第11話 ニグレド

 目の前の風景が、がらりと変貌していた。

 幼い頃に遊んだ、ユースの森によく似ている。

 木々が生い茂り、若草が新芽を天に伸ばす。

 せせらぎは澄んだ湧水を揺蕩え、湖畔へと運びゆく。

 その姿は、まるで林全体が春の到来を歓迎しているかのようで…穏やかで、温かで…。


 しかし、控えめなスノードロップの花に戯れる蝶の姿はなく、白樺の林には、コゲラの影もない。

 音が、生き物が、存在しない。

 そして、私は甲冑の代わりに白いドレスを纏い、父から受け継いだ魔剣すらも失っている。

 額の髪をかき分けようとして、無くなった指が元通りになっていることに気づく。

「嗚呼…死んだのか…」 

 空を見上げて、私は悟った。

 天空はどこまでも白く、太陽も雲も、風も、月の影も、何もない。


 しばらく呆然とし、まずはこの世界を知ろうと思い立った。

 そして、立ちあがろうと脚を動かし、奇妙な事に気がつく。

 若草は、私の身体が触れると、その形を崩し、黒いタールとなって溶けてしまった。

 いや、臭いもないし、手で触っても付かないので、タールでは無いかも知れない。

 私が歩くと、地面に黒い足跡が残る。

「なんだか、私が世界を穢しているみたい」

 死後の世界まで、私は死と腐敗で穢してしまうのか…。


「死んだ…と思っているのであろう」

 地鳴りのような、低く掠れた声に、私は振り返る。

 瞬間、ハルトマンの幻影を見た。

 しかし、それは黒装束の騎士ギレスブイグの姿へと変貌する。

「だが、違う。死んだわけでは、ない」

 ギレスブイグはゆっくりとした歩みで、私の前まで到達し、そして疲れ切ったように腰を下ろした。

 彼の足元は、草は草のまま、土は土のままでいる。

「ここは…何処」

 ギレスブイグはアーメットを脱ぎ、くせの強い黒髪を掻き上げ、汗を拭った。

「現象としては、ニグレドという。全ての事象の終着点であり、転じて新たな始りの地とも言える。万物が飽和した世界…それが、ニグレドだ」

「つまりは、この世の果て…」

 ギレスブイグは微笑みながら、明るい声で答えた。

「そう、辛気臭い面をするな。せっかく、オースブレイドがお前の機嫌を取ろうと設えた景色が、台無しになる」

 どうしたのだろう…私は18年間、彼のこんな姿を見たことはない。

 異様なほどの、違和感。

 私は尋ねずには、いられない。

「どうして…あなたが“ここ“にいるの?」

「俺は、道案内役だ。お前をここへ導き、そして次なる場所へと送り出すために、ここにいる。土壇場で、オースブレイドが拒みおって、些か苦労したがな」

 オースブレイドとは、誓約の刃…アインスクリンゲのことか。

「あなた、学会なの?」

「如何にも、“俺が学会“だ」

 含みのある言い方だ。

「あ…の…まさか、だけれど…あなたが創った、なんて言わないでしょうね」

「珍しく察しが良いな。御名答だ。俺が、創設者だ」

「…いやいやいや、ははッ…まさか」

 笑ってしまう。一体、何百年生きているつもりなのか。

「世迷言だと思っているのか?三百と五年、俺は身体を輸魂し…つまり、乗り換えながら生き続けて来た。少し、説明がいるか?では、生まれた頃の話をしよう。俺が生まれたのは、最後の神が神格化を果たした年だった。太古の血を引く魔術師たちが、心血を注いで、生誕させた神だ。だが、プロセスを飛躍して強制的に生まされた神は、長くは持たなかった」

 ギレスブイグは、眉間に指を当てる。

「“心“が、持たぬのだ。幼児に国を任せるようなものだ。精神汚染した神の末路は、壮絶を極めた。結論として、魔術師たちの夢は、西方に荒廃をもたらしただけに終わった。それで、俺は確信したのだ」

 ギレスブイグの瞳に、火が灯った。

「プロセスを遵守せねば、正しき神は生まれない」

 この男は、何かに取り憑かれている。

「魔剣の呪いのこと?」

 黒騎士は、再び笑みを浮かべた。だが、今度の笑みは、どこかせつなげに見えた。

「さまざまな試練、相性、血筋、能力、人々からの畏敬の念…条件をクリアする者など、まずはおらぬ。神を生むために創られた魔導装置は、同時に、容易にそれを達成させないストッパーでもあるのだ。この世に35本残された魔剣。それぞれに異なる適格者。およそ無理難題なる試練。それでも、俺は新たな神の誕生を願い、定命の理を超えてそれに挑み続けた…」

「そんなに、神が必要なの?」

 ギレスブイグはため息をついた。

「かつては…神々の恩恵は、人を死から救うことも成し遂げた。だが、力はゆっくりと失われ続けている。代わりに隆盛を極めるのは、魑魅魍魎の勇たる蛮族どもだ。痩せた地でも生き永らえる奴らは強い。そして、我らに残された地は狭すぎる。いずれ遠からずの内に、人が踏める地表は、この世から失われるであろう」


