第8話 ルイーサ
私は、自分の名前が嫌いだった。
猛々しい、気丈夫となる事を求められている様な…未だ、それにほど遠い事を戒められている様な。
だから、仲の良い友人には、家が領有する地名の方を呼ばせていた。
為政者としての心境の何か、がそこにあった訳ではない。単純に、響きが気に入っていただけ。
幼い頃の私には、私をアマーリエと呼んでくれる、三人の友人がいた。
石工の息子フランコの家族は、私の父から雇われて、他所からこの地へ越してきた。二歳年上で、身体が大きく活発で負けん気が強く、領主の娘の立場を一応は立てるものの、四人組のリーダー的存在だった。
仕立屋の息女フレデリカは、透けるような白い肌と薄い色の金髪の持ち主で、病弱な反面、とても快活で明るい女の子。屈託のない素敵な笑顔がアマーリエには、お気に入りだった。
靴屋の息子アベルは、大人しく臆病であったが、リベラルアーツに興味を持ち、賢く思慮深い気質だった。そして、フレデリカに恋をしていた。本人は内緒にしているようではあったが…。
三人とも、クラーレンシュロス城のコートヤードガーデンにある、小さくて狭苦しくはあっても、綺麗に整備された集合住宅に暮らしていた。
遊び場は、決まっていた。
城外にあるユースの泉と呼ばれる林。
一帯の水源となる美しい泉に流れ込む、三本の小さな川のうち一つを少し遡る。
やがてたどり着く、大きなナラの木の根本。
そこに、集めた廃材で建造した、四人の隠れ家があった。
城の厨房から持ち出した白パンを、そこで皆で分けて齧り付く。
城下の村での噂話。
森に出没するオオカミの話。
西方諸国のどこかにいるという、竜の話。
アマーリエは、ここでのそんなたわいの無い時間を、とても、とても…心から楽しんでいた。
危ない時もあった。
それは、いつものように厨房から白パンを持ち出し、スカートのポケットに無理やり押し込んでいるところを、使用人のサンチャに見つかった時だ。
「旦那様にご報告します」
いつもは優しいサンチャが、その時ばかりは険しい表情だった。とても怖かったのを覚えている。
私が泣いて謝っているところを、運悪く父が通りかかった。
サンチャは困った顔をしつつ、父に経緯を報告した。すると、父の返答はこうだった。
「その食べ物は、お前のために用意したものだ。それをどう扱おうが、お前の勝手だ。しかしその分、食卓に並ぶものが少なくなることは、我慢してもらおう」
なぜか、サンチャはほっとしたような表情で、父に一礼したのを覚えている。
そんな隠れ家遊びは、冬の休息期間を挟んで、一年ほど続いたある日、“あの事件“が起きた。
習い事で集合時間に遅れた私が、一人で隠れ家にたどり着くと、フレデリカが泣いていた。
フランコはアベルの上に馬乗りになって、彼を殴りつけていたのだ。
私が止めに入ると、フランコは涙目で告げた。
「こいつが、フレデリカを突き飛ばしたんだ!その所為で顔に怪我をしたんだぞ」
フレデリカの怪我を確かめると、確かに額にこぶができ、血が滲んでいた。
「もう、いいわ。フランコ、やめて。お願い。アベルが可哀想」
それを聞いて、フランコは再びアベルを殴り始める。
私は、彼の腕を掴んで、手首を軽く捻る。
「痛いっ、放せ、アマーリエ」
「アベルは反撃していない。やめなさい。アベル、どういう訳か話して」
顔を赤く腫らしたアベルは、目線を逸らして黙り込んだ。
私は、フランコの腕を抑えながら、アベルをさらに問い詰める。
今思えば、それが悪かった。領主の娘とはいえ、兵法を学ぶ身とはいえ、年頃の男子が、女子に押さえつけられている状況を、耐えることはできなかったのだ。そんな情けない自分の状況を、いつまでも許容できるはずもなかったのだ。だが、なまじ普段から稽古していた所作だけに、その時の私には、その精神的苦痛というものを、推し量ることができなかった。
アベルが、苦いものを吐き出すように言い捨てた。
「フレデリカが言ったんだ。フランコの事を男らしくて、かっこいいなんて!」
「え…そんな、事?」
フランコが、私の手を引き離し、身体を突き飛ばした。さすがは、二歳年上の男子の力だ。私は隠れ家の壁に、後頭部を打ち付けて倒れた。
「うるさい、黙れ!」
フランコが、アベルの顔面を容赦なく殴打し始める。
フレデリカが止めに入るが、今度は彼女も突き飛ばされた。
「うっさい!このブス!」
本当に、今ならば…今ならば、簡単な話なのだ。フランコも実は彼女のことが好きで、ずっと胸に秘めていた想いが、現実の世界で溢れ出し、それをどう心に落とし込んだら良いものか、混乱した。たった、それだけの気持ちの揺らぎ。たった、それだけのはずだった。今ならば、それが解る。
しかし、その時の私は違っていた。
人間付き合いが、そもそも不慣れだったのだ。
