第7話 遭遇
港への潜入は、シャルルの提案で夕方に行われた。
夕刻は蛮族たちにとっては夜明け時に近い感覚で、昼間も戦闘を続けている彼らは、もっとも眠気がキツくなる時間帯、というのが主な理由だ。
加えて、こちらには女性も子どももいる。夜になると川は光を吸収して尚更、漆黒の様相を成す。川面に光が反射するのは、よほど強い光がほぼ水平に近い角度で差し込んだ場合だけだ。その場合でも、分かるのは水がある、というだけで浅い場所であっても川底が見える事は決してない。月明かりだけで流れの強い川辺に近づくのは、危険すぎるという結論だった。
「おぉおぉ、早速、おっぱじまってるなぁ」
街の義勇兵だろうか…鎧を着込んでいない若者たちと、蛮族の集団が、港で戦闘を繰り広げていた。
幸いなことに、まだ距離はある。
見渡すと、川辺には無数の桟橋が連なっている。運送業と漁業で、この街は栄えていたのだろう。しかし、港といっても沿岸の大都市のように、埋立地を石畳で整備したような立派な造りではない。
壊れた船や、引き上げられた船、仕掛け網の山や普通に草むらもある。とはいえ、大人がゾロゾロと連なって隠れるには、心許ない。
「んだぁ、ほとんど壊れてるじゃねーか」
ベルトルトがぼやく。
「いや、徹底して破壊されているわけじゃない。無事なのも、幾つかある。ほら、あそこの桟橋には船もまだあるぞ」
フーゴが大きめの船が一艘、係留されたままの桟橋を発見した。
「身を低くしたまま、落ち着いて進んでください」
ベルトルトは、公爵の母子に注意を促した。
船を選り好みできないと踏んだベルトルトは、二人の馬を丘の向こう側で開放していた。
荷物は、背負い袋に入れられるだけに減らし、力自慢のビョルンとヴィクトルの二人が請け負った。
川の上に蛮族の船は見受けられない。
桟橋までは、ほぼ隠れる場所もないため、静かに迅速に移動する事が求められた。
ベルトルトは、一同に向かって説明した。
「いいか。できるだけ、隠れられる場所を辿る。俺が先頭を行くから、遅れずに一列で着いてくるんだ。腰を沈めて、後はいつも通りに歩けばいい。ビョルン、転けるなよ」
息子の後を進むヒルダも、今回ばかりはスカートをたくし上げ、真剣な表情で列に着いてきた。アーデルハイムもお喋りなしだ。
問題を起こしたのは、他ならない、ベルトルトだった。
草むらの中で柔らかい物に足を取られ、転倒した。
10cmの距離で顔をつき合わせて見つめ合ったのは、蛮族、ホブゴブリンの寝起き顔だった。
昼寝をしていたゴブリンに、つまづいたのだ。
即座にホブゴブリンの口を押さえ、残る右手で後ろ越しの短刀を抜くと、その喉を切り裂く。
次いで起き上がった、もう一体の喉の付け根に短刀を投じると、すぐさま三体目に詰め寄り、長剣で袈裟斬りに切り伏せた。
瞬く間に、三体のホブゴブリンの死体が積み上がった。
「なんだ、こいつら!なぜこんな所で寝てやがる。戦場だろっ!精神を疑うぜっ!」
興奮したベルトルトのケツを、シャルルが蹴り上げた。
「急げ、気付かれたぞ!」
左手の戦場を見ると、後方で燻っていた蛮族どもが離脱して、こちらへ向って来ている。
その数…20体ほど。
「結構、来たな」
「俺たちの方が弱そうに見えたんだろう」
「さもしい野郎どもめっ…走れっ!」
最後の一言は、仲間に投げかけられた。
足の短いうさぎも、ドワーフも、子どもと貴婦人も、全速力で桟橋へと走る。
桟橋の上に、矢が突き立ち、ヒルダが怯んだ。
「止まるなっ、的になるぞ」
ヴィクトルが、彼女を抱え上げて、一緒に船へ飛び込んだ。
「無茶するなっ!転覆するぞ!」
船は人間だけならば、10人は優に乗れる広さがあった。
先頭で乗り込んだベルトルトは、アーデルハイムとヒルダの手を取って、中央に座らせる。
シャルルが、ベルトルトの腰から短剣を抜き取ると、それを船の外へ投げた。
「何を…」
