第6話 審問会
イナヤが“荒れ海“を渡り、フラムの街に船を着けると、そこで彼女が目にしたのは、ずらりと並んだ黒いのぼり旗の列だった。
街は、その正当な後継者の死を悼む、悲しみで満ちていた。
港に出迎えた面子は、辺境騎士団参謀長ミュラーと、山の民の軍師デジレ。太守の館に向かう道すがら、彼らから概略を説明される。
異母兄弟のソレイユは、4日ほど前から食欲を無くしていたようだ。はじめは、イナヤが遠出してしまったため、血族を失っていた彼は寂しさのあまり、塞ぎ込んでいるのだと思われていた。しかし、2日後には部屋から出て来なくなり、心配した侍女がその夜に様子を伺いに入ったところ、高熱にうなされていたのだという。
翌日、6月の女神である癒し手のフランツェスカの神殿から医師が到着したが、時既に遅しの状態だったという。死因は、辺境の風土病である“赤糸病“だ。
姉のフランソワに続き、イナヤの近親者で二人目の感染者となった。
その身体は、菌糸をはびこませ始めていたため、迅速に火葬された。
イナヤの手元に残されたのは、奇跡の水で清められた、彼の装飾品のみだった。
ミュラーは、その遺品を手渡しながら、彼女に詫びた。
「いいのよ…ソレイユは、ご飯を食べないくらいのわがままは、しょっちゅうだったから…」
「もう一つ、詫びなければならないことが…その…イナヤ殿下は出征に出られ、すぐにはお戻りになれないものと承知しておりました故、諸々の手配を私どもで…」
イナヤが首を振ると、濃紺の麻の羽織に、黒い帯を締めた山の民の文化に沿ったスタイルのデジレが、淡々と近況を報告した。
それを聞いて、イナヤは眩暈がした。
「五日後の国葬に向けて、来賓が向かっている…って、国葬の準備は?」
「ほぼ…まだ、これからです…」
赤備えの甲冑姿から、黒装束に着替えたイナヤは、喪主としてソレイユの国葬準備に着手した。
国葬には、辺境騎士団たちが訪れる前には、敵対を続けていた山の王の養子、周辺国をはじめ国民にさえ、関係性をひた隠しにしていた南の島に住むリザードマンたちの指導者、そして辺境騎士団団長が領有しているシュナイダー侯領、オレリア公領などから代理人たちが参列した。立て続けに遠征に出ているアマーリエは、領地の代理人に現地の評判の良い人間を騎士に任命し、それに当てている。選考基準は、戦闘技術ではなく、資産でもなく、家柄は考慮するが、何よりも人柄をこそ重視した。彼らはミュラーやイナヤに敬意を表し、食事会でも羽目を外さず、自らの役割を無難にこなした。辺境騎士団長の代役は、敵地へと遠征の最中とあり、参謀長が務めた。
フラムの歴史上、例のない荘厳な葬儀となった。
港町の人々も、異例の参列者に奇異の眼差しを向け、様々な噂話を繰り広げた。
喪主のイナヤは、ミュラーとデジレ、それに次女長のニーナの助力を存分に借りながらも、自ら先頭に立って、この大任をやり遂げた。
最後に、ミュラーの提言で関係者の労をねぎらう食事会が設けられ、ほぼ五日ぶりに、イナヤは自身の寝室で充分な眠りにつく事が出来た。
夢の内容は覚えていない。
気がつくと、鳥の囀りと共に、侍女たちの話し声が聞こえてきた。
幼少より自堕落であった彼女の部屋は、主人が目を覚ますか否かを問わず、清掃が行われる。もちろん、寝台だけは起きてからの再びの作業となるが、その日課は彼女の母親が生前に命じていた内容のまま変わらず実行され続けていた。
だから、窓を開けて空気を入れ替えながら、部屋に砂を撒いて、衣服の繊維や食べカス、靴が運んだ土などと共に、次女たちはそれらを静かに箒で集めていた。
若い侍女たちは、ひそひそ声で世間話をしながら、この単調な作業をこなす。
父と母の死後、幼少の君主を頂き、後見人は留守がちの“元“お天馬娘と来ている。少しばかり、風紀が乱れるのも致し方ない。
弛んでるな…夢心地の中で、彼女はそう呟いた。
彼女のたちの話は、居酒屋で弾き語りをしている流れの吟遊詩人に及んだ。
なになに…朝焼けを受けて輝く朝露のような金髪に、透き通るようなきめの細かい白い肌、それに何より蜂蜜酒のように滑らかで、深いとろけるような美声…とな!
