第3話 岩の斧

 最後に睡眠をとったのは、吹雪に襲われる直前のこと。

 気絶から覚めた後も、丸一日、昼夜を問わずに歩き続けた。

 九十九折りの山道を降るアマーリエの視界が、急に開けた。

 曇天の薄靄の中、わずかに朝日の気配が、やんわりとした光輪となって滲む。

 アマーリエは再び意識を失い、支え切れなくなったボードワンと共に、倒れ込んだ。


 アマーリエは夢を見た。

 甲冑を纏った男どもが、さして広くもない部屋に身を寄せ合い、酒盛りをしている。

 あぁ、これはハルトニアの村長の家だ。

 確か、この後に村長から蛮族討伐の依頼を受けるはずだ。

 村人たちが生贄に捧げたのは、羊飼いの娘だったか…。

 ふと、違和感を覚えて、騎士たちを見渡す。

 親睦を深めようと、ハルトマンが古参のボードワンに酒を注いでいる。

 その横では、スタンリーとワルフリードが向き合いながら、酒を一気に飲み干す。

 この頃はまだ、元気な姿を見せていたノイマン、ルキウス、シュルト、ボルドー、カルロの面々。

 そうだ、クルトはどこ?

 確か、私の側に来て…。

 はっと、視線を戻す。

 灰色の少年が、そこに居た。

 ボロを纏い、顔を汚した石工の息子。

 その額には、赤く血で染まった陥没痕があった。

 アマーリエは、少年が何かを見ていることに気がついた。

 その視線の先を追う。

 二人の騎士。

 口元を脂でテカらしながら、鴨肉を頬張るオラースと、その肩に手を回して、語りかけるジャン=ロベール。二人は、他の騎士たちの会話に混ざることなく、何やら話し込んでいる様子だった。

 ジャン=ロベールの青い瞳が、こちらを伺うように、動く。

 視線だけ…鋭い、いや、暗い眼光がアマーリエを見ていた。

 私は…村長に話しかけられて、横を向いている。

 そうだ。

 私は、亡者の存在を、この時に感じていた。

 そして、パヴァーヌ出身の騎士が、人付き合いが上手とは言えない、無骨な騎士と親しげに話している様子も、確かに見ていたのだ。

 反骨的な言動が目立ち、時に公然と不満を漏らす騎士、オラース・ド・バレリ。

 慎重論を常に唱え、アマーリエ地方への出征にも消極的であり続け、ピエレト山の麓で、奇怪な行動を見せた貴族、ジャン=ロベール・マクシム。

 なぜ、今まで気が付かなかったのだろう…いや、思い至らなかった、のだろう。

 二人は…。


 激しい痛みを覚え、アマーリエは覚醒した。

 また、天蓋だった。

 しかし、今度は野営に使われる、騎士団長専用の大型の天蓋の中にいた。

 吹雪の音は止み、代わりに焚き木の弾ける音と、こげた臭い、そして暖かな空気に満たされていた。

「痛むか…痛みは、正常な印だ」

 寝台の隣で、ボードワンが微笑んだ。その背後に、ミュラーとアッシュも顔を覗かせている。

 アマーリエは、じんじんと激痛が走る右手を持ち上げた。

「あ…」

 すぐに理解した。

 先ほどまでの記憶とは異なり、最小限に巻かれた包帯。


 小指は根本から無くなり、薬指も半分ほどに、短くなっていた。


「体内の毒素は浄化した。しかし、指先はもう、奇跡を受け付けなかった。そこだけは、すでに死んでしまったからだ。放っておけば、壊死を起こして腕ごと切り落とさねばならなくなる。受け入れるのだ、アマーリエ」

