ミュウは自分専用のボックス席に小島を案内すると、ドーナツの箱を持って休憩室にやって来ると、ミスドの箱を開封もせずにそれをゴミ箱へ捨て、タバコに火を点けた。


 「こんな安いドーナッツでいいカッコして、バッカじゃないの? 小島のヤツ」


 お客の中には少しでも自分を良く見せようと、ハーゲンダッツやミスドを手土産に持ってくる客は多い。

 だが、女の子の殆どはそれに手を付けることはない。

 安くて数のある物、皆、考えることは同じだった。

 だから店の冷蔵庫や冷凍庫には、そんな男たちの下心でいつも一杯になっていた。

 女の子たちにモテる方法は簡単だ。

 金を遣い、女に貢ぐことだ。

 安い食物など、彼女たちは求めてはいない。



 「ミュウ、花をありがとう。

 悪かったな? 気を遣わせてしまって」

 「井岡会長から聞いたんだよ、「何かしてやれ」って。

 でもみんなに教えるのはイヤだったから、お花をあげることにしたの。

 友理子さんって素敵な人ね? あの人なら許してあげる。神崎さんのお嫁さんになること。

 さあ行ってくるかあ、あのエロ兄ちゃんのお相手に。イヤだけど」

 「頼んだぞ、ウチのナンバーワン」

 「任せといて。私、神崎さんのためにがんばるから」

 「ありがとう、ミュウ」


 そう言って立ち上がろうとした私は、急に激しい胸痛を感じ、その場に倒れ込んでしまった。


 「神崎さん! しっかりして! 救急車! 救急車を早く!」





 私は救急隊のストレッチャーに乗せられ、薄れゆく意識の中で考えた。


 「死神のお出ましか・・・」


 ミュウが私の手を握り、しきりに私の名前を呼んでいた。


 それは温かく柔らかい手だった。



第16話 終わりの始まり

 「神崎さん! 神崎さん!」


 ミュウの声で私は目を醒ました。


 「よかったー、気が付いて!

 もう病院だから大丈夫だよ。友理子さんにも連絡するから携帯番号を教えて」

 「ありがとう。ずっと俺に付き添っていてくれたのか?」

 「そんなことより早く知らせてあげないと。心配するよ、友理子さん」

 「ミュウの手、やわらかくてとても温かかったなあ。

 救急車の中でそれだけは覚えているよ。

 ミュウ、俺はもう永くはないんだ。

 心筋梗塞で、もう30%位しか心筋が動いていない。

 この前、店を無断で休んだのはそのせいだ」


 ミュウは私の手を強く握った。


 「私の手、やわらかくて温かいでしょう?

 神崎さんの手、すごく冷たい・・・」

 「ミュウ、このことは誰にも言わないでくれ、みんなに気を遣わせたくないんだ。女房にも」

 「うん、大丈夫だよ、神崎さんは死なないから。私がついてるもん」

 「悪いが先生を呼んで来てくれるか?」

 「わかった」


 ミュウは小走りに病室を出て行った。



 少しすると医師とナースがやって来た。


 「神崎さん、どこか痛いとか苦しいとかはありますか? 担当医の山本です」

 「先生、お忙しいところすみません。

 お願いです、退院させて下さい」


 山本医師とナースは眉をしかめた。

 そしてミュウも。


 「神崎さん、あなたはご自分の病気をご存知ですよね?」

 「病院で死ぬのはイヤなんです。我儘言ってすみません」

 「治療を拒否されるということですか?」

 「そうです」


 40歳くらいであろうか? がっしりとした体形をした、誠実そうな山本医師が言った。

 

