第4話 戦う宿命
アシュリンドたち捜索隊の面々が、自分たちを追って大河を渡って来ていることなどは、つゆ知らず、クルトとハルトマンたちは、東方騎士団の本拠地、通称“騎士の谷“に滞在していた。
“なれ果て“の地から続く山脈の端に、ポツンと離れた禿山がある。その山は中央部分を流れるグランフューメの早い水流によって削られ、ぱっかりと二つに割られていた。
その割れ目にあたる切り立った崖には、名も知れぬ太古の文明が築いた遺跡があった。
剣の民たちの開拓と闘争の歴史を記した“戦記“にすら、その存在は記述されていない。それが、どれほど前から存在していたのは、今となっては誰も知る由も無かった。
その遺跡を改築し、難攻不落の要塞に仕立て直したのが、東方騎士団こと黒剣重騎兵団だ。
招かれざる者が、もし砦にアプローチしようと試みるならば、そのルートは3つある。ひとつは、川。次に、頂上付近の門、そして、川沿いの崖に設置された木造の道である。
激しい水流は川下りの難所であり、徒歩で禿山の頂上付近にある門を目指すなら、そこに辿り着くまでに、数々の防衛拠点を突破せねばならない。頭頂を諦め、崖を這うように設置された木製の道を行くと決めたならば、その細く長く、一歩間違えば川へ転落し、射かけられる矢から身を隠す場所などは一切なく、さらには有事の際には支え柱を引き抜き、取り外せる構造にもなっていた。
たとえ、古代から生きる竜であっても、この山を削ることは難しいだろう。ここを攻め落とすには、大軍をもって山を包囲し糧道を断ち、加えて水を断つためには上流から絶えず、毒を流し続ける必要さえある。
難攻不落の名に相応しい、堅牢な要塞だった。
「見事な砦だ。このような北端の地に、このような牙城があろうとはな…」
黒い全身甲冑を着込んだ男は、充てがわれた部屋の窓から、はるか眼下を流れる川を見下ろしながら、同居人に語りかけた。
「結構、有名だぞ?お前でも、知らないことはあるんだな」
背の高い金髪の青年クルトは、甲冑のパーツを一つずつ外しながら、ハルトマンに答えた。いつもは短く刈り込んだ髪も、綺麗に剃っている髭も、手入れをしなくなってから久しい。
「それよりも、今は風呂だ!下層に、温泉を利用したサウナがあるらしいぞ」
「私は遠慮させてもらう」
「なんだ?その死臭くさい身体を、一度は清めといた方がいいぞ」
ハルトマンは両腕の臭いを嗅ぎ、質問した。
「嗅覚に関しては、だいぶ衰えているようだ。そんなに、臭うのか?」
「…冗談だ。風呂の水にお前の血が混ざったら、それこそ一大事だ。やめておけ」
「ここにいる間は、なるべく単独行動を避けようと思う。だから、私は部屋にいるよ」
「そうだな…お前は“竜の呪い“を受けたことになってるんだから、辛気臭い程度が、丁度いい」
「あまり調子をこくと、一発見舞うことになるぞ」
クルトは笑って、部屋を出て行った。
坑道は、手を近づけても熱くない不思議なランタンで照らされていた。
覗き込んでみると、光る石が嵌め込まれている。
「いろいろあるもんだな…」
クルトは感心して呟いた。
おかげで、歩くには不自由がなく、油の焼ける臭いも、煙もない。
東方騎士団の風呂場は、坑道の中に噴き出した湯をそのまま利用していた。無骨で、なんの飾り気もない。結露した岩肌と針葉樹の補強材、そして木をくり抜いて作った桶と腰掛けが並んでいるだけだ。
誰もおらず、独り占めだ。
騎士たちは、1日の行動を厳密にスケジューリングしている。今の時間は、入浴の時間ではないのだろう。
手を突っ込むと、湯は肌が赤くなるほどに熱い。
クルトは身体を湯で流し、溜まった垢と土の汚れを清めると、足だけを湯につけて座り込んだ。
「最高だっ。生き返るぜぇぇ」
喉の奥から出た声が、坑道に反響する。
地下の冷たい空気と、熱めの湯の格差が、なんとも心地良い。
「これを体験できないとは…奴も不幸なもんだ…」
クルトはランタンの光がようやく届く、坑道の天井を見上げた。
足を動かすと、水面の揺れる音だけが響く。
「アマーリエ…」
ふと、背後を振り返る。
「ここで、女性の騎士が入って来たり…は、しないよな」