 彼は、何もない白い空を見つめる。

「そんなあなたが…どうして、今、私といるの」

「嗚呼…」

 黒騎士は片手で目を覆う。

「無駄だぞ…」

 は?何が…。

「ここでは、時間すらも影響を生まぬ。どのような変化も、ここでは起こらぬのだ。時間稼ぎは、全くの徒労に過ぎぬ」

「それでも、私はあなたに尋ねるわ」

「良かろう…だが、同じ話をさせるな。俺は、お前を新たな神とするために、今まで導いて来たのだ」

「そんな、突然、そんな事を言われても、笑っちゃうわ」

「突然ではない。俺は、お前が生まれる前より、この日を予見し、道筋を描いて来たのだ」

「生まれる前?」

「生まれる前より」

 間髪空けずに、黒騎士は頷く。

「どうやって?」

「未来を予知する魔術。お前に適した魔剣を、お前が生まれるより前に、父親に授けた。魔剣にふさわしい人格者となるよう、育てるように諭してな。平坦な道では、決して無かった。異界から来たアールヴは、俺の予知には現れなかった。あ奴は方々を掻き乱し、学会にまで侵食し、俺の計画に抵触しおった。そして、最たる弊害をもたらしたのは、ハインツの裏切りだ」


 …父は本当に、最初から私の神格化などを望んでいたのだろうか。

 いや、きっとそれは違う。

 ギレスブイグの言う、裏切りとは…きっと。


「アインスクリンゲの呪いって、もしかして…」

 ギレスブイグの瞳に、いつものように暗い影が差し込む。

 そうか、彼の瞳は、いつもこんな…だった。

「アールヴがお前を裏切ったのは、呪いの本質に勘づいたからであろう。我が身の危険を、目敏く察知したのだ」

 なぜだろう…私は、怒りを覚えているはずだ。

 激しい、憎悪を。

 燃えるような、憎しみを。

 でも、なぜだろう…心が、まるで焼きたてのパンの上に、引き伸ばされたバターのようだ。

 怒りをぶちまけたい。

 だが、その怒りが…心から溶けて垂れ落ちてゆく…。

「だからか…クルトの死も、お前の描いた筋道だった…」

 精一杯の呪いを込めたつもりの声が、ひどく冷ややかで薄っぺらい。

「俺がやらねば、オースブレイドがそれを、やった。その結果、お前がどうなるかは、俺は予知で知っている。これは、言い訳ではないぞ。お前が俺を憎むであろう事は、とうに承知だ。お前の半生を、俺はすでにお前が望まぬ流れに、書き替えてしまったのだからな」

 ギレスブイグは、立ち上がる。

「だが、今ならば、分かるのではないか?世界の現状を…西方諸国に襲い来る、蛮族たちの津波のような軍勢を、感じ取れるであろう。領土争いで人命と時間を浪費することしか知らぬ、為政者たちの長きに渡る愚行のツケが、間も無く支払い期限を迎えようとしている」

 瞳を赤らめた黒騎士は、距離を詰めて、懇願した。


「今こそ、剣の子らに新たな光を届ける“神“となれ!」


 眩暈がした。


 何が真実で、何が正しい選択なのか。

「変わらない…」

 今までも、ずっとそれで、私は悩み続けて来たのだ。


 目の前の状況に対応するだけで、精一杯な私。

 周囲の期待通りに出来ているのか、いつも不安で不慣れな仕事に四苦八苦するだけの、不器用な私。

 男たちの喧々諤々なやり取りに、耳を塞ぎたくなりながらも、その成り行きに結論を任せるしかない、臆病な私。

 ロロ=ノアの前では、反論さえ頭に浮かばない、無能な私。

 ミュラーに頼るばかりのくせに、見栄を張って偉ぶる、卑怯な私。

 多くの兵を死なせ、為政者を屠り尽くしたくせに、偽善ぶる私。

 決して忘れ得ぬ、こんな想いから、解放されるだろうか…。


「神は、人から許されるのか…」


 あるいは神ならば、人は許してもくれるのかも知れない。

 クルトなら、私にとってのそれになると、思っていた。

 それを、私は期待していた。

 心の奥底で、それを望んでいた。


 純白のイブニンググローブに覆われた手のひらに、ほんのりとした“温もり“を感じた。


「これは…血?」


「…そうね、それら全部が、私…うん。ええ…ありがとう。きっと、そうだわ」

 ギレスブイグが慌てた様子で、私の腕を揺さぶった。

「ルイーサ、俺を見ろ!お前はついに、魔剣の試練を越えたのだ。オースブレイドは昇華の門を開けた。今こそ、お前にしかできぬ偉業を成せ!最後の手順は、俺が心得ている。俺に身を委ねろ。あとは、全て俺に任せるだけで良い!」

 ギレスブイグの瞳には、涙が流れていた。

 彼の言葉に、きっと嘘は無いのだろう。

 数百年という月日の中、彼はこの日のために、心血を注いで来たのだ。

「あなたは、何を望むの?」

 黒騎士の瞳は、子どものように輝いた。

「神の恩恵を!」

「恩恵とは?」

 ギレスブイグは、まるで私を崇めるかのように、跪いた。

「愛を…」

 それが、彼の数百年に及ぶ願いなのか…。

 私は、彼の顔を胸に抱いた。

「哀れな子ども…数多の人々も、きっとあなたと同じなのかも」

「では…」

 泣きじゃくる子どもの頭を労るように、私は彼のしけった黒髪を撫で下ろした。


「だから、私の願いも、同じなの」


 誰も同じ、泣きじゃくる子ども。

 今に憂い、未来に迷う。

 実際に涙を出すかどうか、の差しかない。

 だから、私の決断がどうあれ、責任なんて問うても無駄。

 私が、私をどうしようが、結局は、それが私の“生きた証“。

 ただ、それだけだ。

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