 「医者の役目は2つです。

 怪我や病気を治すことと、痛みや苦しさを取り除いてあげることです。

 今の私があなたに出来ることは、痛みをやわらげてあげることしか出来ません。

 苦しい時はすぐに来て下さいね。

 ただし、あと2日は入院して下さい。よろしいですね?」

 「無理を言ってすみません。

 それから妻や娘には過労だということでお願いします。

 妻は以前、前の旦那さんをガンで亡くしているので心配させたくはないんです。

 病気のことはタイミングを見て私から話しますから」

 「わかりました。

 神崎さん、あなたは強い人だ。私には真似出来ません」

 「いえ、その逆です。私は臆病者ですから」


 山本医師と看護師が病室を出て行った。

 一緒に話を聞いていたミュウは、涙で化粧が崩れてしまっていた。



 「悪いが俺の携帯で友理子に電話してくれ。大したことはないようだと」

 「もう少しだけ待ってくれる? 今、電話を掛けたら私、泣きそうだから・・・」

 

 私は頷き、目を閉じた。





 一時間ほどして友理子と楓が病室にやって来た。


 「あなた! 大丈夫なの?」

 「パパ、大丈夫!」


 ミュウがフォローしてくれた。


 「お店で急に倒れちゃってー、もう心配したわよー。

 私、救急車なんて初めて乗っちゃった。

 ただの過労ですって、明後日、退院出来るそうよ。

 働き過ぎなのよ、支配人は。

 じゃあ私は帰りますね? 神崎さん、ゆっくり休んでね?」

 「色々と主人がお世話になりました」

 「ミュウ、ありがとな、会長にもよろしく言ってくれ。

 しばらく休ませてもらうと」

 「わかった。じゃあまたねー!」


 ミュウはそのまま明るく病室を出て行った。

 エレベーターに乗り、ドアが閉まるとミュウは声を上げて泣いた。




 楓が上掛けの上に手を置き、心配そうな表情で言った。

 

 「パパ、ゆっくり休んでね?

 ママと私のために一生懸命働いてくれてたもんね? ごめんなさい」

 「あなた、本当に大丈夫なの? 痛みはない?」

 「ああ、心配を掛けたな? 明後日には退院出来るそうだから、肉でも食いに行くか? ニンニクをたっぷりつけて、栄養を付けないとな?」

 「とりあえず、着替えとか一通りの物は持って来ましたけど、他に必要な物があれば言って下さい」

 「何も要らないよ。テレビでも観てのんびりするから。

 今日はもう大丈夫だから帰っていいぞ。俺もゆっくり休みたいから」

 「そう。じゃあまた明日来ますからね?」

 「パパ、お大事にね?」



 友理子と楓が帰った後、私はベッドを起こし、窓の外を見た。


 朝のきらきらした光が、病院の木立を照らし、今日もありふれた日常が始まろうとしていた。


 どうやら私の命のカウントダウンが始まったようだった。



第17話 『涙の川』

 ミュウは『カリブ』でひとり、酒を飲んでいた。

 飲まずにはいられなかった。


 「キャプテン、神崎さんてバカですよね? 

 いつも他人のことばっかり心配して、自分のことは後回し・・・」

 「そうですね? でもそれが神崎さんのいいところでもありますけどね?」


 キャプテンはグラスを磨きながらそう呟いた。


 「普通は逆でしょう? 自分の損得ばっかり考えて、人のことなんて考えないのに。

 ホント、かわいそうな人、神崎さんは。

 見ているこっちが辛くなるわよ・・・」

 「ミュウさんは神崎さんのことが好きなんですね?」


 ミュウは酔いも回り、カウンターに顔を載せた。


 「そうだよ、大好き。

 男らしくて優しくて、なんでも出来て、一緒にいるとすごく楽しいの・・・。

 私はお父さんがいないから、神崎さんが私のお父さんだったらなあ、って思っちゃう。

 友理子さんと結婚しちゃったけど、別にいいよね? 