坑道の先には、麻布の目隠しがあるだけで、その先に人の気配は無かった。
ここ最近のハルトマンは、すっかり昔の雰囲気が蘇ってきている。
彼の意識と記憶は、赤目の悪魔が引き継いでいるらしい。だから、やはり厳密いえば本人とは言い難い。
彼は、蛮族らを牽引する“蛮族王“と区別するため、自らを“病の王“と名付けた。
ハルトマンとは、別人格だ…そのはずだ。
しかし、同時にハルトマンでもあるのは確かだ。ハルトマンの記憶も思考も、引き継いでいるのだから…一体全体、彼は今、どちら側だと言えるのだろうか…。
クルトは、湯を頭からかけ、伸びた髪を掻きむしった。
「わからん!」
そう言って、クルトは急に思い当たった。
「待てよ…それは、奴も同じなのか…自分が何者なのか、己の存在理由は何か…」
「まるで、思春期の若者だな」
暖簾を分けて、大柄な男が一人、入ってきた。
長い金髪を後ろに束ね、意思の強そうな濃い眉毛と、くいと上がった目尻、頑丈そうな顎は、髪と同じ色の髭が濛々と覆っている。
「これは、ユーグ騎士団長殿。勝手を知らず、一人で風呂に入っておりました。何かご無礼があったなら、何卒ご容赦を」
彼は、クルトの隣に座ると、湯で身体を流し、深く息を吐きながら、首まで浸かり込んだ。
赤く陽に焼けた肌は豊富な筋肉を内包し、その盛り上がった胸元は金色の胸毛が覆う。肩から背中、そしてパッキリと割れた腹筋にも、無数の傷跡があった。
「客人には、自由にやってもらうのが、ここの流儀だ…などと、格好を付けられた物でもないな。特に気の利いたもてなしもできぬ故、その分、何も気にせずゆっくりとしていくが良い」
騎士団長ユーグは、目を細め、口を吊り上げて笑って見せた。
「竜に襲われ、難儀していた我々を受け入れてくださり、改めて感謝を申し上げます」
ユーグは、手を湯から上げて、合図した。
「もう、その礼は聞いておる。堅苦しいのは、無しだ。久方ぶりの客人で、しかも辺境騎士団の騎士ときた。滅多にできない世間話というのを、私は楽しみにしていたのだぞ。だから、湯あみの最中だと聞いて、飛んできたのだ」
彼の笑い声は太く、坑道によく響いた。
「これは…独り言も聞かれておりましたか」
「人聞きが悪いような言い方だな。驚かそうと、足を忍ばせたのは悪かったが、独り言を盗み聞きしようなどとは、思い及ばなかったぞ。まぁ、貴公が女ならば、それも考えはしただろうが」
「私が女に生まれていたのなら、さぞかし美女であったろうと自負しています。しからば、はてさて、そんな穏便に済んでいたものでしょうか」
ユーグは、クルトの顔をまじまじと眺め、顎に手を当てた。
「ふむ…貴公の言う通り、まんざらでもないっ」
「冗談ですよ…まさか、“そちらも“いける口ですか!?」
二人は、笑った。
「ところで、女と言えば、貴公の主人のルイーサ伯爵と言ったか。かの御仁は、良いな。死人を見る目をしておる」
クルトは記憶を辿る。
確か、君主会議において二人は顔を合わせているはずだ。その時の事を言っているのだろう。しかし、妙な表現にクルトは返答に困り、次の言葉を待つことにした。
「あれは、仰山と人を殺めておる目だ。東方騎士団に女性はおらぬが、それでも多くの女性騎士には出会ってきた…だが、あれは特別だと感じた。私は、一目見て惚れ込んだぞ」
「どうやら、お褒めいただいていると思って良いのでしょうか」
ユーグは、クルトの足をパシと叩いた。
「当たり前だ!貴公の主人は、私らと同類だと、心の底から認めておるのだ」
「…そうですか」
クルトは、複雑な笑みで返した。
「結婚はせぬのだろうか…」
どきり、とした。
「…心に決めた者がいるとか、いないとか」
「歯切れの悪い言いようだな」
ユーグは一転して、不機嫌そうな目線を向けた。
「いるようです…閣下」
ユーグは、頭まで湯に沈め、しばらくしてゆっくり浮上した。
「こんな場所にいては、やはり…政略結婚の話を待つしか他にないか…」
「閣下ならば、引く手数多でしょうに…」
「お前のような、モテそうな男から言われると、いささか不愉快だな」