城で生まれ育った故の、社会性の欠損。
突如と湧いた、怒りへの自制心が欠けていた。
偶然、手元にあった、何の変哲もないただの小さな角材。
アベルを殴り続けるフランコの側頭部に、それを叩きつけてしまったのだ。
翌日、父の友人であったはずの、石工が城に訪れ、もの凄い剣幕で抗議した。
自室での謹慎を言い渡され、寝台の上で両脚を抱えながら、私は二人の喧嘩が終わるのを待った。
やがて石工が去り、私の自室へやって来た父が私に告げたのは、“決闘裁判“の執行であった。
フランコはその場で昏倒し、石工の家に運ばれるも、そのまま目覚めることなく、夜半に呼途切れたのだと言う。
騎士たちは、猛反対した。
サンチャも、同門のミュラーも、ボードワンも、私のことを痛ましげに見つめた。
私は、その空気に飲まれて、恐ろしさだけを感じ取った。
だが、父はその結論を曲げなかった。
城のベイリーにて、群衆たちが輪になって集まる中、私は押し出されるようにして、進み出る。
決闘の相手は、フランコの兄だった。
彼の名前は覚えていない。
フランコよりも3つ年上で、スラリと長い手足で、華奢な体つきだったのを覚えている。
8歳の女子に、13歳の男子が相手をすることになった。
父も見守る中、ボードワンが決闘裁判の経緯を簡潔に述べ、アドルフィーナの御名において、決闘の結果は、神の守護する正当でいて不可侵な裁きである旨を宣言する。
「双方、構え」
ボードワンの厳しい口調は、今でも耳に焼き付いている。
フランコの兄は、真新しい両刃の剣を、革製の鞘から抜き放つ。
脂汗を流し、蒼白の彼は、群衆の中にいる両親を見て、大きく頷いてみせた。
私は、よく研がれた小剣の柄に手を当てて、地面を眺め、ゆっくりと相手のつま先までの距離を確かめる。
そのまま目線をあげると、相手の視線と交差した。
緊張している…とばかり思っていた。
だが、そうではなかった。
兄は、己の恐怖と戦っていた。
どうやらそれは、私への恐怖ではなかった。
己の恐怖だ。
真剣を構えた相手と向かい合い、しかし、未だに迷っていたのだ。
幼心に、私にも察しがついた。
領主の娘に文字通り、“刃向かう“のだから…。
殺さずに済んだとしても、もう、この地では暮らしてはいけない。
だからと言って、もうこの場に及んで引き返すことは叶わない。
すべきことは二つに一つしかない。
目の前の少女の身体を切り裂くか、自分が切り裂かれるか…結末は、そのどちらか。
私は開始の合図まで、深く息を吸い、目を閉じて待つ。
群衆のざわめきが収まった瞬間、ボードワンは沈黙を破った。
「…はじめ!」
うっすらと目を開く。
恐怖は無かった。
対峙した瞬間から、それは灰燼と化して消え失せていた。
だが、迷いに揺れていた。
目の前の少年は、何度も剣を握り直して、飛びかかる機会を伺っているように見える。
私が背後の父に神経を向けると、父が初めて口を開いた。
「苦しませるな」
次の瞬間、私は腰の剣に手を添えたまま両足を揃え、重心を前に倒した。
少年が、身構えるのが見えた。
私は両足で地面を蹴り、続いて右足を大きく前へと伸ばす。
股が裂けるほど、開かれた足は、私の身体を地面スレスレにまで沈める。
剣を振り上げる少年の姿が、眼前に迫った。
体当たりされる、と思ったに違いない。
だが、鞘から抜かれた小剣は、少年の股間に吸い込まれ、下腹にまで達して止まった。
咄嗟の攻撃に対し、少年は反射的に逃げの体勢をとり、その剣を振り下ろすこともできぬまま。
私の左手は、彼の右肘を下から押さえていたが、それも無意味で終わる。
「ひぃっ」
声を上げたのは、群衆の中にいる、少年の母親だった。
剣を引き抜くと、少年のズボンがたるみ、裂け目から内臓がこぼれ落ちる。
地面に落ちる自分の内臓を見つめ、彼は私の目を見た。
“なんてことをするんだ“
まるで、そんな視線だったのを覚えている。
「嗚呼…」
少年は剣を捨て、自分の内臓を抑えながら、その場に崩れ落ちる。
私は、ボードワンが彼を治療するものと、思い込んでいた。
しかし、アドルフィーナ司祭は、陽の光を背に、押し黙ったまま、私を見つめる。
とどめを刺せと、言うのだろうか。
父を振り返ると、無言のまま、微動だにしない。
群衆を見た。
見知った顔たちが、初めて見る表情で、私を見返す。
とどめを、刺さないと…いけないのだろうか…。
しゃがみ込み、少年の襟を押さえ、首元に刃を当てると、彼が震えていることに気がついた。
肌が、氷のように冷えている。
勝負は、すでについている。
神の奇跡で、傷の治療は行わないのだろうか。
ボードワンは、深く頷いた。
少年は、紫色になった唇を震わしながら、何かを呟いている。
「やめてっ!お願い!」
群衆の中から、少年の母親が走り出し、兵士に押さえつけられた。
とどめを…?