 だってお店にいる時は、私が神崎さんの奥さんだから」

 「なるほど、彼は幸せ者ですね? 奥さんがふたりもいて」

 「キャプテンは奥さんを亡くしてから始めたんだっけ? このお店?」

 「そうですよ、寂しさを埋めるためにです。

 私は寂しがり屋なので」


 キャプテンは微笑みながら言った。


 「愛してたんだ? 奥さんのこと」

 「長く船乗りをしていましたからね? 1年間を海外で過ごし、2か月ほど休んでまた海上生活でした。

 私は家内と結婚する時に2つのことを妻に誓いました。

 ひとつは寝る前には私の訪れた外国での思い出話をすることと、そしてもうひとつは食事の後片付けは私がするということでした。

 妻はとても手の美しいひとでしたから。

 すみません、老人の「のろけ話」なんて気持ち悪いですよね?」

 「奥さん、幸せだったんだろうなあ。

 私もそんな風に愛されたい、旦那さんから」

 「ミュウさんは大丈夫ですよ、あなたは心も美人だから。

 必ず素敵な人と結ばれます。

 分かるんですよ、こんな商売をしているとなんとなく、その人の行く末が」

 「そうなるといいなあ、私の白馬の王子様は今どこにいるんだろう?・・・」


 ミュウとキャプテンは微笑んだ。

 だがすぐにミュウの笑顔がフェードアウトされていった。


 「イヤだよ、神崎さんがいなくなるなんて・・・

 キャプテン、マルガリータお替り」

 「かしこまりました」


 キャプテンはシェーカーを振り始めた。

 それはパーカッションのように軽やかなリズムを刻んだ。


 店にはジュリー・ロンドンの『Cry me a river』が流れていた。



第18話 別れの酒

 退院して私は友理子と『カリブ』へやって来た。


 「いらっしゃいませ。

 神崎さん、お身体の方はもう大丈夫なのですか?」

 「おかげさまで昨日、退院しました。

 ただの過労です。

 キャプテンよりも若いのにお恥ずかしい限りです」

 「大事にして下さいね? 神崎さんは皆さんから頼りにされているんですから」

 「そうですよ、もっと自分を労わってもらわないと」

 「キャプテン、私はワイルドターキーをロックで、お前は何にするんだ?」

 「私はマルガリータを」

 「かしこまりました」


 キャプテンはまるで化学の実験でもするかのように酒瓶をカウンターに並べた。

 平たい銀の皿に塩を敷き、カクテルグラスのエッジにレモンを滑らせるとそれを逆さにしてそこに置き、スノースタイルを作った。

 シェイカーにテキーラ、コアントロー、そしてレモンを絞る。

 そこに氷を入れ、キャプテンがシェイクを始めた。

 心地良いシェイカーの響き。

 それをカクテルグラスに注ぎ、マルガリータは完成した。

 そして間髪を入れず、キャプテンはあっという間にキューブ氷をアイスピックだけを使ってアイスボールを作ると、それをロックグラスに入れた。

 カランという澄んだ音がバカラのグラスで鳴った。

 ターキーがそこに注がれてゆく。


 「お待たせしました」

 「いただきます。 あなた、退院おめでとう」

 「ありがとう、友理子、心配かけたな?」


 私たちはグラスを合わせた。


 「ああ、美味しいー。キャプテンのマルガリータは最高です」

 「ありがとうございます」

 