「否定はしません」
クルトは足を引かれて、湯に沈んだ。
「熱っ」
「そろそろ慣れただろう。この熱いのが、たまらんようになる」
今すぐ出たいところだったが、そこまで言うのならば、付き合いで少し浸かることにする。
「ところで、連れの具合はどうだ?」
「…残念ながら、芳しくはありません。身体は干からび、まるで屍のようで…それでいて食欲は普段通りで、生活に支障はないようです」
「妙なものだな…呪いと言うやつは…なんとか力を貸してやりたいのだが、すまない。ゾルヴィックとオスカーの神官位を有する者たちが神託を乞うたのだが、御声は聞けなかったとのことだ」
彼が言うことが真実ならば、ひとまずは懸念していた窮地を脱したことになる。
東方騎士団は、蛮族に対して激烈と言うほどの対抗心を胸に宿している。
彼らの規約のひとつ目に、それは明記されているのだ。
『人族に敵対する蛮族は根絶やしにし、先人たちが失った“なれ果て“の大地を人族に取り戻さん』
それが、彼らにとっては至高の命題なのだ。だから、先祖の土地を代理人に預けてまで、この辺境の岩城に居を構え、対蛮族の最前線を張っているのだった。
それ故に、“病の王“を自称するハルトマンを連れての、東方騎士団との接触は避けたい。ハルトマンの今の素顔を知れば、あるいは彼の持つ“穢れ“を神官騎士が察知すれば、彼の命は必ず狙われるはずだったのだ。
それなのに、グランフューメの西岸を進み、船をつける場所を見つけて上陸した途端に、竜の様子を偵察に来ていた東方騎士団の一隊に取り囲まれてしまった。
まさに、万事休す。
上手い言い訳を咄嗟に吐き出せず、思わず「竜から逃げてきた」とそのままを告げた。だが、今に思えば、それが良かったのかも知れない。
東方騎士団の中には、剣の神ゾルヴィックの信者に次いで多いのが、信義の神オスカー信者なのだったから。オスカー神の守護の一つに有名なものが、“真偽判定“だ。
すぐにハルトマンの様子を訝しんだ事からして、あの場には“穢れ“を判別できる神官騎士がいたに違いない。
「竜に“呪い“を受けたようだ」
咄嗟に出た言葉が、それだった。
竜という存在すら不明点が多く、詳しく知る者もおらず、ましてや生きた竜に遭遇した者などいなかったのが、つい先日までの現世の常識だ。「呪いを受けたようだ」とクルトが嘘を言おうが、本人に確証のない事柄であるのが当然であるが故に、オスカーの“真偽判定“が発動したところで意味は成さない。「よく分からない者に、よく分からない影響を与えられた」と言っているのだから。仮にもしも「それは確かに竜による影響か」と問われたところで、「そうであるように思えるし、そうでないかも知れない」と答えたところで、結果は同じなはずだ。幸い、「彼は、以前からこうであったのではないか」とは聞かれなかった。しかし、この場合でも、“病の王“となる前のハルトマンを知っているクルトには、「そうではない」と断言しても嘘にはならない。
クルトはもとより、ハルトマンが騎士であった事の方が、事態を好転させる要因であったと言えるだろう。東方騎士団は、全員が騎士であるのだから。
何はともあれ、大人しく騎士団の勧めに従い、グランフューメ上流部にあるこの“騎士の谷“まで案内され、黒剣重騎兵団の騎士団長ルノワール伯ユーグ・ド・デゼールから滞在の許しを受け、こうして客人待遇を得る流れに至った。
だから、“すぐに処刑“などという危機は、どうやら脱したようなのであった。
「よりにもよって竜と邂逅し、その呪いを受けたとあっては、将来を見失うのも無理はなかろう」
ユーグは、先刻クルトが吐いた、独り言の内容に触れた。
「どうかな、ひとつ提案なのだが…疲れが癒えたのならば、明日にでも私たちと一緒に“狩り“に出向いては」
クルトは質問で答えた。
「荒れ野に一体、どのような獲物がいるのですか。ハイエナやスナギツネの類でしょうか」
ユーグは笑った。
「何を言う。私たちの獲物といえば、蛮族だろう」
ユーグは有言実行の男だった。
翌日、早朝に起こされたクルトとハルトマンの二人は、東方騎士団の小隊と共に砦を出立し、東にある荒野での蛮族迎撃任務に参加することになった。