「…足は?」

「湯で温めて、よく揉んでおいた。全部の指がついておる」

 アマーリエは、天蓋の中を改めて見渡すと、ホッとしたように息を吐いた。

「そう…死ぬところ、だったのよね?…ありがとう、ボードワン」

「紋章官を探しているのか?まだ、見つかっては…」

 アマーリエは首を振った。

「違うの…下山の間、ずっと付き纏って来ていた人たちが居たから…」

「付き纏う?それは、僕のことかい?」

 ミュラーが目を丸めて尋ねた。

「違うのよ。いいわ、なんでもない。今はもう、いないみたいだし…ロロ=ノアは、やっぱり見つかっていないの?」

 ミュラーは、アッシュに視線を送った。

 アッシュは、灰色の髪を指差しで掻き、言葉を選んでいるようだった。

「スタンリー卿の従者が、消える瞬間を目撃したと…」

「消える瞬間?」

「あくまで、聞いた話ですが、そいつによれば、スッと消えた、という事です」

 沈黙が、焚き火の音を際立たせる。

「…えっと、何分、視界も悪い吹雪の中でしたから、足を滑らせたのかも知れません」

「二人同時に、消えたの?」

「えぇ、まぁ。そいつは、そんな風に見えた…と申していましたが、目を開けているのも辛い状況でしたので、何ともはっきりとは…」

 アマーリエは、寝台に頭を落とした。

「じゃ、そうなのかもね。エルフなら、雪の精霊に気に入られたのかも…」

「…いや…捜索は続けます。まだ、最後尾は吹雪から抜けていませんから」

「季節外れの…雪の精霊…」

 アマーリエはそう呟くと、何処かへ消えてしまった自分の二本の指を見つめ直した。


 オレリア山の麓で、辺境騎士団の軍勢は野営地を設けた。軍列全てが山を降りるまでは、最速でもまだ一日は要する。続々と集結を続ける軍様を確かめながら、ミュラーは絶望的な状況を知った。

「武装が足りない。特に、槍を積んだ馬車は、ほとんどが落ちてしまったらしい」

 ミュラーは、栗色の髪を掻きむしりながら、アマーリエに報告した。

「谷底までは、往来できんぞ」

「もし、吹雪が止んで、そこまで降りられたとしても、深く雪に埋もれているはずだ。見つけようがないよ」

 ボードワンの言葉に、ミュラーは絶望的な見解を返した。

 肌着姿のアマーリエは、寝台に腰をかけたまま、妙にあっけらかんとした口調で告げる。

「無いものは、もう仕方ないじゃない」

「アマーリエ」

 ミュラーは寝台に片手を付いて、反論する。

「失ったのは、武装だけでは済まない。今、わかったいるだけでも、兵は百人前後。軍馬も五十頭近くを失っている。ただでも、騎兵の数が少なすぎるのに、槍がなければ、敵の騎兵突撃を防ぐ手立てが無くなってしまう」

「馬に道を譲るしか、無いわね」

「魚鱗に配置するのか?馬をいなしても、歩兵に各個撃破される。有機的な連携を期待すると危ないぞ。練兵が行き届いていないことを理解してくれ。会戦なんて、グラスゴーの兵士たちは経験したことが無いんだから」

 捲し立てるミュラーの額に手を当てて押し戻すと、アマーリエは目をくるりと回して考える。

「ふむ…一本も無いわけ?」

「…そんなわけ無いだろ。手に持たせた槍は無事だ。だが、一万本は失ったよ。本来ならば、全員にだって槍は持っていて欲しいくらいなのに…アマーリエ、ちゃんと考えてくれ。騎兵に好き放題、突破されてしまうことになるっ…」

「むぅ…」

 アマーリエの口から出た言葉は、それだけだった。

 沈黙する騎士たちの背後から、アッシュが控えめに挙手をした。

「あの…発言しても?」

「断った記憶は、今まで無いけれど」

 アマーリエの言葉を肯定と受け止めたアッシュは、手を合わせてゆっくりと話し始めた。

「これは、本に書いてあった事なのですが…」

「本?何の本?」

 アマーリエが口を挟む。

「冒険譚です」

 アッシュの返答に、ミュラーが天を仰いだ。

「その手のモノは、大抵が空想に基づいている」

「いえ、ハルトマン卿は…実際に存在すると…その確かに、眉唾ではあるのですが…」

「ハルトマンが?冒険譚を読んでいたの?」

 アマーリエは、身を乗り出して尋ねた。

「えぇ、どちらかと言えば、元のハルトマン卿の好みだったのですが…」

「元の?どちらか?」

「い、いえ、何でもないです。ややこしいので、今のは忘れてください」

 騎士たちは、顔を見合わせた。

「と、とにかくです。その本によれば、ドワーフ族の村が、この山の麓付近にあるそうなのです。正確には、“巨大な樫の木の近く、地下王国の入り口がある“と…」

 ボードワンは禿げ上がった頭に手を当てて、記憶を辿る。

「いや、そう言えば、聞いたことがあるぞ。ハインツ様が、ドワーフ族から武具を調達しようと、交渉をしに行くとか何とか、お話になっていたことが…実際にどうなされたのか、までは知らぬが」