 バーボンの香りが鼻から抜けていった。


 「なあ友理子、俺も歳だし、いつどうなるかもわからん。

 おまえは俺が惚れるほどいい女だ、だから人生を無駄にするようなことはするな」

 「どうしたの? 明日にも死んじゃうような話なんかして?」

 「人の死は誰にでも平等に訪れるものだ。それが早いか遅いかの違いだけだ。

 俺が先か、お前が先かなんてわかりはしない。

 俺も友理子も確実に死ぬ。それが自然の摂理だからだ。

 だからお前は俺にその時が来ても、悲しむことはない。

 神様から与えられた命を全うするんだ。いいな?」


 友理子はマルガリータに口をつけた。


 「もしも私があなたよりも先に死んだら、再婚してもいいわよ」

 「もちろんそうさせてもらうよ。

 でも、もし俺が先になったらその時はお前も再婚しろ。俺は焼き餅は焼かない」

 「私は夫を見送ったわ。彼には悪いけど、看病が長かったせいか、ホッとしたのも事実だった。

 それだけ地獄のような毎日だったから。

 そしてやっとあなたとの幸福な生活が出来るようになった。

 結婚生活がこんなに素敵な物だとは思わなかった。

 もしもあなたを失うようなことがあれば、私は生きていく自信がない・・・」

 「どんな夫婦にも、いつかは死が二人を分かつ時が必ず来る。必ずだ。

 一緒に死んで同じ墓に入ることが幸福ではない。

 俺もお前もこの世に生まれた意味がある。

 人間はひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。

 人はどれだけ生きたかじゃない、いかに生きたかなんだ。

 人生は「ありがとう」をたくさん集めるゲームだ。

 だから万が一の時は俺の分まで「ありがとう」を集めて生きてくれ」

 「人生は「ありがとう」を集めるゲームかあ?」

 「そうだ、そして友理子、俺の願いはただひとつだ。

 また人間に生まれ変わることが出来たら、またお前と巡り会いたい。

 そしてまた、必ずお前を探してみせる」


 友理子は私に寄り添い私の手を握った。


 「私もあなたを探すわ、そして絶対にあなたを探し出してみせる。

 そして今よりもっとあなたを愛したい・・・」

 「キャプテン、同じものをお願いします」

 「かしこまりました」


 (キャプテン、今までお世話になりました)


 私は別れの酒を一気に飲み干した。



第19話 置手紙

 「ただいまー」

 「ママ、おかえりなさーい」

 「ああ、疲れたー、すぐご飯にするからね?」

 「大丈夫だよ、今日は私が作るから」

 「そう、じゃあ着替えてくるわね」

 

 友理子が寝室に入いり、着替えようとした時、ドレッサーの上に置かれた白い封筒に気付いた。

 その中には手紙と通帳、印鑑とキャッシュカード、それに保険証券が入っていた。

 友理子は震える手でその手紙を読むと、すぐに寝室を飛び出した。

 

 「楓、パパを探してくるから戸締りをしっかりして! 後で連絡するから!」

 「どうしたの? パパがどうかしたの?」

 「大丈夫、大丈夫だから!」


 

 友理子は『カリブ』へと急いだ。


 「どうして? どうしてそんなことになるのよ!」


 友理子は神崎のことが心配で、動悸が止まらなかった。

 移動中、何度も神崎の携帯に電話をしたが、彼の携帯は電源が切られていた。




 友理子は『カリブ』のドアを開け、叫んだ。


 「キャプテン! あの人がこんな物を置いて! いなくなってしまいました!」


 友理子はキャプテンに神崎からの手紙を差し出した。




    愛する妻、友理子 わが娘、楓へ


     色々と考えたが、やはり手紙にすることにした。

    何から話していいのか、この期に及んでもまだ迷って 

    いる。

    どうしたら俺の気持ちを君たちにうまく伝えることが

    出来るのだろうか?


    黙っていて悪かったが、俺は以前から心筋梗塞と宣告

    されていた。

    俺の心臓は今、30%しか機能していないそうだ。

    そして先日、末期の肝臓ガンも見つかった。


    俺は以前、富山の海で自ら命を絶とうとした。

    だがその時は偶然に犬の散歩をしていた老人に助けら

    れ、未遂に終わった。

    おそらくそのような話をミュウから聞いたはずだ。

    君と楓に出会って、俺はしあわせだった。

    死にたくないとも思った。

    そして予定が延期された。

    ただそれだけのことなんだ。最初からこれは俺の中で

    は決まっていたことなんだ。


    離婚してから俺はずっと独りだった。

    家に帰って「お帰りなさい」と言ってくれる家族がい

    る。こんな幸福なことはない。


    君たちと一緒に囲む食卓は最高だった。

    友理子、昨日『カリブ』で話たことは覚えているだろ

    う?

