第10話 大橋の攻防戦

 単管式の金管ラッパが鳴り響き、バヤール平原の空に勇ましい音色を轟かせる。

 ラッパ手は、唇だけでマウスピースに送る空気の振動を操り、その音色を巧みに使い分けた。

「応戦だ!騎兵部隊、前に出ろ!」

 ラッパの音色を聞き分けた司令官たちが、その意図を理解して下級兵士たちに指示を飛ばす。

 柵を押し破って、突如溢れ出した大小様々な蛮族の混成部隊は、まとまった行動を取らずに、思い思いの動きで敵を求めて突進した。ハイランド軍が築いていた防御柵は、巨躯を誇るオーガーたちによって破壊され、そこから小柄な蛮族たちが前線の兵士たちに襲いかかった。

 身体中に槍を突き立てられる事も恐れずに、興奮した蛮族はもんどりうつように、ハイランド兵に肉薄して斬りかかり、爪を立て、噛みついた。

「退がるな!踏みとどまれ!」

 立派な意匠を施したハイランドの騎士が、兵士たちを鼓舞する。自身の兜と背中、そして馬にも長い鳥の羽根をあしらう、高地民族由来である彼らの伝統的な戦装束。その姿は、オーガーが振り下ろした巨大な棍棒によって、ひり潰された。

「蛮族どもがぁ!」

 柵を開いて突出した騎兵集団が、防御柵の前で屯する蛮族たちを横なぎに打ち倒す。

 人馬によって掻き乱された蛮族は、応戦し始めた前線の歩兵たちによって、間も無く壊滅させられた。

 再びラッパが鳴り響き、潰走した敵を追い始めた歩兵たちに、引き潮を命じた。

「戻れ、深追いするな!壊れた柵を補強しろ!」

 攻撃の失敗を悟った蛮族たちは、自らの総大将が根を下ろす、大橋へと戻っていく。


 西方諸国と、東の“なれ果て“を隔つ、大河グランフューメ。そこには、横幅8m、総延長2kmを超える巨大な石造りの橋が架けられている。名を、アンカンシエル。河底を穿つ、巨大な石造りの橋脚をつなぐ、数千に及ぶアーチが、その名の由来だ。パドヴァ語に馴染めない者たちは、古代からの呼称「大橋」の名で呼ぶ。古代バヤール帝国によって建造され、五百年に渡りメンテナンスを受けながら、維持されてきた人族が太古より受け継ぐ偉大なる遺産の一つだ。


 大橋は、渡河を容易にするためだけの存在ではなかった。

 対蛮族との前線であり、最終防衛ラインでもある。

 故に、橋の両端と中間地点には、まるで砦のように堅牢なゲートハウスが設けられ、硬い大木を束ねて鉄で補強された巨大な門を守っていた。

 また、橋は通路であると同時に、巨大な建造物でもあった。

 8mの橋幅の両側には、木造にせよ商店やコンドミニアムが立ち並び、今にも河へと落下するのではないか、と心配なほどに増改築を重ね、膨れ上がった建造物たちが、ぎっしりと軒を連ねていた。


 橋を渡ると、通行料の名で税金がかかる。

 “なれ果て“の先に住む集落が産出する特産品、魔獣や幻獣の類の狩猟品、鉱物、貴金属の類…この大橋は、通商の要所であった。それ故に、税金をかけたがる輩は多い。修繕費用捻出を謳う君主会議、防衛任務を担うハイランド王国、通行人の安全祈願と病院運営を担う聖教皇と、多重の税金が載せられていた。

 だが商人たちは、いつの世もずる賢い。橋の通行を最小限に抑えて取引を完遂させるため、橋の上に住みつき始めたのだ。

 アンカンシエルは、1万人弱が住みつく、一つの町でもあった。


 この橋を失ったことは、通商の要衝であった町を一つ、奪われたことの他に、別のダメージを剣の民たちの心に与えた。

 “なれ果て“の端にも、人族の中には居を構える者たちがいたのだ。橋の存在は、西方から東方への拡大の意思の表れであり、攻勢の主導権が人族にあることの証明でもあった。

 それを、蛮族に奪われたのである。


 アンカンシエルの西側のゲートハウスにある“バヤール門“は開かれたままだ。それはあたかも、「我らは攻めに来たのであって、閉じこもるつもりはない」と、蛮族が意思を表明しているかのようでもある。それを裏付けるように、バヤール平原に300mも突出する、大きな半円形の防御柵が設けられていた。柵は途切れ途切れの粗末なものではあったが、何重にも巡らされ、三十を数える櫓がそれらを守っていた。櫓には獣の皮が張られ、防火対策も万全だった。