「すでに助からぬ。慈悲の刃を持って、神聖な決闘の終結とする」
ボードワンが最後通告とばかりに、群衆に向かって宣言した。
私はそれを、私への命令だと理解する。
体重を乗せて、鎖骨の間から心臓に達するまで、刃を埋め込んだ。
生温い返り血が、私の目に飛び込んだ。
「これにて、神聖なる“決闘裁判“の裁決を告げる。フランコの死は、その弟の罪による報いとし、その行いを止めに入ったクラーレンシュロス伯ルイーサは、無罪放免となる」
騎士たちに囲まれながら、私はキープの中にある自室へと連れ戻された。
サンチャたちに身体を清められると、父が現れ、私の頭に優しく手を当てた。
「見事だ。だが、まだ終わりではない。自身の行いの結果を、お前はまだ充分に理解していない。今夜は、礼拝堂で夜を明かしなさい」
「私は…勝って良かったのでしょうか。相手は、素人でした」
父は腰を下ろし、私の目線に合わせてこう言った。
「ルイーサ、忘れるな。お前には、貴族の“青い血“が流れているのだ。その血を持つ者は、決して被害者となる事は許されぬ。領民たちは、いずれお前のものとなる。その時に、お前が被害者となってしまえば、お前の領民たちは全てを失うことになるのだ。良いか、忘れるな。いついかなる時にも、お前は、“加害者“であり続けねば、ならぬのだと」
冷えた空気の礼拝堂には、二つの死体が眠っていた。
石工の二人の息子たち。
私が殺した、フランコとその兄の亡骸と共に、私は毛布も与えられぬまま、石のタイル敷きの上に座り込む。
「ハインツ様の命で、私は中でご一緒することはできませぬ。ですが、すぐ外におります。朝が来るまで、すぐ隣で控えております故、どうか今夜は…お気を強く、お持ちください…」
ボードワンは、眉を複雑な形に曲げながら、妙な表情で私にそう告げると、礼拝堂の扉を閉めた。
私は、そのまま、寝ずに一晩を過ごすことになる。
はじめは、どうと言うことも無かった。
自分で言うのもなんだが、さしたる感情の波も無かったのだ。
だが、礼拝堂の細い窓から、月明かりが差し込み始めると、私は身を固くした。
安置台の上の二つの死体を挟んで、向こうの壁際に、人影を認めたからだ。
月明かりが生んだ幻影のように、うっすらと色褪せた姿の二人は、この二日間で、私が殺した兄弟と同じ姿をしていた。
自らの動かぬ身体を見つめているのか、あるいは私を見つめているのか、その虚な視線は定かではない。
恨むようでも、嘆くようでも、ましてや苦しむようでもなく、ただ、弛緩した姿勢で佇む。
私は、視線を逸らすこともできない。
目を逸らせば、襲ってくるかも知れない。
交わらぬ視線を交差させたまま、私は背中を走る悪寒に耐えながら、朝を待った。
父は、これを見せたかったのだ。
人が死ねば、こうなる。
その時の私は、そう理解した。
それが、尋常ならざる現象だと分かったのは、数年後のことだ。
ボードワンが扉を開くと、刺すような強い朝日の光線と共に、サンチャが走り込んで来て、私の身体を抱き抱えた。
彼女の腕に抱かれたまま、振り返って壁を見ると、二人の亡霊は、いつの間にか姿を消していた。
この日以来、私は領民との交流が制限されてしまった。
アベルとも、フレデリカとも会うことが無かった。
剣の稽古の時間が増え、それ以外は家庭教師から、領主としての教養を授かり、夜には少しだけ父から教えを受け、余暇があれば、サンチャが相手をしてくれるようになる。
私の周りには、騎士たちが集まるようになり、以前よりも親しげに接してくれるようにもなった。
繰り返し、父は私に教え込んだ。
『青い血を持つ貴族は、常に加害者であり続けねばならない』
被害者の末路は、あの夜の霊だ。
あの霊のように、私はなってはいけない。
領主の娘に生まれたからには、私は被害者の立場になってはいけないのだ。
覚悟を決めた。
私には、友人はいらないのだ。
騎士たちだけ、私に従っていてくれさえいれば良い。
そう思うと、今まで抱えていた様々な悩み事が、一切合切、些事となって消え失せた。
代わりに、冬眠から目覚めた蛇が、ゆっくりと首を持ち上げるように姿を見せたものもある。
まだ未知のこと、想像の及ばない未来のこと。
漠然とした不穏感…想像できない未来への不安は、私にとって日常となっていく。
歳を重ねても、猛々しい気丈夫な女には、成れそうにない。
変化は他にもあった。
気恥ずかしい出来事だが、騎士たちが私の名を、ルイーサではなく、“姫“と呼んでくれる様になった事だ。本当は、アマーリエと呼んで欲しいのだけれど。
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