    人は遅かれ早かれ必ず死ぬという話を。

    だから友理子、どうか俺の願いを聞いて欲しい。

    俺に代わって沢山の「ありがとう」を集めてくれ。

    これは俺からの最期のお願いだ。

    人生の価値はどれだけ永く生きたかじゃない、どれだ

    け人に喜ばれ、愛されたかなんだ。


    俺は友理子と楓にしあわせになって欲しい。

    どうか俺の死を悲しまないでくれ、人生を楽しんでく

    れ。一度きりの人生を。


    もう少し君たちと一緒にいたかったが、どうやら難し

    いようだ。

    病院で死ぬのはイヤだし、家で寝たきりのまま衰弱し

    て死ぬのも自分らしくはない。

    後悔はないんだ、自分の人生に。

    最後に君と楓に会えたことで心の隙間が埋まった。

    俺の人生のジグソーパズルはやっと完成したんだ。


    何か困ったことがあれば、キャプテンに相談するとい

    い。

    あの人は俺の先輩だし、すばらしい兄貴のような存在

    だから。


    楓、お前と一緒にバージンロードを父親としてエスコ

    ートしたかった。

    それが出来ずに残念だ。

    許してくれ。


    神戸に行く約束も果たせなくなってすまない。

    悪いが神戸へはママと行ってくれ。

    楓は頭のいい綺麗な娘だ。俺に似てな?(笑)

    だから何年かかってもいいから、自分の好きな勉強を

    するために進学しなさい。


    キャッシュカードには小さな建売を買えるくらいの残

    高は残してある。

    今後の生活に役立てて欲しい。

    暗証番号は友理子の誕生日にしてある。

    生命保険はおそらく免責期間を過ぎれば支払われる筈

    だ。

    保険証券を添付しておいたから、その名刺の今井君に

    相談するといい。話しはしてある。

    君と結婚したのはそのためだ。

    バツ2にしてしまい、申し訳ない。

    もちろん友理子を愛しているからこそ結婚したが、別

    れが辛くなるかと、少し悩んだのも事実だ。


    最期になるが、短い間だったが君たちと家族になれて

    俺は本当にしあわせだった。

    ありがとう、感謝しています。


    愛しているよ、友理子、楓。


                     神崎 仁





 手紙を読み終えたキャプテンは、常連の客たちに言った。


 「すみません、今日のお代は結構です!

 私の弟の一大事ですので、どうか今日はこれで閉店させて下さい!」


 キャプテンは急いで店仕舞いに取り掛かった。


 「友理子さん、彼を連れ戻しに行きましょう!

 行先は分かっています!

 彼は余命を全うしなけらばならない。海の男として、そして、あなたたちの夫として、父親として!」


 

 キャプテンは、店の近くのコインパーキングに停めていたBMWに友理子を乗せると、クルマを急発進させた。


 「少し荒い運転になりますが、我慢して下さい」

 「キャプテン、あの人はどこに?」

 「おそらく彼は富山です。

 私と彼が学んだ母校の前の海に向かったはずです」



 キャプテンはいつもの物静かなバーテンダーではなく、嵐の海に立ち向かう船長の顔になっていた。


 クルマは次々に他のクルマを追い越し、キャプテンと友理子は富山を目指した。



第20話 最期の旅路

 実直そうな新幹線の車掌が、私を一瞥して通り過ぎて行った。

 夜の車窓に映っている自分に私は問い掛けた。


 「これで良かったんだよな?」

 「ああ、これでいい、これでいいんだ。

 初めは悲しむかもしれないが、人間には「忘れる」という神から与えられた恩恵がある。

 どんな悲しみも、流した涙の分だけ薄められてゆくものだ。

 だがもし、死を待つだけの俺を看病し、日々衰え、骨と皮になってゆく俺を見せるのはあまりにも惨い。

 精神的にも、そして肉体的、経済的にも友理子と楓を苦しめることになってしまう。

 思い出はやがていい思い出だけに書き換えられてゆくものだよ」

 「俺の人生は最高の人生だったよ」

 「もう何も思い残すことはないな? お前は自由に自分らしく生きた」


 私はもう一人の自分と自問自答をしていた。


 この日本海沿いに続くトンネルのように、私はいくつもの暗い人生のトンネルを潜り抜けて来た。

 そしてようやく長く曲がりくねった暗いトンネルを出たと浮かれていると、またすぐに次のトンネルが待っている。

 春夏秋冬、だが所詮人生は長い冬の連続なのだ。

 そしてその長い冬があるお陰で、春の暖かさが、満開の桜の美しさが身に沁みるのだ。

 私は少し温くなって気の抜けた缶ビールを飲み干し、目を閉じた。


 



 北陸自動車道を走るキャプテンと友理子に、黄金に輝く朝日が差していた。


 「きれいな海ですね? 日本海って。

 私、初めて見ました」

 「日本海は私と神崎さんの故郷です。

 母親のようなものですかね? 果てしない太平洋のイメージからすると、少し身近な感じもします。

 これから冬の日本海は猛烈に荒れます。

 まるで海が泣き叫ぶかのように」

 「とてもそんな風には見えませんけどね?