「みんな、ちょっと外に出てくれないか。アマーリエ、出られるかい?」

 ミュラーが、一同を誘って天蓋の裏に回り込む。

 木々がまばらに生えた、溶岩石の傾斜の大地に、春の到来を告げる山野草が芽吹き始めている。

 そこに夕陽がオレリア山の影を落とし、斜面に雄大なコントラストを描く。

 その影の中から一本だけ頭を突き出し、先端部だけにオレンジ色の夕陽を纏う、大きな木の姿が、遠目に見ることができた。

「…もしからしたら、アレ…かな?」


 少数の警護のみを従えて、アマーリエは樫の木を目指した。

 樹齢にして一千年はあるだろうか、まるで岩のような巨大な幹を持つ樫は、無数の立派な枝を伸ばし、まるで天を掴まんとするかのような英姿だ。

「ドワーフは地下の住まいを好むはずです。どこかに、入り口があるやも…」

 アッシュは地面を見渡すが、それらしい穴は見つからない。

「もう、日が暮れる。ここは一度戻って、兵士の中からドワーフを探そう。何人か、見たんだ。探して、情報を集めてみてはどうかな?」

 ミュラーがそう提言した時、おーいと、声をかけられた。

 夕陽を背に、身の丈が低い二人組が手を振りながら、小走りにやって来るではないか。アマーリエは散開していた騎士たちを集め、来訪者の到着に備える。

「や、や。随分と遅れましたな…岩の斧は、もう諦めかけておいででしたぞ」

 二人組はドワーフだった。片方は腰まで伸ばした白い髭で沢山の三つ編みを拵え、片方はピカピカの鉄兜を被っている。息を切らせながら、兜の男がアマーリエたちに告げると、三つ編みの男が、兜の肩をバンバンと叩いて来た方向を指差す。

「詳しいお話は、後でよろしかろう。首が伸びてケルピーのようになってしまう前に、早くご案内するのだ。このところ、夜になるとダイアウルフが彷徨くで」

 アマーリエは騎士たちと視線を交わしてから、二人に返答した。

「お願いするわ」

 ドワーフたちは頷き、道案内を始める。

「ところで、荷車はお持ちで無い?それも、ご用意しますか?もちろん、別料金となりますが」

 歩きながら尋ねる三つ編みに、アマーリエは馬上から返す。

「無用よ。少し離れた場所に待たせてあるの…あまり大勢で押しかけたら悪いと思って」

「左様で」

 アマーリエは、二人に見られないように、ミュラーに向けて舌を出して見せた。

 ドワーフたちは、小さな岩のそばで立ち止まると、かがみ込む。

 騎士たちは目を広げて驚愕した。

 二人が地面を持ち上げると、地下へ続く穴が生まれたのだ。

 同じように、今度は小さなカモフラージュ用のギリーネットをいくつか地面からひっぺがし、金属製の輪っかを数個、出現させる。

「馬は、こちらに繋いでくだされ。狼の番は、私めが」

 鉄兜が馬の番に残り、三つ編みが地面に開いた階段を降りていく。

 騎士たちは無言のまま、彼らの案内に従った。


 階段は花崗岩でできていた。

 狭い地下道を進むと、やがて小さな鉄扉に行きつき、その左右にはドワーフの番兵が立っている。

 三つ編みは番兵に扉を開けさせると、ランタンを受け取り、騎士たちを招き入れる。

「頭に、ご注意くだされ。何、心配はご無用ですぞ。低いのは、ここだけですから」

 扉の中は暗く、さらに下方へと伸びる階段が続いていた。下方から凍るような冷たい風が吹きつけ、騎士たちはつい先日までの雪山の苦しみを脳裏に蘇らせて、慄いた。

「くそ…地下なんだから、防寒具を持って来れば良かった」

 ミュラーの呟きを合図に、アッシュが背負い袋を開き、テンのコートを取り出すとアマーリエに着せる。騎士たちがどよめいた。

「おぉい、アッシュ…もう一着無いのか?」

「無理言わないでください。かさばるので、自分の分さえ無いんですよ?」

「ありがとう、アッシュ」

 アマーリエは礼を述べ、他の騎士たちは、各々の従者の顔を睨みつけた。

 無限に続くかと思われた階段の先から、明かりが見え始め、やがて喧騒が伝わる。


 終着点で騎士たちを出迎えた光景は、“圧巻“の一言に尽きるものであった。


 湯気で煙る天井は、ハロルドのアドルフィーナ神殿のカテドラルを悠に超える高さがあり、奥行きに至っては暗がりに消えてしまい、果てが見えない。数層に重なるガーデンは、多数の階段で複雑につながり合い、ドワーフたちが行き交う街並みを形成していた。