いや、待て、私。
美しさでウチの旦那よりも上を行く者は、そうは居ないんだぞ!
ここで目覚めるのも、なんだかバツが悪く…しばらくはたぬき寝入りを決め込む。
…なんだとっ!?靴職人の娘とねんごろの関係かも、だとっ!?誰だ、その娘は…全く知らんっ!
あっ、話を逸らすなっ…話題を戻せ!
「ところで、ソレイユ坊っちゃまの件、噂を聞いたんだけど…」
二人の話し声が、ひそひそ声から、さらに音量が下げる。
「…てゆう話が、実しやかに語られているそうなの…」
「怖っ…あの虫も殺さないようなお方が?」
「しっ、声が大きい…あたしも信じている訳じゃないわよ?でも、そういう話…な・の・よっ」
イナヤは、二人が退室するまで動かずにいた。
シーツを握り、じっと堪えて待った。
「予想外の動きですな…正直、あの娘を見直しましたぞ」
デジレは、ミュラーの私室に訪れ、事の次第を報告した。
「君が領内に情報網を構築していた事にも、僕は正直驚きを隠せないよ」
「ホーランド卿の一件から得た、教訓と思って頂ければ幸いかと」
ミュラーはため息をついた。
「彼女が描いた絵がどんなものか…僕たちの命運は、それに託されたわけか」
「我らは共に、軍事同盟下の軍師格にある立場ですぞ。おいそれとは捌けますまいに」
「それは、罪状にもよるよ」
とっくに青年期に入っている辺境騎士団の参謀長は、あどけなさの抜けない、くるりとした瞳を閉じ、目頭を軽く指でもんだ。
「僕の見解なんだが…味方ならば、事前に連絡を寄越すはずだ」
「敵対の意図があるならば…?」
「抜き打ちで行う」
扉を固める衛兵が、扉を叩いた。
姿を現したのは、フラムの新領主となった、イナヤ本人だった。
町の有力商人の娘程度の、こざっぱりとした衣装を纏った彼女は、二人が雁首を揃えていることを確認して、話を始めた。
「意外ね。二人は仲良し…怨恨は無いの?それとも、頭脳労働者同士のよしみ、ってやつ?何にせよ、丁度良かった」
「僕は、来年の出兵準備のため、軍を離れているんだ。山の民たちにも、限界まで動員を頼む必要があるからね。怨恨なんて、今は忘れないといけない」
「あ、そうよね。蛮族たちが洗濯板から溢れる泡のように、襲って来ているのだから…えぇ、当然だわ。でも、あ…そんな時に申し訳ないのだけれど、先に済ませて欲しいことがあるのよ。ちょっと、大変なお願いになるのだけれど…」
イナヤは愛想笑いを浮かべながら、眉をピクピクと上下させた。
「言い難い要望があるんだね?それだけは理解した。だが、僕は、悪い話はできるだけ早く済ませておきたいタチなんだ。用件を伺おう」
「いいわ、了解した」
イナヤは姿勢を正して、手を前に組んでモジモジと動かした。
「これは、私が言い出したことなんだけれど…ちょっとややこしい進展になったの。これを…そう、予想外の動きとでも言うか…かなり、不名誉なことに、お二人を巻き込んでしまう…ごめんなさい」
「内容は簡潔に話していただけると、ありがたいものです。レディ」
デジレは、静かに促した。
「そうね…あ、二人は、明後日の審問会に出席してもらう事になった。急なのは、ごめんなさい。葬儀から、あまり時間を置かない方が、いいと思ったのよ。二人も忙しいし…軍の調達とか…でも、直接弁明をして欲しいとか、じゃないの。隣席して成り行きを見守ってもらうだけでいい」
「審問だって?一体、何の容疑でだい?」
イナヤは、唇を噛んでから、二人を正面から見つめて答えた。
「領主暗殺に関する、噂話の容疑を晴らしてもらう」
一同が喪服で参列する中、フラム公が仕立てた審問会が開催された。
領主が鶴の一声では裁きが困難な事情がある場合、古来の風習に則って解決する二つの方法がある。
その一つは、かつてクラーレンシュロス伯ハインツが行った「決闘裁判」である。神が支配する決闘場において、神の認めた正義によって、決闘の結果が決まる、という概念だ。それによって、ハインツの娘のルイーサが勝利し、彼女の正当性が公認された。