大橋のある“なれ果て“の野とは、山脈を隔てたこの砂漠地帯は、平時より蛮族たちの出現が頻繁だという。そこへきて、今では蛮族王の呼びかけに応じた各部族たちが、絶え間なく侵略を試みている。
今回も、数百の規模で東方騎士団の“縄張り“に接近を試みた蛮族たちを、百騎ばかりの騎士たちで押し戻そうというのが目的だ。ちなみに、客人の二人にも、軍馬が貸与されていた。
砂漠と銘された荒れ野は、右手に禿山が連なり、左手には荒涼たる大地の果てに海へ至る。乾いた風が吹きすさび、散在する低木と、岩があるだけの寂しく寒い土地だ。間も無く訪れる冬には、雪が深く積もるかも知れない。
騎士たちは、戯言も言わず、無言で馬を歩ませる。
彼らは従者を連れず、各人が武装を自前で装備している。統一されたそれは、腰には剣を吊り下げ、鞍には長大なランスと、手槍、弩、それに盾を装備するものだ。他には、水と少量の食料、それに荒縄の束を全員が持っている。
蛮族を捕縛するつもりだろうか。
蛮族を捕らえて奴隷とする者は少なくない。
荒れ果てた大地を、二刻ほど進むと、彼方前方に集団の影を捉えた。
クルトはハルトマンを見る。
彼は、首を横に振った。
それは、彼の勢力下に無い集団だ、という合図だ。
「奴らも、よく心得ているようだ」
ユーグは、クルトたちに向かって語りかけた。
「何をです?」
クルトが尋ねると、彼は神妙な面持ちで答えた。
「良いかね。ここから先は気をつけるのだ。決して、隊から離れず、まとまって行動するのだ」
「手柄を盗もうだなんて、考えませんよ」
ユーグは、笑って答えた。
「盗めるものなら、盗んでみたまえ」
前進を開始した騎士たちに混ざり、二人も馬を進める。
クルトは、不思議に感じた。
敵まで一直線には向かわず、低木や岩の多い地をジグザクに進むからだ。
クルトはハルトマンに語りかけた。
「なんだ、この動きは…矢か、魔術を警戒しているのか?」
ハルトマンは、首を振って答える。
「私にも解らぬよ」
蛮族たちは布陣した場から動かず、やがてその距離が100mを切った頃になると、一斉に天に向かって矢を放った。騎士たちは散会せずに、速度を急激に上げることで、間も無く降り注ぐ矢の雨を掻い潜る動きを見せた。
「何っ!?」
騎士たちは、まるで示し合わせたかのように、一斉に進路を右へ切った。慌てて、クルトたちも手綱を操作し、なんとか追従する。
毒矢の雨をかわしきれず、疾走する人馬に降り注いだ。
甲冑に当たった矢が、乾いた音を立てて地面に落ちる。
クルトの腕にあるクーターと、馬の首元を覆うクリネットにも矢が当たるが、貫通は免れた。
一隊は、再び進路を変更して、蛮族たちの左翼へ向けて突進した。
「矢、構えぇ!」
先頭に出たユーグが号令を出すと、騎士たちは馬を失踪させたまま、弩を構える。
「射てぇっ」
バシバシ、と弩の弦が硬い音を鳴らすと、蛮族たちの矢とは対照的に、騎士たちの矢は低い放物線を描いて“獲物“目掛けて空を裂いた。
数体の蛮族たちが、胸や足を射抜かれて転倒する。
「槍、構えぇぇ!」
騎士たちは、弩を鞍に結んだ装備帯に戻し、代わりに水平に装備していたランスへと装備転換する。
クルトたちは、弩もランスも無いため、自前の剣と盾を構えた。
蛮族たちは、小鬼に分類されるゴブリン種からなる部族だった。
小柄で体重の軽い小鬼たちは、ランスチャージの洗礼をまともに喰らい、吹き飛び、貫かれ、蹴散らせれた。二人も、すれ違いざまに小鬼の頭を二、三、剣でかち割った。
集団を行き過ぎ馬首を返すと、お次はランスを投げ捨て、槍を抜いての大乱戦だ。
小鬼は素早く動き回り、馬上からの攻撃を地面を転がって躱わす。
しかし、完全武装の手練れ相手では、小鬼の力では敵わない。
クルトとハルトマンは、馬を並べて左右の敵に対応する。
その姿はまるで、人馬一体となって、輪舞曲を踊っているかのようだ。
ものの数分で、小鬼は壊滅状態となり、騎士たちは掃討戦へと移行する。
そこで、クルトは背中に手斧を喰らってしまう。
振り返ると、20mほど離れた場所に、一匹の小鬼がいた。