振り返ったベルトルトは、ビョルンの背後に迫った小鬼が、額に彼の短剣を突き立てて絶命するのを見た。
「お前…一体、何者なんだ?」
ベルトルトに問われたシャルルは、鼻を突き上げて言い放つ。
「それは俺も知りたい。だが大事なのは、何者か、ではなく、何をするか、なんじゃないか?」
「生意気め」
ベルトルトはうさぎの頭を掻きむしった。
「年上だって言ってるだろッ」
「ビョルン、どうした?お前も乗れ!」
ベルトルトは、桟橋の上でぴょんぴょんと飛び跳ねるドワーフに命じた。ビョルンは、斧を両手に持って、くるりと背を向けてしまう。
「儂は、桟橋を守る!先にゆけ!」
「ヴィクトル!」
ベルトルトが名を呼ぶと、彼はビョルンの襟首を掴んで、船に引き倒した。ビョルンは、子どものような情けない悲鳴をあげた。
「よせッ!儂は泳げんのだ!」
「知ってる。船を出せ!」
ベルトルトの合図で、一行は櫂を手にすると、最後尾にいたラルクに係留紐を解くように命じた。しかし、彼が手を伸ばした先に矢が飛来し、偶然にも係留紐をぶっつりと切断してくれる。
「こりゃ、助かる」
ラルクは自分も乗り込むと、出航の合図を送った。
6本あった櫂を皆で漕ぎ、船は桟橋を離れていく…。
これで一安心…と誰もが思ったその時、蛮族が投じた槍が、ラルクの背中に吸い込まれるようにつき刺さった。
ヒルダは、声にならない悲鳴をあげた。
「ラルクっ!なんてこった、フーゴ、櫂をシャルルに渡して治療を…」
ベルトルトは、櫂を漕ぎながら、顔を赤らめて指示を飛ばした。
立て続けに蛮族が放った矢が、船の上へと降り注ぐ。
船底に仰向けに倒れたままのアーデルハイムは、蒼白のままラルクの下腹から除いた穂先を見つめた。
「いいか、坊ちゃん…よく覚えておけ。ここを貫かれると、もう助からねぇ…他にも、急所は…」
ラルクは、自分の下腹を指刺して語り始めた。
桟橋の上では、大柄の蛮族が再び手槍を構えていた。
「馬鹿、ラルク、伏せろ!」
ベルトルトは櫂を手放し、船を揺らしながら人を掻き分け、船尾へと這い進んだ。
「伏せろ、殺られるぞ!」
ラルクの肩に手をかけるが、彼の身体はびくともしなかった。
「お前…」
ラルクの身体が、びくりと震え、左胸の肋骨をへし折った槍の穂先が、胸から飛び出した。
「もう一度、戦場に来れて、俺…幸せだ…ありが…たいちょ…」
ずるりと滑り落ちるように、ラルクの身体はグランフューメの白みがかった翠色の流れに呑み込まれた。やがて浮かび上がった彼の背中には、二本の槍の他に、すでに五本もの矢が突き立っていた。
川の流れが船を押し流し、桟橋は遠くへと消えていく。
回転しながら距離を離して行くラルクの身体は、再び川の中へとゆっくりと沈んでいった。
「グランフューメよ…もう少しだけ…お前の流れが早かったなら…」
ベルトルトは、涙を流して川面を見つめた。
ヴィクトルが、彼の背に手を置いた。
「ベルよ…俺たちは、戦士だ」
ビョルンが、守護神に祈りを捧げる。
「ゾルヴィックよ、御身を焼く炎の中に、友の魂を贈り出さん…」
「偉大なる剣神のもとに…」
フーゴも、懐からトリスケルを取り出し、友の魂が彷徨う事なく、守護神の元へと辿り着けるようにと祈る。彼らは、同じ守護神を頂く、戦友同士であった。
上流から吹き荒ぶ川風が、皆の髪を掻き上げた。
「…ねぇ…何か来る…」
アーデルハイムが、上流を指差して呟いた。
目を開き、一行が振り返ると、上流に四角い物が、ひとつ…またひとつと姿を現した。
夕日に照らされたそれは、船の帆だ。
それが瞬く間に数を増やし、川面を埋め尽くした。
歳をとってもまだ視力の衰えぬフーゴが、目を細めてそれを見つめる。
「…紋章がある…北の海賊…いや、北海帝国の船団だ!」
「北の海とグランフューメは、繋がっていません」
ヒルダが異を唱えるが、急速に接近する帆に描かれた錨と斧をモチーフにした紋章は、やがて他の者たちの目にもはっきりと視認ができるほどに迫っていた。