そしてもう一つが「審問会」である。貴族をはじめ、権威のある市民が参列する中、司法官が罪状を述べ、本人と弁護人がそれを答弁するのがそれである。決闘裁判の審議の根拠もアレであるが、この審問会もまた同様に、冤罪が蔓延るのが常のもの。司法官と公聴人たちの心を揺さぶる手法に長じた者が、勝者となるのだ。政治思想や、感情論、事前の根回しが結果に影響を与えずには済まない。重罪に対する適用が常であることから、別名「公開処刑」と言われる所以でもある。
しかし、イナヤが仕立てた今回の審問会は、異色の着色がなされていた。
多くの市民見学者を集め、港の広場で開催されたその主題は「亡きソレイユを語る会」。
議長はイナヤが務め、ミュラーとデジレは、後列に座らされ、いわばオブザーバー扱いだ。口論を交わすのは、市民から選ばれた8人の代表者。その中には、侍女長のニーナも含まれた。
「では、これより、『亡きソレイユを語る会』を開催します。先立ちまして、ご多忙の中、ご参列いただきました、フラム港湾管理責任者…」
イナヤは来賓者の労をねぎらい、続いて開催の趣旨を述べ始める。
「なぜ、我々に発言権が無いのだ?これでは、身を守る術を自身で持てぬ」
デジレが、隣に座るミュラーに小声で語りかける。
「権力者が発言すれば、それには力が込められる。それを払拭するところに、意味があるんだろう…まぁ、推測だが…」
「貴公の買い被りでは?本当にそこまで、深慮遠謀がこれにあると、なぜ言えるのだ?」
「まぁ、でもさ…ここに至っては、成り行きを見守るほかは、無いだろう?発言権も無いのに、勝手に舌を振るっては、逆に反感を買うばかりだ」
奇妙な公開処刑は、遠路遥々、多数のご来席を賜りつつ、盛大に開催されることをここに宣言された。
イナヤは、ソレイユの人柄について、ニーナに尋ねた。
「勉学の習得は人並みよりも早く、馬術稽古にも熱心に挑まれておいででした。亡き父上様にも似て、血気盛んで、齢5歳の時よりすでに覇者の相をお持ちの方でいらっしゃいました」
市民からは、さもありなん、と声が上がる。
「マスコット的な存在だったのであろうな、子どもと言う物は、無条件で支持を得るものだ」
デジレが小言を述べる。
イナヤが、挙手をして声を上げた。
「将来を有望視される、立派な跡取りだったと認めます。でも、いたずらもしたでしょう?子どもらしい、やんちゃなエピソードは無いかしら?」
デジレは怪訝な表情で、腕を組んでニーナを観察した。
「はい、領主様。彼は、青虫を6匹、串で刺して暖炉で焼くのがご趣味でした」
市民たちから、笑いが起こる。
「それを、侍女たちの給仕に忍ばせて、反応を物陰から伺うのです」
イナヤは、市民たちを手で制して、促す。
「ほかには?」
「海賊の真似をして、民を攫う蛮族ごっこがお好きでした。これには、流石に苦言を申し上げましたが、逆に私が攫われ、おやつを三日分増量する条件を提示するまで、解放していただけませんでした」
「おやつがなんだ」
「それくらい、許してあげなよ」
「領主様を悪く言うなんて、恥を知れ」
市民の中から、数人の者たちが声を荒げた。
イナヤは立ち上がって、彼らに述べる。
「この会は、ソレイユのありのままの姿を知ってもらい、広く市民の皆の記憶に刻み込み、永遠の存在として語り継いでもらうためのものです。それには、聖人君主を称える美辞麗句で綴るだけでは、意味を成し得ません。生きた人間である以上、短い人生の中にも、美点を残し、同時に汚点も残すもの。これは、決して死者の冒涜ではありません。一人の人間として、皆と同じフラムの仲間として、今は彼のことを身近に感じ、思いを馳せましょう。なぜなら、本当の哀悼の念を得るには、本物の隣人であった事を知る必要があるのですから」
デジレは、目を瞑ってミュラーに話しかけた。
「貴族の血は、青くなければなりませぬぞ」