 この地に到達したハイランド軍は、はじめ蛮族の戦慣れした陣立に舌を巻いた。

 だが、組織立って行動したのは、ここまでだった。

 散発的に部族単位での突撃が繰り返され、人族の包囲を破った蛮族は、そのまま略奪する地を求めてどこかへ消えてゆく。

 一貫した統制力が無いと判断し、こちらが柵を破壊して攻勢に出れば、途端に門の奥から雲霞のごとく蛮族が湧いて出て、再び柵の外へと押し戻されてしまう。戦線は膠着していた。


 その中で、ハイランド王オスカー・ネイサン・オブ・バヤールと、パヴァーヌ王オーギュスト・ファン・ラ・セラテーヌは、沓を並べて応戦を続けていた。

「引き潮だ。戻れ、オスカー!」

 略式の王冠を被ったハイランド王は、逃げ遅れた蛮族の背に矢を放つと、パヴァーヌ王に振り返った。

「このままでは、消耗戦だ。アストリアのゴーレム兵団は、まだか!?リドニアの魔術兵団は、どこで油を売っておる!?」

 パヴァーヌ王オーギュストは、政略結婚による血縁でもあるハイランド王の隣に馬を並べ、その腕を掴んで引き戻した。

「いずれ来よう。行き掛けの駄賃で、我が国を攻めていなければな。引き潮だ、とにかく戻れ。おぬしに死なれては、戦力が半減してしまうではないか」

「しかし…くそっ。門はあの如く、開かれたままだというに…口惜しいっ!」

 オーギュストは、重ねた年齢を示すように、声に力を込めて諌めた。

「それは、おぬしの悪いところだ。蛮勇というのだぞ。あれは、挑発だ。“人間“がよく使う手であろうに…よう覚えておけ」

 オスカーが肩を落とし、剣を鞘に納めた頃、味方の軍勢からざわめきが起きた。

 何事かと、後方まで馬の足を向けた二人は、驚愕の光景を見る。


「本当に、来よった…辺境騎士団め…」

 オーギュストは、呆けたように呟いた。

 その生き物は、想像していたよりも大きく、しかし痩せており、傷だらけであった。

 想像していたよりも、しなやかで、繊細さとは無縁であったが、ゆっくりと、そして静かに歩く。

 そこに居合わせた、準戦力、後方支援、酒保の輩、洗濯女、娼婦、物乞い…総勢3万に及ぶ全員が、皆等しく生まれて初めて、それを目にした。

 大地を揺るがしながら、土煙を巻き上げ、猛進する姿を想像していた者も多かったに違いない。しかし、大方の予想を裏切り、地上最強の肉食生物は、他の肉食生物が狩りの成功度を上げるために常にそうあるように、まるで忍び寄るかのような静けさで、大地を四つ足で進んで来た。

 いつの間にか、迎えた人々からは、歓声が上がっていた。

「竜が来た!」

「辺境騎士団の竜が来た!」

「“竜の巫女“が軍勢を従えて、大橋までやって来た!」


 兵士たちの喝采を尻目に、二人の王は不機嫌な表情だった。

「剣の巫女やら、竜の巫女やら…」

「あれを人の手でどうこうせよ、とは…ウルヴァヌス猊下もヤキが回りおったものよ」

 オーギュストの声色に、一瞬ギョッとしたオスカーであったが、北西に聳える聖地の山海を見据えると、彼もまた言った。

「未だに山の上から見下ろすばかりの男に、世の中の本質を知れ、というのは酷なのかも知れんて」

「ふんっ…おぬしのその…間を取り持とうとする癖は、時に自滅を招くぞ。見ろ、竜は悠然と歩いているではないか。誰か一人でも、あの竜を殺そうとしている者はおるか?立ち向かって、行き手を阻もうとする勇者は?すでに、奴の言葉を間に受ける者なぞ、おらぬ、という証拠ぞ」