ベルトルトは、言った。
「北海帝国の奇襲攻撃だ」
イーストヴィレッジの港まで肉薄した船団は、今度は帆を下ろすと櫂を漕いで接舷していく。
20隻を優に超える北の海賊たちが、蛮族掃討戦に駆けつけたのだ。
「どうする?」
頬を高揚させるビョルンの問いに、ベルトルトは唇を噛み締めて答えた。
「報復は果たしたい…だが、あそこはもはや、俺たちの戦場ではない。川を渡って、先行者たちの追跡を続ける」
ビョルンは船底を叩いて悔しんだ。
「私たちは、竜を退治するのです」
「だから、そう言っている!」
ヒルダの念押しに、ベルトルトは荒々しく答えると、彼女は唇を噛み締めて押し黙った。
対岸に上陸を果たし、川向こうで繰り広げられている戦闘に後ろ髪を引かれながら、一行は北上を開始した。船頭の話によると、騎士3人と従者たちの一行は東方騎士団の砦を目指していたらしい。
「ねぇ母上、僕たちは今、蛮族たちの土地に立っているのですよ?これは、すごいことです!」
足を濡らして不快なのだろうか、あるいは長旅の疲労や心労のためだろうか。ヒルダの心は沈んでいるかのようだった。アーデルハイムが語りかけたのも、それを子ども心に察知したからかも知れない。
「言葉遣いが戻っていますよ。黙って、遅れないように着いて来なさい。もう、自分の足で歩くしかないのですから…」
もしかすると、それは体力を温存しろ、という意味だったのかも知れない。しかし、いかに利発で聡いとはいえ、未だ6歳児でしかないアーデルハイムには、その気遣いは伝わらなかった。
足跡を探すために先行していたフーゴが、振り返って合図を送った。
「伏せろっ、身を隠せ!」
ベルトルトが、指示を飛ばす。
慌てて散会し、背の低い草むらの中に片膝を着いた。
ヒルダも遅れることなく、皆に動きを合わせる。
やがて、草むらを掻き分けながら、騎馬と兵士たちがこちらに向かってくる姿を認めた。
シャルルは、ベルトルトの隣に移動して、判断を仰いだ。
「どうする、おい。向こうからやって来たぞ」
目論見違いだ。こちらは、できる事なら会わないで済ませたかったのだ。
「くそ…だが、竜の追跡者とは限らない。それに、友好的であるかも…」
「待ちなさい!」
ヒルダが、騎士たちの前に飛び出した。
「あぁっ…そりゃ、そうだわな…」
仕方なし、と老兵たちは立ち上がり、ヒルダを守れる位置に移動した。
足を止めた騎士たちの後ろから、小柄で華奢な体の若者が前に進み出た。
「北の訛りだ…ぇ、まさか…ハインリヒ公爵殿下…」
アーデルハイムは、あっと指を差した。
「お前は、ロロ=ノアの弟子のエルフかっ!?」
「公爵って…ぇ、弟子?」
「おい…うさぎが、鎧を着ているぞ」
両側の騎士たちは、アーデルハイムとル=シエルの顔を交互に見比べたあと、妙ちくりんな甲冑を纏ったうさぎの姿に視線を奪われた。
騎士アシュリンド、ナタナエル、クルムドと、ハーフエルフのル=シエルと野伏、従者たちからなる一行は、一度は東方騎士団の砦まで到着していた。しかし、すでにクルトとハルトマンの二人は、東方騎士団に別れを告げて、南下した後だった。
どこかで、入れ違いになっていたのだ。
仕方なしに、風呂と補給を済ませた一行は、再び南下を始めたのだが、その途中で川を下る船団に追い抜かれた。川下で戦闘が起これば、そこに探す二人に出会えるかも知れない、そう思い船団を追跡していたところに、シュバルツェンベルグ公爵の“竜退治“の小隊に遭遇したのだった。
互いの事情を述べ合うと、ル=シエルはアーデルハイムに語りかけた。
「恐縮ですが公爵殿下、私たちはその竜に遭遇しました。あれは、およそ人間がどうこうできる類の存在ではありませぬ。全身に大きな傷を負っていましたので、おそらく放っておいても長くは持たぬでしょう。どうか、直接のご対決はお避けくださいますよう…」
ヒルダが遮った。