「あぁ、その通りだ。…だが、人心収攬の方法は一つではない。大事なことは、本人の得意な領域で実践されることだ。けど…異例すぎて、僕には先の流れが読めない。彼女は、コントロールしきれるのか?」
ミュラーの瞳にも、焦りは見え隠れしはじめた。
この様子を見るに、侍女長は打ち合わせ済みだ。
侍女でしか知り得ない、秘密情報の大半は、笑いを伴うものだった。しかし、時折、戦時の様子や、税の使い込み先を暗示させるような、際どい内容も投げて来た。市民の反応はというと、領主の演説や、公開裁判を聞く場合よりも、格段にのめり込んでいた。
次に指名された貿易商人の語る言葉には、大いに“守り“が見られ、形ばかりの美辞麗句によって市民からのブーイングを浴びた。
「本心を語れ、この薄情ものがっ」
「心が感じられん」
「ソレイユ様の事をよく知らないのじゃ無いかしら」
領主だったとはいえ、まだ後見人が必要である身である。市民の前にて、何かを語ることもほとんど無かったのだ。商人が本心をされけ出そうと頑張ったところで、限界はあっただろう。侍女の話があまりに赤裸々で、面白すぎたのだ。
次は、狩人の話だった。領主が仕留めやすいように、健を切ったうさぎを用意していた事。その様子をびっこを引いてヨタヨタ歩きのうさぎの真似をして説明した。イナヤが扇で顔を隠して、笑っているそぶりを見せると、彼は調子づいて話を盛り始めた。
ソレイユはそれなのに、結局11本も矢を放つが当てることができず、代わりに狩人が彼の弓で射止めた。その際には、「皆の者、後ろを向け」と命じたらしい。挙げ句の果てに、そこまで皆が苦労したと言うのに、血を見るのが怖いからと、ソレイユは狩りを辞めて、近くの沼地で泥遊びを始めてしまった。
「お父様は、9本外した、とおっしゃていたわ」
何を思ったのか、イナヤがそう反論すると、流石にまずい、と感じた狩人はこう応えた。
「それは、お父上様の子を思う優しさの表れでございます」
市民たちは、拍手でその逸話を賞賛した。
「うちの子の方が、よっぽど上手いな」
「いや、それは違う。馬の背から射ったんだ。なかなか、当たるもんじゃない」
「その年齢で森を馬で行くなんて、考えられないよ。すごいじゃないか」
場は温まっていた。
次の者は、居酒屋の娘だった。
「こんな噂があります。もちろん、あたしは信じていませんが…それは、御坊ちゃまは、毒殺されたんじゃないかって」
市民たちが一瞬静まり、一斉にがやりはじめた。
「俺も聞いた。犯人は、辺境騎士団だ」
「山の民の軍師だよ」
「それを言うなら、イナヤ様だって怪しいお立場だぞ」
イナヤは立ち上がって、民たちの喧騒が収まるのを待った。
「これに対し、怪しい者がいると考える者は、忌憚なく意見を述べて欲しい。他ならぬ、ソレイユを偲ぶ会です。彼の死因にまつわる話ならば、事実であれば、願うべくもない。だが、根も葉もない噂や、さらに虚言であっても、一向に構わない。後世に遺恨の無きよう、是非とも、大いに論じておきたい」
市民たちは、人の目も構わずに勝手にお隣同士で意見を述べはじめた。
「やれやれ、大いなる関心事…だったようだな」
デジレが、ふぅとため息をついた。
隣席の中で、石工を名乗る男が、挙手をした。
「あの顔は知っているよ。僕が丘の砦で、マチコレーションの改修を任せた者だ」
ミュラーの言葉に、デジレはため息まじりに答えた。
「ランメルトの代わりにか?やれやれ、お主は、歳の割に苦労人だな…」
石工はイナヤの指名を受けて、話し始める。
「私は、辺境騎士団の中で仕事をしてるだが、フラムの街に出入りすんのは、下っ端騎士たちが骨休みに訪れる程度で、お偉いさんは滅多に顔を出さねぇべよ。特に、そこなミュラーて大将はともて頑固で、生真面目で、ずっとオイラたちの仕事ぉ、目ぇ光らせてやがんべよ。前の色男の方が、よっぽど良がったぁ〜」
侍女が手を挙げた。