「いずれ、神殿からも見放されるか」

「竜が来たりて、王の時代を布告せん」

「竜たちが去り、魔術師が去り、剣士が去り、司祭も去る…そして、ようやっと王の時代か」

「世が乱れれば、必ず台頭する者が現れるものよ」

「止まらぬな…」

 それは、時代の潮流を語ったのではなかった。王たちは、前線へ向けて歩きを止めない竜の背中を眺めた。

「辺境騎士団が告げた日付は、いつであったか…」

「アドルフィーナだ。騎士団の守護神だから、忘れぬようにそうしたのだろう。あと5日だな。丁度良い段取りとも言える」

「あの歩調ならば、もう半刻もすれば、前線だ…」

「だな…」

「止まるのか…?」

 竜の周りには、まるで親衛隊気取りの、粗末な農民兵たちが取り巻いている。その後方には、辺境騎士団の正規軍が続いた。その中から、軍旗を掲げた騎士の一隊が、抜け出して来る。

 先頭にいる騎士の背後には、家紋を示す軍旗がはためく。

 二人の王は、辺境騎士団の総参謀長を務めるミュラー・オルレアンドの紋章を心得ていた。

 ミュラーは、近くまで来ると馬を降り、二人の王に敬意を表した。

 オーギュストは、彼が儀礼を述べる前に語りかける。

「前置きは良い。おぬしに尋ねるが、あの竜は制御できておるのか?人が乗っておるようだが?」

 ミュラーは、儀礼に則り、足を揃え、背筋を伸ばした直立姿勢で答える。

「もちろんです。フラム公爵の乗馬として、しかと…」

 その時、バヤール平原にいる全員の身体がこわばり、首を縮こませた。

 竜が咆哮を上げたのだ。

 まるでバヤール平原の隅々まで轟かせるような…グランフューメの対岸、そのはるか後方に至るまで…大気を震わせながら、竜の長い雄叫びは空を駆け抜けた。

 その意図を、戦場に身を置く者たちは、本能的に理解した。

 ミュラーは、奇妙な表情で続けた。

「どうやら、予定が早まりそうで…それをお伝えに…」


 果たして半刻後、物陰から様子を見守っていた蛮族たちに対し、竜による一方的な攻撃が開始された。

 竜は柵を破壊し、橋へと一直線に向かい始める。

 手足を槍で突き、鱗に矢を突き立てる蛮族たちを粗雑にあしらいながら。

 その首の付け根に設置された鞍の上で、イナヤは脅威になりそうな大柄な蛮族を指差し、竜に相手をするように促す。鱗をバンバンと叩いて怒鳴っても、オーガーの棍棒で身体を傷つけられようと、竜は橋へ向けた歩を止めない。

「あの橋の先に、“病の王“がいるのね」

 イナヤの元にも、蛮族らの矢が降り注ぎ始める。何本かは、竜の鱗を突き破り、出血を促しはじめる。盾を翳して身を守りながら、イナヤは最低限の応戦をするように竜を諭した。