「エルフというのは須く、人間のやる事に口を挟まずには、いられない性格なのか。キングメーカーの弟子と言えども、余計な節介は無用。“竜退治“は聖教皇猊下から授かった大義なのです」
「私も近づいただけで、死にかけました。あれに人間の武器など効果はありません」
アシュリンドが口を開くと、ヒルダは毛を逆立てんばかりに怒りを露わにした。
「黙れっ!辺境騎士団の紋章をつけて、妾に話しかけるな!」
アーデルハイムが、思わず両肩を縮こませた。
「ブルクヘイム男爵!辺境騎士団の者たちを切り伏せよ!」
困った顔をしたアーデルハイムは、母と老傭兵とを交互に見つめる事しかできなかった。
「…恐れながら」
ベルトルトは動かず、首を垂れて低い声を出した。
「何をしておる…即刻、首を切り落とせ!」
老傭兵は空を見つめて、言い返した。
「我らには、知識もなく、武器もありません。今は、生きた竜を目撃した者たちの協力を仰ぐべきです」
ヒルダは、手袋を脱いで、老傭兵の体を叩いた。
「妾の命に従えぬと申すかっ!」
「私の主君は、アーデルハイム・ハインリヒ4世殿下です」
ヒルダは白い顔を赤らめ、整った顔を鬼の形相へと変えた。
「実権は、後見人たる、妾にある!」
「母上殿!」
アーデルハイムは、両腕をピンと伸ばして声を振り絞った。
「戦士ベルトルト、ビョルン、フーゴ、ヴィクトル、そしてシャルルは“余の“臣下です!」
「お前はまだ子ども…」
「しかし、それでも余は公爵なのです。母上殿、余は彼らの命を預かる身です。これ以上、無用な死を余は望みません!」
「…無用とな…お前は、父君の仇をとりたくはないと申すのかっ」
「申していません。仇は打ちます!しかし、母上殿は、辺境騎士団に関わる全員を抹殺するおつもりなのですか?一人残らず…殺しまくりたいと…おっしゃるの…ですか!?」
アーデルハイムの膝は震え、声は詰まり、今にも泣き出しそうだった。
もう、これ以上は難しい…。
子どもに成せる事ではなかった。
彼は、6歳児なのだ。
貴族の中の貴族として教育を受けた…それでも6歳児の男子でしかないのだ。
「ところで…私の立場をまだ、明らかにしておりませんでしたな…」
成り行きを見ていたクルムドが、落ち着き払った、しかしよく通る、しっかりとした口調で語り始めた。
「私は、クルムド・モンテーニュと申します。パヴァーヌ王より直々の密命を帯びて、はるばる旅を続けております。現状、任務のため辺境騎士団の面々の協力を得て行動しております故…」
少し溜めて、彼ははっきりと口にした。
「“もめ事“は、後にしていただきたい」
ヒルダは、顔をアーデルハイムに向けたまま、目線をギロリと彼に向けると…無言のまま踵を返して、後ろに下がった。
「結構、ここは第三者たるパヴァーヌ騎士に免じて、双方、しばしの共存関係を結びましょう。お忘れかのようですが、ここはすでに“なれ果て“の地。剣の子ら共通の敵が、ごまんと跋扈する魑魅魍魎の地なのですから」
パンっとクルムドが手を叩くと、アーデルハイムの目から涙が溢れ出し、彼は後ろを向いた。
その姿を見つめていたヒルダは、やがて静かに近寄り、そっと抱きしめた。
その日は近くに野営場所を定め、日が暮れるまで行動指針を論じ合った。
行方不明者を追うアシュリンドたちの見解は、こうだ。
クルトたちが対岸にあるイーストヴィレッジに戻るには、再び船で渡る必要があるが、川沿いを下って来た彼らは係留された船を見ていない。蛮族に包囲された街に二人だけで入り込もうとするなら、裸一貫で川を泳ぐ可能性は低く、船を探すだろう。しかし、初めからイーストヴィレッジに戻るつもりならば、東方騎士団のつてで川を渡れたはずだ。つまり、このまま南下した可能性が一番高いだろう。
竜を追うアーデルハイムたちの見解は、こうだ。