「ミュラー参謀長様へは、私が連絡をして、丘の砦からお越し頂きました。しかし、それはソレイユ様がお亡くなりになられたというご報告のためです。その前に館の中では、デジレ様も、もちろんイナヤ様もお見かけしておりません」
居酒屋の娘が言う。
「ミュラー様は、居酒屋に顔も見せてはくれませんでしたが、虫も殺せぬ男だと、皆の評判でした。反面、デジレ様は居酒屋に来ては、怖い顔で一人で飲まれておいでで、皆、何を考えておられるのか、全く分からぬお方だと、煙たがっていたのです」
ミュラーが周りに聞こえないように、デジレに伝える。
「童顔が幸いしたな。ところで君は、風前の灯のようだが…」
デジレはうぬぬと唸った。
「外見の話しか、しておらぬぞっ」
商人が石工に問うた。
「ところで、マチコレーションというのは、どういう意匠のことで?」
「殺人孔のことだがよ。熱い砂とか、油とか、岩とか落として、殺すんだぁ」
「恐ろしい、誰が、虫も殺せぬと…?」
デジレは、袖で顔を隠して肩を揺らした。
市民たちがひとしきり、噂話に花を咲かせる時間を空けてから、イナヤは再び立ち上がった。
「皆が、辺境騎士団や山の民に疑いを向けるのも、やむを得ぬところがある。それは、彼らが征服者だからだ。だが、考えて欲しい。我らは、蛮族の襲撃から我らを守ってくれた。竜の力もさる事ながら、あの夜に、燃え盛る港で、我らを守って死んでいった騎士団と山の民の兵士たちは、決して少なくない。山の民がソレイユを殺める理由は、一体何?なんの得があるの?騎士団への復讐の前準備として、軍事同盟国である我が国を先に弱体化させるため?騎士団たちは、山の民を虐げて、丘の砦で強制労働させているから?」
居酒屋の娘が、手を挙げた。
「それは、ないと思います。騎士と山の民たちは、よく居酒屋でダイスを振っていますが、大概は騎士が負けて、大枚を巻き上げられています。騎士たちは、へたっぴなんです」
今まで黙っていた老女が、遠慮がちに手を挙げた。
「恐れながら、申し上げます。私の夫は、昨年亡くなりました…ソレイユ様と同じ、赤糸病です。生前、騎士団の美男公…おっと、失礼、これは井戸端での私たちの勝手な呼び名でして、そのパンノニールの…そうそう、イナヤ様の旦那様は通りがかりの私たち夫婦にお声がけいただき、夫がそのご様子では食いぶちにもお困りだろうと…誰にも内緒だと言われておりましたが、銀貨を頂戴したのです。お偉い方から、そのようなお心遣いをいただき、お金の話ではなく、心情のお話として大変、励みになりました」
狩人が、挙手をした。
「思い出しましたが、お坊ちゃんは泥遊びがとても、お好きでいらっしゃいました。一昔前ならば、風土病があるから、畑仕事をする者以外は、誰も井戸の水以外を嫌ったもんです。オイラも昔、ばっちゃんに泥遊びをして、叱られたもんです」
イナヤは発言を引き継ぐ。
「風土病の元凶は、地下に蔓延る魔物の所為であったと、これはそれを辺境の地から追い出すことに成功した騎士団による報告内容です。どれほど正確にこの情報が皆に伝わっているかは知りません。それは、各地の領主たちが、侵略者たる当時の騎士団に民たちの心が掌握されないよう、その事実を隠蔽する傾向にあったからに他なりません。周知の通り、私の姉のフランソワも赤糸病で命を落としました。その脅威は、残念ながらゼロになったわけでは無いのです。しかし、騎士団がその辺境の民たちから感謝を抱かせる風土病を用いて、私の兄弟を殺めるでしょうか?私なら、もっと別の理由を考えます。わざわざ、風土病の再来を思わせるような手段は選択しないでしょう」
少し間を開けてから、彼女は続けた。
「となれば、私こそ、怪しい者です。皆は気を使って、そうは言えないでしょうが…ソレイユの崩御で、最も理を得るのは、私なのだから…」
「赤炎の花嫁さんは、そんなことしねぇ」
「そうだ、そうだ」
民たちのうち、数人だけであったが、そう声を上げる者がいた。
侍女長が、挙手した。