投じられた手斧は、先端が甲冑を貫通しただけで、自重を支えきれずに勝手に地面へ落ちた。
クルトは、傷を負わせられたことよりも、不覚をとった自分に腹が立った。
馬を返して、小鬼へと疾走する。
そこで、急に馬が足を止めた。
「おいっ、嘘…」
前のめった馬の首を飛び越えたクルトの身体は、3m先で砂塵を巻き上げる羽目になる。
小鬼は笑いながら逃げて行ったが、誰かが放ったクォレルに背中を射抜かれ、あっさりと倒れた。
「今日は散々だ…」
身体がまだ馬上で動いているかのような、軽い目眩を覚える。
ハルトマンが近寄るが、彼の馬も同様に足を止めてしまう。
馬を降りた彼の肩を、駆けつけた東方騎士団の騎士が掴み、静止させた。
「大丈夫だ…心配するな。ちょっと目眩が…」
手をついて身体を起こそうとした時、クルトは異変に気がついた。
手が、砂に…埋まる…。
すでに右脚はズッポリと砂の中に埋まっている。
落馬の衝撃で埋まったのではない。
自分の体が、少しずつ動いているのだ。
斜め後方へ向けて…ハルトマンと遠ざかりつつ、徐々に地中へと…砂の中にと埋まっていく。
手を砂から引っこ抜き、まるで泳ぐように進もうとするが、体重をかけた分だけ、さらに少しずつ砂に埋まり、一向に前に進めない。
「くそっ…どうなってる…」
焦れば焦るだけ、身体は埋まる。まるで、蟻地獄だ。
ハルトマンは制止を振り切ろうとして、さらに二人の騎士たちに取り押さえられていた。
「もう、動くな」
ユーグが現れ、馬上から荒縄を投げて寄越してくれた。
クルトはそれを慌てて掴むと、抜けないように手首に巻きつける。
「先に言っておくが、私は忠告しておいたからな?」
「いいから、早く引き上げてくれ!」
「殴りかかって来るなよ?」
騎士たちが笑った。
ユーグは馬の鞍に縄を巻きつけると、自分は下馬して、馬にクルトを引き上げさせた。
クルトは、荒い息をしたまま、しばし空を見上げて寝転がった。
その空を遮って、ユーグが彼を見下ろす。
「ようこそ、死の砂漠へ」
騎士団長がそう告げると、騎士たちは盾を剣で叩いて賑わいだ。
「こうなると分かっていたな…」
クルトは、憎々しげに言う。
「痛みが、お前を生かすだろう」
ユーグは、アコレードの際によく使われる教訓を口にすると、ニヤリと笑った。
「アレは、何だ?」
「動砂だ。立てるか?」
ユーグの手を借りて、クルトはギクシャクと立ち上がった。
「何だ、怪我なしか?呆れるほど頑丈なやつだな」
「さすがにあちこち痛いが…」
「大丈夫だ。骨には異常がない」
ハルトマンの言葉に、ユーグは小首を傾げるが、追求はしなかった。
「動砂は、底なしの動く砂だ。飲み込まれると、助からん。ここら一帯はまだマシな方で、海に近づくほど歩ける場所は少なくなる」
クルトは騎士が勧めてくれた水を飲み、聞き返した。
「どういう原理だ?」
「わからぬよ。太古の戦争の汚染によるものだとか、地中深くに住む魔物の力だかとか…」
「違う。どうやって皆、これを避けていた。なぜ、その動く砂とそうじゃない場所の区別がつく」
「見れば、分かる。動砂の上には大きな岩や、木は存在しない。飲み込まれるからな」
「だから、走り辛い場所を選んでいたのか…」
「あとは、勘だ。長年、この地に居れば、馬でもそれを理解する」
クルトは大きく息を吐き、足元に転がる手斧を拾い上げ、刃を確かめる。
「で、蛮族たちは?」
「お前の所為で、取り逃したぞ」
荒涼とした大地の先に、数人の蛮族の背中があった。
「この歳で、まるで新米兵士に逆戻りした気分だ…ぜっ」
手斧をくるりと空中で一回転させてから、届くはずもない蛮族たち目掛けてそれを投じた。
放物線を描いた手斧は、騎士たちが感嘆するほど遠くまで飛んでいき、蛮族が落としていった鉄兜に音を立てて突き立った。
それは、偶然だったろう。
だが、その途端に、一同が予想だにしなかった、肝を冷やす現象が起きる。
兜の周辺から一斉に砂煙が湧き上がり、百体ばかりの小鬼が姿を現したのだ。
すると、小鬼たちは背中を向けて、一目散に逃げていった。