イーストヴィレッジの戦闘は、港を開放されたとしても、丘に展開する蛮族どもを追い払うまでには、まだしばらく時間がかかるはずだ。バリスタに類する武具がイーストヴィレッジに存在するとしても、戦時下ではいくら金を積んでも譲り受けることは難しいだろう。また、船頭の話では、この街では竜の存在を示す噂話の一つも流れていない様子だった。すると、少なくとも竜は北にはいない、と考えるのが妥当だ。当面は、竜の情報を辺境騎士団から引き出しつつ、一緒に南下する以外、取りうる選択肢がない。
つまり、双方に共通する次の選択肢は「共に南下する」だった。
会合が終わると、あたりはすっかり暗くなっていた。
従者たちは、すでに夜営の準備に抜かりがない。
食事を終えたナタナエルと従者たちは、焚き火にあたっていたシャルルをとり囲み、身体の作りや生い立ちについて質問攻めにした。特に、毛皮の手触りについてのナタナエルの執着は異常を極めた。
「鳥肌がまだ残っていやがる…」
「女性に撫でられるのは、そんなに嫌なものか?」
ようやく抜け出したシャルルは、火のそばで剣の手入れをしていたアシュリンドのそばへと避難してきた。
「悪いが、俺は男女の区別に、特別な意識はない」
「…なるほど、そりゃ、そうか…」
アシュリンドは、あははと笑った。
「姫さんは、あれから壮健か?」
「そうだな…君と別れてから、しばらく経つな…色々と心を悩ませてはいるが、身体は健康だよ」
「そうか…だが、心労が絶えないんじゃ、そのうち身体を壊しかねん。心配だな…」
アシュリンドは、炎を反射する紅の瞳を見つめるが、人間のそれとは大きく異なる瞳からは、その心情を察しかねた。
「俺の旅は、その一つを解決するための旅でもある。それより、君の方が俺は心配だよ。どうして、そんな境遇になってるんだ?」
「一人称を変えたんだんだな、俺は、前の方が好きだったぜ」
シャルルの言葉に、アシュリンドは頬を緩めて合図する。
「シャルル・フーファニー卿と呼ばなきゃならないな」
「よく、俺のフルネームを知っているな…お前の前で名乗ったか?あぁ…姫に聞いたのか。すごい記憶力だ」
「それが、側仕えの仕事だからな」
「下着の色を覚えるのも仕事か?姫、それは昨日履いた色と同じです…ってか」
アシュリンドは、片眉を上げただけだった。
「すまん…お前は、こういう話題は嫌いだな。俺も、別に“布切れ“なんぞに興味があるわけじゃないんだが、大抵の人間はこういう話題が好きだから、ついな」
「君も、苦労してるんだな…人間に話題を合わせているのか」
「そうでもない。人間社会で育ったからな…逆に、うさぎらしく過ごせと言われても、俺には分からん。年中盛って、メスの尻を追いかけていれば、それらしく見えるかな?」
二人は笑った。
「人参をかじってみたらどうだ?」
「それは、さっきも聞かれたぞ、俺は甘い野菜は嫌いなんだ!」
「幻滅だな…」
「知ったことか」
アシュリンドはまた、あははと笑った。
「…」
夜空を見上げたシャルルは、しばし口を噤んだ。
アシュリンドは、干し肉を棒の先につけて、火で炙り始める。
「…どうした?」
「いや…なんでもない」
「何か、心配事でもあるのか?」
「大丈夫だ、些細なことだ」
干し肉を渡されて、シャルルはそれを受け取ろうと手を伸ばした。
「大丈夫だ。うさぎの肉じゃない」
肩に軽くパンチを当ててから、受け取った。
一口、かじり取る。
「竜を退治しよう、だなんて無理難題の前では、何でも些細なことだな」
「…違いない。いや、だが本当に些細な事だ」
シャルルは、天を指差した。
「さっきまで、星が見えていたと思ったんだが…」
「…本当だな。夕方まで、小さい雲しか無かったぞ…それに、なんだか背中が寒い」
シャルルは膝に手を当てて、よいしょ、と立ち上がった。
「雨でも降ったら厄介だ。備えよう…」
焚き火の周りで暖をとっているはずの仲間へ視線を送ると、何も見えなかった。
それどころか、一瞬前まで見ていた、焚き火の灯りさえ…。
立ちくらみを起こしたのかと疑ったが、そうでは無かった。
!?