「理想の旦那様を手に入れ、念願の戦に出ると、わざわざ赤く染めた甲冑まで拵えて、意気揚々と町を出立した当時の“花嫁“に、そこまで広い視野があったとは、到底思えません。何しろ、子どもの頃から夢に見ていたほどの、騎士として戦争に出る、という念願が急に叶ったのですから…少なくとも、生まれた時から、ずっとお側でそのお天馬ぶりに悩まされてきた、このわたくしとしては」
言い過ぎ…とイナヤは唇で抗議した。
「そんな、気が回るわけねぇ」
偶然、静かになった瞬間に誰かが口にした言葉が、群衆たちの耳に届き、大きな笑いを巻き起こした。
イナヤは、宣言した。
「いいわ。ソレイユの死因については、数々の逸話と疑惑を秘めている。その方が、本人もきっと喜ぶでしょう!」
市民からは、拍手喝采で受け入れられた。
「次は…仕立て屋さんね?お父様も世話になっている方ね。私の服は、いつも安物だったけど…色々と裏事情を知っていそうで楽しみね」
イナヤのご指名で、次の談話が始まった。
「儂の頭も、いつの間にやら老いて硬くなったらしい」
デジレは、ミュラーに向けて微笑んだ。
「噂話の公認か…僕やアマーリエには、到底思い及ばない事だよ」
かくして、イナヤは、正当な後継者としてフラムに君臨することになった。
男子を優先するが、それが絶えれば女子の継承も認める、西方諸国の慣例を持ってすれば、当然のことだ。いずれ、子が生まれたなら、死後の継承はその子に。だが既婚者である彼女が子を成す前に死ねば、夫であるランメルトに引き継がれる。その前に離婚すれば、権利は彼女に帰する。しかし事実上、ランメルトの名の後に、ファン・フラムと追記されたことが示すように、夫の名の下に共同統治されるのが慣例でもあった。男尊女卑、という概念的な話ではない。それには、理由がある。多くの場合、女性は統治のための政治学・法学・地勢学・外交術・軍事技術などの教育を受けないまま育っているからだ。イナヤの場合も、やはり“言の葉の巫女“としての教育を受けて育った。それを習得しているかどうかは、この際関係なく、領主として、為政者としての教訓を、彼女は親から学んではいないのだ。
フラム伯領の領有権においては、まだ不安定な要因は残るものの、客観的な観点から言って、辺境騎士団にとって非常に有利な状況へと収まったことになる。
だが、それを言って仕舞えば、クラーレンシュロス伯領・シュナイダー侯領・オレリア公領でさえ、他人事ではなかった。パヴァーヌ王も、まだ諦めきったわけではないだろう。他の諸侯たちも、同じような考えに及ぶ者は少なくはないはずだ。
兎にも角にも…イナヤ公が絵を描いた「審問会」は、新たな為政者が、市民に対してどのような接し方をするのか、その態度を確たるものとして、広く知らしめる一因ともなった。
そして、それは本人たちも思いもよらない事態へと進展していく事になる。
先のことはつゆ知らず、デジレから公務を引き継いだイナヤは、目の回る忙しさの中、あっという間の二ヶ月を過ごしていた。夫であるランメルトが、いつも涼しげな表情でいた事が、尊敬を追い越して、憎らしくも思えてくるほどに。
そんなある夜の事、彼女は急に身支度を整え、馬に乗った。
心配するニーナに、誰にも知らせぬように、と託けて。
向かったのは、砂岩の採掘場として運営されるようになった、あの岩場だ。
「ちょっと、先に聞いておきたいのだけれど…念話が使えるのなら、言の葉の巫女がここへ監禁される理由は何なの?」
ランタンを手に、夜の闇の中、イナヤの苛立った声は何層にも児玉した。
ぐるるる…と小さな唸り声が、それに応える。
「魔力を消耗するからだ。小さき勇者よ」
イナヤは腕組みを解いて、闇の中にうずくまる巨大な生物に近づいた。
「どうしたの?より一層、弱々しくなっちゃって…疲れているの?病気が進行した?」
竜の強膜が開くと、人の顔ほどもある黄金色の虹彩が、ランタンの灯りを受けて動めいた。