 穏やかでやさしそうな海にしか・・・」

 「海はいつも真剣なんですよ。

 晴れの日も、夜の時化の海も。

 決して手を抜くことはない。

 そんな海のやさしさも恐ろしさも、私も神崎さんも知っています。

 フランス語で海を「ラ・メール」と女性名詞で呼びますが、海は女性なんです。

 男の心を掴んで離さない」

 「でも私はあの人の心を掴むことが出来ませんでした」

 「それは友理子さんのせいではありません。

 彼のあなたたち親子へのやさしさだと私は思います」

 「主人はどうして船を降りたんでしょうか?」

 「どうしてでしょうね?

 よくあるパターンはこうです。

 最初は彼女が出来た時、陸上の会社に就職しようかと考えます。

 でも、我慢する。

 そして次に結婚です。

 いつも一緒に居たいと思うようになりますからね? でもまだ船乗りを諦められない。

 そして最後は・・・」

 「子供が出来た時ですか?」

 「仰る通りです。

 子供が自分の後を追うようになるともうダメです。

 私は子供がいなかったので、何とか耐えましたけどね?」


 キャプテンは横顔で笑った。


 「ずっと船に乗っていれば、あの人もこんな目に遭わなかったのかもしれないのに」

 「それはどうでしょうか? 人生なんて何が起こるか、誰も予測は出来ません。

 海で命を落とすことだって十分にありますからね。

 自分の人生に起きたことに、逃げずに向き合うしかないんです。目を逸らさずに出たとこ勝負をするしかないのですから。

 そしてそこに勝ち負けもなく、もちろん失敗もありません。

 あるのは学びです」

 「目を逸らさずにそれと向き合い、そこから学ぶ・・・」

 「そうです。叶わなくてもいいんです、負けてもいいんです。

 でもそこから目を逸らしてはいけない。人生は学びだからです。

 私は妻を亡くした時、そう思いました。

 後悔したんです、妻に何もしてあげられなかったことに。

 私は自分の夢のために家内の人生を犠牲にしたと思いました。

 そして今はそれが私の学びだと思っています。

 私は最愛の妻のことを学んだのです」

 「辛い学びですね? 私には耐えられそうもありません」

 「残酷なことを言うようですが、自分の感情を考える前に、相手の立場で考えてあげることです。

 神崎さんはなぜそれを選ぼうとしたのかを。

 彼を迎えに行きましょう。そして1秒でも長く、彼との時間を過ごしましょう。

 大丈夫です、彼は私と同じ海の男ですから」


 友理子は少しだけ窓を開けた。


 夫の愛した日本海の潮風と、潮騒の音を感じるために。



最終話 永遠の愛

 朝顔が美しく咲くためには、太陽と水、養分と空気、そして冷たく深い闇が必要だという。

 おそらくそれは、すべての花に言えることなのかもしれない。

 そして人間もまた同じように、冷たく深い暗闇は必要なのだ。


 友理子を美しく輝かせていたのは、そんな冷たく深い暗闇があったからだ。

 そしてまた、友理子はより美しく輝くだろう。



 薄暮はくぼが近づいていた。

 新湊港の灯台が光り始めた。

 夕陽が日本海に沈んで行こうとしている。

 私は日本海に沈みゆく、夕陽に繋がる黄金の海の道をゆっくりと辿り始めた。


   ザザッー ザザッー


 打ち寄せる波。

 砂に海水が沁み込んでゆく音が聴こえる。

 壮大な夕暮れの海のシンフォニー。


 私はどんどん沖へと進んで行った。

 靴もズボンも海水を含んで徐々に重くなって来た。

 私のカラダが海へと引き摺り込まれて行く。

 既に海水は背広の胸の辺りにまで達し、ネクタイが海にゆらゆらと漂っている。

 私はその時、『海ゆかば』を口ずさんだ。



       海ゆかば 水漬く屍

       山ゆかば 草むす屍

       大君の 辺にこそ死なべ

       かえりみはせじ

      