身体が締め付けられて、身動きが取れない。
「おぃご、ぶぉっ」
口の中に布のような物が詰め込まれた。
そうだ、布だ。
身体中に、黒い布が巻かれているのだと、シャルルは理解した。
「不可思議な種族だ…記憶にない」
ゆっくりと、低くしわがれた声が、シャルルの鼻先で聞こえた。
「少し緩めろ、よく見てみたい」
目鼻を締め付けていた黒い布がスルスルと動き、シャルルはそれを見た。
蒼く光る異世界へと続くゲート。
吸い込まれそうに感じる、底知れぬ深淵。
その正体は、闇に光る蛮族の瞳だった。
「私の言葉は、理解できるか?…お前は今、何か行動せねば、待つのは死だと…そう考えているな?」
蛮族は、鋭く尖らせた穂先のような歯を剥き出して、シャルルに語った。
その口元は、ニヤリと吊り上がった。
「だが、逆だ。お前にだけは、先に質問をする。お前が何者か解らぬから…」
シャルルの口元を覆う布が解かれても、恐怖は彼の声を喉の奥に絡みつかせ、口から出るのを許さない。
「お前が、“長“か?」
細かく、目を左右に振った。
「誰が、長だ?」
首は固定され、自由に動くのは、目だけだ。
視野の広い赤い瞳であたりを見渡すと、焚き火の周りで黒い布に巻かれた塊が、ゴロゴロとしていた。
声が出るようになると、恐ろしいほど早く舌が回った。
「俺たちは、二つのグループだ。俺たちは、竜退治が目的で、もう一つは人探しのグループだ。偶然、知人が混ざっていて、一時合流する事にしたんだ」
シャルルの身体が高く、持ち上げられた。
「お前が…いや、失礼した。お前たちが、竜を倒すつもりなのか?」
周囲から、地鳴りようにぐるぐると唸り声が聞こえた。
それが笑い声だと分かるに、少し時間を要した。
「面白い…冗談というやつだな。私は、我が軍の兵糧を奪ってまわる盗人を捕らえたものと、すっかり勘違いしてしまったぞ」
「…冗談は言っていない…兵糧なんて無い、調べてみろ」
「その疑いは、すでに晴れている。何故なら、お前たちのような脆弱で少数の兵士では、護衛の戦士たちを倒せない。それに、それらしい荷物もないからだ…だが…」
粘ついた唾液を垂らす蛮族の口は、腐った魚の臭いがした。
「その仲間である可能性は、まだ残されている…しかし…」
シャルルの身体は、地面に落とされた。
「竜退治とは…いかす冗談を言うものだ…使う機会があるやも知れぬ、覚えておこう」
布がひとりでに締まり、モルタルで固められたかのように動けなくなってしまった。
視界が再び奪われ、顎が強制的に開かれる。
舌が夜風に乾く。
「いかす冗談の礼に、教えてやろう。お前を拘束しているのは、シャドウストーカーという魔物たちだ。闇の中でしか生きられず、実態を持たぬが…彼らはそれをコンプレックスに感じている。だから、布を自在に操る術を身につけ、まるで実態があるかのように自らを着飾るのだ。そして、その芸当にはこういう使い道もある。何体も一度にロープで巻くのは、一苦労だからな。重宝するよ」
シャルルの口の中に、ドロリとした常温の液体が流れ込んできた。
ドヤ顔で老兵たちを従えるアーデルハイム。
斜に構え、怪訝な視線を向けるヒルダ。
大剣の刀身側を両手に持った女騎士に、その十字鍔で肩口を叩き込まれる、桃色の髪の女剣士。
川辺でオレンジを齧り付き、子どものような笑顔を見せる女剣士。
樽に詰められた人間の死体。
ウジ避けの腐った鯵。
焼けて崩れ、石組みだけが残された、丘の上にある貴族の邸宅。
親代わりに育ててくれた、エルフの母親とパン職人の父親。
初恋を寄せた貴族の少女。
パン職人から譲り受けた、壊れた料理道具。
どれが今で、どれが昔か、分からなくなった。
締め付けられた布を、彼の涙が濡らした。
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