「ほら、あそこ!魔術師がいる!魔法が来るわよ!」

 白く光る杖を掲げた小柄な蛮族を、竜は首を伸ばして噛みつき、そのまま飲み込んだ。

「ぇ、丸ごと飲んだの?あなた、お腹壊すわよ!?」

「魔力を持つ者は、多少なりと糧となる」

「でも…“後で“後悔するわよ…」

 振動が伝わり、イナヤはキャッと声を上げた。

 ゲートハウスの投石機から、大きな岩が投じられたのだ。

 竜の右前足の付け根にある鱗が割れて、痛々しく出血していた。


 ついに、竜が炎を吐いた。

 閃光と熱風がイナヤの髪を巻き上げ、口を開かせ、頬を弛ませた。

 たまらず盾で顔を覆う。

 ゲートハウスの上部が真っ赤に焼けて、投石機は半ば吹き飛んだ姿で炎上していた。

「すっごい!すっごい!」

 イナヤは興奮して、腰を鞍に留めたベルトをギシギシ鳴らしながら飛び跳ねた。

「もっとやっちゃいなよ!」

「前回、炎を吐きすぎて、これほどまでに弱ってしまったのだ。今ので最後にしたいところだ」

 炎の威力に驚き、蜘蛛の子を散らすように逃げた蛮族たちだったが、竜がゲートハウスが近づくと、その反撃は再び激しさを取り戻した。

「立ち直り早いわね…あ、ちょっダメ!」

 イナヤが見下ろす中、竜を警護する農民兵たちが立て続けに打ち倒される。倒れた男の上に、蛮族は馬乗りになって、顔をめった刺しにしている。

「ちょ、テンペスト、助けなさい!」

「異な事を…彼らは、私の警護を望んで着いて来た者たちだ。なぜ、我れが救わねばならん。本末転倒というものだ」

「なんですって…薄情者!彼らが居たから、辺境騎士団はあなたを止められなかったのよ!?この戦場まで無事に着くのが、あなたの望みだったのでしょうに、それをっ」

 急に、鞍が傾ぎ、慌ててイナヤは身体を支えた。

 竜が巨大な尾を鞭のようにしならせて、蛮族の一団を薙ぎ倒した。

 慣性が上乗せされた10トンにも及ぶ打撃力を受け、その身体は、手脚をへし折られ、臓腑を吹き出しながら地面に擦りつけられた。その様子を見て、イナヤは初めて、竜を心底恐怖した。


 まるで、悪夢のような生き物だ。

 いったい、誰がこの嵐の化身のごとき怪物の行く手を阻めよう…。


 イナヤはこの時に悟った。

 彼女が手を貸さなくても、竜はどうにか自力でここまで来れただろう。

 だが、全身の怪我の痛みを堪えながら、歩兵が追いすがれる程度の速度でしか歩めない。人族が敵に回っていたら、どれほどの兵士を地面にすり潰さねばならなかったか…死に体の今の竜にとって、それすら、さぞやしんどかろう。しかし、決して不可能ではなかったはずだ。

 それを、テンペスト自身も知っている。だから、周りを警護する味方が死のうと、背中に乗るイナヤが何を喚こうと、無視ができるのだ。


 イナヤの背中に悪寒が走った。

 この思考を、竜にも読まれている事に勘付いた。

 しかし、竜はイナヤに思考を送って来なかった。

 ただ黙々と、柵を踏み潰し、櫓を押し倒し、散発的に襲来する蛮族たちを吹き飛ばし続けた。

 イナヤは自分が今、どれだけ恐ろしい事に加担しているのかを、ようやく自覚した。


 激しく上下、左右に動く背の上で、イナヤは喘いだ。

 腰を締め付けるベルトは、ロープで縛り付けた鞍に繋がっている。まるで人慣れしていない野生馬の背中に、固定させられたようなものだ。容易に落ちることは無いが、激しく首が振られ、座姿勢を維持するだけでも精一杯だった。

 竜が唸った。

「背後に気を付けろ」

 イナヤが振り返ると、翼の付け根にしがみつく、蛮族の姿があった。そいつは片手で翼を掴み、イナヤの事を睨んでいる。

 騎手の私を狙う気だ、とイナヤは悟った。

 鞍に固定した槍に手を伸ばすが、竜の動きが止まらねば、それを引き抜くこともままならない。

 槍を構えようと、悪戦苦闘していると、肩にガツンと衝撃が走った。

 赤く焼き染めた甲冑の肩口に、手斧が刺さっていた。

 イナヤは手斧をぶら下げたまま槍を引き抜くと、蛮族に向けて投じた。

 しかし、体勢を整えられぬまま投じた槍は、ひょろりと力のない弧を描いて地面へと落下してゆく。

「あまり、不甲斐の無い姿を見せるな、我の名に傷がつく」

 竜の長い首が、ぐいとしなったかと思うと、翼にしがみついた蛮族をひと呑みにしてしまった。

 翼には、蛮族の手首だけが、しがみついたまま残された。

 竜の身体に衝撃が走る。

 隙が出来たと見るや、オーガーたちが体当たりを喰らわしたのだ。

 首元に巨大な棍棒が降り下され、イナヤの足元すれすれの鱗が数枚、砕け散った。

 鉤爪で肩の肉を深々と抉られても、オーガーたちは血眼になって喰らいつく。赤糸病でボロボロになった竜の下腹の肉をむしり取り、翼を掴むと、馬をも捻り潰す膂力で持って、へし折らんと力を込める。