 友理子と楓の顔が浮かんだ。

 私はさらに沖へと進んで行った。

 遂に首だけが出ている状態となり、足が海底から離れ、時折波が私の顔を洗った。

 日は沈み、辺りはパープルに染まっていた。





 友理子とキャプテンは富山県警に事情を説明し、捜索依頼を願い出た。

 そしておそらく神崎がいるであろう新湊の海岸へと向かった。

 そして海に着くとクルマを降り、ふたりは神崎を探した。

 するとすぐにキャプテンが叫んだ。


 「いました! あそこです! 神崎ーっ!」


 友理子は海に向かって駆け出した。

 靴を脱ぎ捨て、服のまま晩秋の海に飛び込み、クロールで神崎を追った。





 キャプテンの声が聞こえた気がしたが、ただの幻聴だと思い、私はそのまま振り向かずに海を進んで行った。


 その時だった。バシャバシャと必死に波を掻き分け、私の名を叫びながら近づいてくる女がいた。

 友理子だった。


 「あなたーっ! あなたーっ!」


 私は歩みを止めた。

 友理子はすぐに私に抱き付き、大声で泣き叫んだ。


 「死なないでとは言わない! でもあなただけを死なせはしない! 私も一緒に死にます!

 もう私をひとりにしないで!」


 

 どうやら今回も私の願いは未遂に終わったようだった。

 宵の明星が西の空に輝き始めていた。

 私は友理子と手を繋ぎ、キャプテンの待つ岸へと上がった。



 「おふたりとも、もう海水浴のシーズンはとっくに終わりましたよ」

 「キャプテン・・・、ご迷惑を、お掛けしました・・・」


 私はその場に泣き崩れ、砂浜に額を擦り付けて詫びた。

 

 「もう何も言うな、神崎。一緒に帰ろう」


 キャプテンは私を抱き締め、泣いた。


 「神崎、死はすべての人間に平等に訪れるものだ。

 俺にもお前にもだ。

 自ら死を求めずとも、死の方からやって来る。

 たとえどんなに辛くても、最期の最期まで生きろ。

 それが俺たち船乗りの、シーマンシップというやつだ」

 「・・・はい」





 それから2か月後、神崎はみんなに看取られ、自宅で息を引き取った。

 その死に顔はとても穏やかで、笑っているようにも見えた。


 通夜の時、ミュウが井岡会長に言った。


 「会長、神崎さんて本当に変な人でしたよね? バカみたい、カッコばかりつけて・・・」

 「ああ、どうしようもなく馬鹿な奴だったな? 俺より先に死にやがって。

 順番抜かしだろうが? 神崎」

 「そうですよ、私も会長も、神崎さんにしか本気になれなかったのに」


 ミュウと井岡も泣いた。





 そして桜が綻びかけた3月、友理子と楓は神戸のフェリーターミナルに来ていた。

 良く晴れた穏やかな春の日だった。


 「パパ、神戸に来たよ、ママと一緒に。

 ほら見て、とっても素敵なところだね? パパの言っていた通りだよ。

 私、お医者さんになることに決めたの。

 何年掛かってもいい、絶対にお医者さんになる。

 お医者さんになって、パパと同じ病気の人たちを治してあげたい。

 だから天国で見ていてね? 私のがんばっているところを」

 

 楓はスマホの待ち受けにしている神崎の画像を、神戸の街に向けた。


 「ほらパパ、見えるでしょう? パパの好きだった神戸の街が・・・」




 それから3年後、友理子も神崎の後を追うように、病院で亡くなった。

 友理子の死顔も、しあわせそうな穏やかなものだったという。


 ふたりの愛は永遠となった。


                  『浜昼顔』完



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【完結】浜昼顔(作品230722) 菊池昭仁 @landfall0810

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