騎士たちは面食らって押し黙り、そして笑いあった。
谷に戻る道すがら、ハルトマンはユーグに尋ねた。
「なぜ、君たちはこのような僻地で戦い続けるのだ」
ユーグは困った顔をして返答した。
「蛮族が出るからだ」
「金はあるのだから、傭兵を雇えばよかろうに。防壁を築いて封鎖する手段は講じたか」
すると、笑って答えた。
「奴らが何故に、人界に浸出してくるか分かるか?」
「食糧と富を求めに」
「左様。だがそれは、自らの利益のためだけではない。後方に養わねばならぬ者たちがいるからだ。だから、生存域を広めることで、英雄となれる。逆を言えば、我々も同じ事。後方に守るべき剣の民たちがいるからこそ、蛮族どもの侵入は防がねばならない」
ハルトマンは頷いて、話を促す。
「貴公は、柵を恐れるか?」
「いや」
「たとえそれが、高く積み上げられた石壁であっても、恐怖することはなかろう。感嘆の念を抱いても、それを怖いとは思わない。恐怖することがあれば、その上に弩を持った兵士がいる場合だ」
「恐怖が大事か」
「然り。容易には叶わぬ相手がいるぞ、と思わせることが真の意味で蛮族の侵攻を防ぐのだ。そのために、我々は“無敵“であり続けねばならない」
ユーグは、言葉に力を込めて続けた。
「常に最前線に立ち、隠れ怯えることはなく、堂々と立ち向かう姿こそが、西方諸国の尖兵たる我らの存在意義なのだ。防壁は、我ら自身の、この身体、この精神。それを木片や石ころなどに、譲れるものか」
ハルトマンはそれ以降、口を開かなかった。
「剣の稽古から、お前を解放しよう」
その夜、風呂上がりのクルトが部屋に戻ると、ハルトマンはそう告げた。
「何だ、急に。もう、満足いくほど上達したのかよ」
「ハルトマンの知らなかった技と知識は、充分に補完できた。正直に話せば…」
ハルトマンは、アーメットの留め具を外し、寝台にそれを置いた。
「元々、半分はお前と共に過ごすための口実だったのだ」
クルトは、彼の変わり果てた素顔を見つめ、言い返した。
「そんな事を言われても、抱きしめてなんて、やらないからな」
肩を揺らして、ハルトマンは笑った。
クルトは背中を向けて寝台に座ると、背中に軟膏を塗ってくれるように、ハルトマンに頼む。
「これは?」
「ユーグからもらった。斧に毒が塗ってあったからな。念の為と」
言われた通り作業をしながら、ハルトマンは話を続けた。
「私は、思考することを始めてからというもの、ずっと疑問に思っていたことがある」
「ちょ、待て…それは、何千年前の話だ?」
「つい最近だ」
「ほぉ…で?」
軟膏の栓を戻し、クルトにそれを返す。
「私は、何のためにこの世界に存在するのか、ということだ」
クルトは背を向けたまま、はし、と顔を両手で覆った。
「…まだ、痛むか?」
クルトは息を大きく吸うと、真面目な声で返す。
「いや、何でもない!続けてくれ。それで、そいつは分かったのか?」
「まだ、判然としない。だが、今日ユーグ卿と話して、分かったことが一つある」
「…それは?」
「成すべきことは、人々が求める事柄の中で、且つ自らが得意としている事を、自分で選び取るものだ」
クルトは寝台で向き直る。
「それをすると、お前がこの世界に存在する理由となるのか?」
「それは…分からぬ」
クルトは、少し間を置いてから話を続けた。
「なぁ、ハルトマン。お前が今悩んでいることは、きっとこの地上にいる者たち全てが、一度は胸に抱える問題だと、俺は思う。だが…それには、はっきりとした答えなんて、きっと存在しないんだ」
「答えがないのか?」
「そうだ。少なくとも、誰かから教えられたり、命じられたりするものじゃない。そんなものは、きっと本物じゃない。だから、自分が納得できることをすればいいんだ。存在理由なんてものは、自分ででっち上げるのさ」
ハルトマンは、押し黙った。
「お前が、やりたい事をすればいい。それが何であれ…俺は、応援するぜ」
その言葉が何を意味するのか、クルトはそれを理解し、覚悟を決めていた。
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