「私を呼んでも、何もできないわよ…力にはなりたいけれど…その、借りもある事だし」
「お前しか呼べぬのだ。人間族の中で、この地の長たる家系の、さらに雌にしか共感できぬ。否むしろ、その逆だな。それを可能にしているのは、皮肉なことに魔術師たちの呪い、という訳だ」
「よくわかんないけど、飛び立ったじゃない。呪いから解放されたんでしょ?」
竜は顎を地面につけたまま脱力し、目を細めた。
「呪いから解放されるために、飛んだのだ。だが、まだ呪いは健在…やれやれ…お前は、まるで察しが悪い…」
「ぇ、ちょ…責められてるの?冗談でしょ?人のこと呼びつけておいて!」
竜は目を閉じたまま黙り込んだ。
ランタンの火種が、ジリリ、と音をたてた。
天を見上げると、以前訪れた時とは異なり、小さな穴がひとつ開いており、そこから青い夜空が覗いていた。
「黙ってるなら、帰るわよ」
竜はゆっくりと、細く閉じられた鼻口から息を吐いている。
呼吸のリズムは非常に長く、そして弱々しかった。
「なんか…前に来た時よりも、臭いわね…」
再び、低音ドラムのような振動が地下の空間に響く。
「換気されておらぬからな…小さいトカゲ人たちは、もうここにはおらぬ」
「そう…じゃぁ、おならは控えてね」
「…」
イナヤは、近くの瓦礫に腰を下ろし、ランタンを置いた。
「何よ、しおらしいじゃない。私にどうして欲しいわけ?まさか、まだ千夜物語を聴きたいわけじゃないでしょ?」
「今の私には、お前たちのリズムで思考する事は、どうにも億劫でならない…だが、これは我の頼み事だ。お前たちの礼に沿って、首を垂れるべきだろう…」
「最初からもう、ずっと垂れたままじゃない。いいから、要件を話して頂戴。前回と違って、今は結構、忙しい立場なんだから」
「ふむ…実は、もう飛ぶことが厳しくなっておる…」
「歩けばいいじゃない?みんな、そうしてるわ」
竜は再び目を開いて、隣で座る女性を片目だけで見つめた。
イナヤは咳払いをして、背筋を伸ばした。
「ごめんなさい。話すのも“億劫“なのよね?…どうぞ、続けて」
「我の標的は理解しておるか?」
「標的?…えっと、呪いを解くのよね?えっと…赤糸病よね、その病気がどういうわけか、足を生やして外へ出て行った…そっか、辺境騎士団が追い出したって話は、ここで繋がるのね!」
イナヤはポンと手を叩いて、話を続けた。
「それを倒しに、あなたはここを飛び出して、私の港を燃やした…相手は、蛮族ってことなのかなぁ〜って漠然と思っていたわ。でも、まだ呪いが残っているって事は、あの中にその“標的“はいなかった、というわけね」
竜は目を閉じた。
「それは魔術師たちの言うところの“病の王“だ」
「言った、ね」
「…なんだと?」
イナヤは指を立てた。
「魔術師たちは、とうの昔に死んでるんだから、そこは過去形でないと」
「…」
「正しく伝わらない」
「…そやつは、複数の分身を持っておる。当初、それに気づかずに、二つの集落を燃やしたが…」
「せめて、町って言ってよ…私の領地なんだから」
「三度目の襲撃で、中核となる本体に接触することができた。これで見誤る事は、もうない。しかし…」
「体力の限界ってわけね。で、歩くしかないと…」
イナヤは前屈みになり、顔を近づけて言った。
「歩けば?私も、そうしてるのよ?ほらっ」
「ここまで、何で来た?」
「…馬だけど、馬だって歩いてるのよ。足は四本で、あなたと一緒」
「あぁ、歩くさ!」
地響きが地下の空洞を揺らし、天井から小石を降らせた。
「ちょ、ごめんなさい。失礼な言い方だったわ…でも、あなた大人気ないじゃないっ?幾つなのよ!」
「頼むから、想像力を巡らせてくれないか…竜がお前たちの土地を歩いているのだぞ。人間たちが、手を振って見送ってくれるとでも思うのか?」
イナヤは、震える手を揉んで、気持ちを落ち着けせた。