 竜の動きが止まると、瞬く間に小鬼たちがその脚をよじ登り始め、イナヤを引き摺り下ろそうと手を伸ばした。

 イナヤは剣を抜くと、竜の鱗をまな板代わりに、それらの手首を切り落とした。

 竜は小さな炎を幾度も吐き、イナヤはその熱風に当てられながら、絶え間なく剣を振り続けた。


 先頭で戦っていたはずの大司教の姿も、神官騎士団たちの姿も見失った。

 あれほど沢山いた、農民兵たちの姿は、どこにも見えない。

 テンペストが突出しているのだ。

 大小様々な蛮族たちが、津波のように波状攻撃を仕掛けてくる。

 一度撃退しても、ゲートハウスの奥から蛮族たちの応援が湧き出し、数が整うと再び、竜に突貫する。

 とはいえ、戦っているのは、テンペストとイナヤだけでは無かった。

 ハイランド軍の騎士たち、歩兵たちも竜と戦線を揃えて、防御柵を乗り越え攻勢に転じている。

 軍旗を靡かせて、パヴァーヌの騎士たちが歩兵に先駆けて、蛮族を蹂躙する。

 ゲートハウスの上から、バリスタが太く巨大な矢を撃ち出し、竜の身体を串刺しにする。

 投石機が岩の破片をばら撒き、歩兵たちの兜をかち割った。


 やがて陽が傾ぎ、夜の帷が降り、平原の境界線が残光を消し去ってもなお、悪夢のような消耗線は続けられた。竜が灯した櫓の篝火が、兵士たちの甲冑と剣を照らし出す。

 空が白んでくると、もはや立ち上がれる者は少なかった。

 怒りと闘志で焼けた身体は、早春の朝露に冷やされ、出血と疲労でへたり込む者たちは、バヤール平原の一面を覆い尽くす屍に、ようやく気がついた。

 テンペストは、まだ四本の脚で立っていた。

 その背中で、だらりと気を失っていたイナヤは、うっすらと目を開く。

 吐瀉物を拭うこともできずに、無感情な瞳だけを動かして、あたりを見渡した。

 ハイランド王は、左肩を庇いながら、地面にへたり込んでいた。

 パヴァーヌ王は、近衛に支えられながら、馬の背で突っ伏している。

 辺境騎士団の軍旗も見えたが、誰がそこにいるのかまでは、視認できない。

 空は青みを増し、凄惨な状況を容赦なく、西方諸国の者たちに見せつけた。

 蛮族と差し違えて、横たわる騎士。主人の居なくなった騎士たちの旗は、地面でもがくように風をはらみ、乗り手の居なくなった馬は、脚を引き摺りながら途方に暮れたように彷徨う。


 イナヤは橋の最終防衛ラインであるゲートハウスに目線を向けて、愕然とした。

 無傷の蛮族たちが、武器を手に、整列している。

「まがい物の気配の中に、奴のものを感じる…確かに、奴だ…近づいている。川の向こう岸か…すぐそばまで来ておる。おぉ…永劫の呪いの終焉ぞ…」

 竜が喉を鳴らすと、イナヤの思考に声を送った。

 竜の身体には、バリスタの太矢が数本突き立ち、小さな矢に至っては、もはや数える気にもなれない。鱗は破れ、剥がれ落ち、紅の血が全身を覆い、右の翼は根本から千切られていた。

 もう、この竜が大空を舞うことは無い。

 竜の顔を見て、イナヤは目を瞑った。

 頬の返り血と汗と泥の上に、一筋の涙が下り落ちた。

 イナヤは、腰から皮袋を取り出すと、その中身を豪快にこぼしながら、一気に飲み干した。

 フラムの農園で作った葡萄酒を薄めたものだ。アルコールが、枯渇した喉を潤し、空になった胃に火を灯す。

「いいわ…。最期まで付き合うわよ」

「ここに至っては、其方に心より礼を述べようぞ。我を導いてくれ」

 竜の両眼は、防御柵の杭とオーガーの棍棒によって、潰されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る