「ごめんなさい。あなたが怖がらせるから、つい…でも…そうね、言う通りだわ。あなたが正しい!でも、どうすれば、人間たちから襲われないで済むのかしら?」
竜は三度、瞳を開いた。
「お前たちは、蛮族の軍勢と戦っておるな。病の王と、とてもよく似た性質の者だ。さぞかし、手を焼いておるのであろう」
イナヤは、言葉の細部を聞き逃す。
「そうよ。聖教皇…剣の神殿のボスが、西方諸国に号令を出したの。私も、参加したの!ちょっとだけれど…初陣だったわ」
「我の背に鞍をつけろ」
「…どういうことですか?」
公開審問会を終えたミュラーは、足早にフラムの港町を出立した。
冬の訪れも間近という時期に、シュナイダー侯領のハルトニア、山の民の根拠地ピエレト山を巡り、オレリア公領のグラスゴーまでを巡回する強行軍だった。グラスゴーでは、三姉妹に協力して山脈に住まう蛮族の食を断つ作戦を立案する。この冬を使い、飢餓によって打撃を与えることが目的だ。その作戦の実行を指揮しながら、冬を越すと、かつて辛酸を舐めた雪山を踏破し、アマーリエ地方の中心地ハロルドの城市へ到着した。
一連の旅路は、騎士団長アマーリエの意向により、昨年に出兵を見送り、力を溜め込んだ各都市からの全力動員を促すためのものだ。
辺境騎士団の軍勢は、大掃討戦開始後の一年目は、パヴァーヌ王に後背を突かれ、モルテ=ポッツでの遅滞戦闘の後、フラムを経由して各地へと帰投することになった。
二年目は、わずかな騎士たちだけで海を渡り、クェルラートを拠点として“なれ果て“の長距離偵察を実行した。
そして、年明けした三年目。
一年間の猶予を得て、物資を調達し、鍛え上げられた兵士たちから成る、血気盛んな軍勢を編成し、春の到来と共に出立させるのが、彼の任務であった。
それは、彼の手腕によるところで順調に進んでいた。
ところが…此度は参戦するぞと意気込む、ボードワン大司教と共に、昼食を摂っている最中に、全く予想だにしていなかった事態が報告される。
急を知らせる駅伝の兵は、息を切らせながら声を上げた。
「フラム公イナヤ様が、御出陣なされました!」
ミュラーが口をふきんで拭う間に、聖職者というよりも、老練の騎士が板につくボードワンが滑舌の効いた声で言った。
「耳に聞こえし“赤炎の花嫁“殿は、初陣のために拵えた赤備えの甲冑を、どうしても披露したいらしいと見えるな!さぞかし、姫と馬が合うであろう!」
「いえ、そうでもないのですが…仲は良いようです」
ミュラーの言葉を、兵は苛立ち気味に遮った。
「竜です!竜なのです!」
居合わせた者たちは、耳を…いや、伝令を疑った。
「また、竜が出たのか?」
ミュラーの問いに、兵は地団駄を踏んだ。
「イナヤ様が、竜に跨っておいでなのです!その後に、フラムをはじめ、各地の民衆たちが武器を取って付き従っているようです。その数は、増える一方で…すでに5千を超えている模様!」
ボードワンが机を叩くと、西方貿易で届いた葡萄の山が崩れ落ちた。
「“花嫁“が出陣するのならば、船であろう!あそこは、海運国家だ。陸路ならば、山脈がある。このハロルドのそばを通過する遠回りな道となるであろうに、そんな事はあり得んぞ」
「ボードワン卿…竜と共に行軍している事の方が、問題です」
「竜など…大方、そのようにあしらった輿の事か、あるいは軍旗か何か、だろう。ミュラーよ、人の噂など…」
「恐れながら、ボードワン猊下…現在は、“竜の巫女“と呼ばれております」
兵は首元に汗を垂らしたまま、直立姿勢を保っていた。
「言の葉の巫女が、竜を手懐けた…と言うのか…ウルヴァヌスの野郎に、何と言えば良い」
ルキウス・ティティアヌス・ウルヴァヌス5世は、西方を初めて征覇した民族の王たちの名を連ねた、格式高い、現聖教皇猊下のフルネームだ。
「この目で、確かめに行きます」
ふきんを机に投げつけながら、ミュラーは席を立った。
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