 中でも目を引いたのは、天井から筋を成す滝だ。流れを追って見下ろせば、緑豊かな自然を表現する彫刻群に囲まれた、円形の大理石からなる瀑布へと落ちゆく。

 石が詰まった不思議な篝火が無数に焚かれ、それが街を照らし出す様は、まるで広大な地下空間に数多の小世界が点在しているかのように思わせる。

 幻想的な空間に心を奪われた騎士たちは、寒さも忘れ、口を開いたまま見入ってしまった。


「ささ、皆様の到来を知って、岩の斧がさっそく参上しましたぞ。我らは気が短い性分なので、どうぞ、お早う願いますぞ」 

 三つ編みに急かされて、騎士たちはドワーフの街の中央に位置する、広く平坦な歩廊を進んだ。

 左右には岩をくり抜いて作られた商店街、その上にはコンドミニアムが並び、正面の広場には巨大なドワーフの像があった。その像の足元に、数人のドワーフたちが待ち構えている。

 薄汚れたぼろ布を重ねて着込んだ、まるで街のこじきか、召使いかのような出立ちの男は、まるで弦楽器のように低くよく響く声で、騎士たちに向けて呼びかけた。

「待ち侘びたぞ。地上の町に住まう“ひょろ長“どもよ。どうやら、約束事に誠意が無い事が、主らの心情のようだな」

 アマーリエは、身なりはボロでも、しっかりと背筋を立てて揺らぎのないその風采から、彼が“岩の斧“と呼ばれる者であると悟った。そして、岩の斧は、この地下都市の支配者であろうという事も。

「お初にお目にかかります。岩の斧殿。ご機嫌のほどは、どうやら宜しいとは言えぬご様子。こちらの不祥がもたらした結果と察し、心苦しいばかりです。何とぞ、ご寛大なお心を賜りたく」

 アマーリエは、慇懃無礼で飄々とした、ロロ=ノアの真似を演じている自分に気がついた。

 岩の斧は、腹を覆う長い髭をもごもごと動かし、目を半分隠してしまうほどに豊かな、左右の眉を交互に上下させる。

 彼の視線が、腰のアインスクリンゲに向けられる。

 岩の斧は、三つ編みを睨んで、声を荒げた。

「グリム、人違いだぞ!こやつは、クラーレンシュロスの跡取りぞ。ついこの前まで、儂よりも背が低い小娘であったのに、もうこれほどまでに育ちおった。ひょろ長族は、可愛げがない。追い払え!」

「待って、私を知っているの?」

「覚えておらんのか?二つか、三つかの頃ぞ。あの頃は、ハインツもよう買うてくれたが、その魔剣を手にしてからは、とんと姿を見せんようになったわ。よほど“それ“に金を注ぎ込んだか、我らの武具に興味を失ったかのどちらかであろう。何はともあれ、お前さんは招いてはおらぬ。早々に立ち去れい」

「しばし、お待ちを。私はその武具を求めに、ここを訪れました。やけにすんなり案内してくれた理由は、人違いだったのだと、たった今、理解に及びました。ですが、追い払うだけでは、全くの時間の無駄。その前に少しだけ、商談を交わすことができれば、お互いの時間を有意義なものに変えることが出来ましょう」

 岩の斧は、またしばらく、髭をもごもごさせながら思案を巡らす。

「儂はのぉ…ひょろ長どもを、信用してはおらぬのだ。お主らは、人に物を拵させておきながら、いざ完成する段になって、値段を下げろと言って来よる。それまで、散々に質に対して要望をし、納期を削れと無茶を放っておきながら。儂らの魂とも言える作品を、見る前から難癖をつけて値引きしおるのだ。儂と交渉がしたければ、ハインツを寄越せ。せがれと交わす商談は、何もないて」

「私が、領主です。父は、二年前に他界しました」

 岩の斧は、眉を持ち上げ、茶色い眼を開いてアマーリエを見据えた。

「なんと…それは、知らなんだ。無礼を詫びよう…そうか。やつは地界へ召されおったか…いや、お主らの場合は、天界であったか…ふむ、で、なぜ武具を求めるのじゃ?父を殺めた相手に戦を仕掛けようというのか?」

「…知らないの?私の領土は、すでに二年も前から戦場になっていると言うのに…」

 岩の斧の元に、側近たちが集まり、何やら小声で話し合う。

「…ふむ。良い、分かった」

 側近たちを退けると、再びアマーリエに向き直る。

「地上の世情は、疎くての。だが、合点がいった。グラスゴーで大量の銀を仕入れて、貨幣を鋳造したのではないか?確か…アンオルフ銀貨といったの。戦の資金を調達するためであろう?」


 アマーリエには、なぜ岩の斧がそんな情報を知っているのかを疑った。地上での戦乱にも興味を持っていなかった彼がなぜ、アマーリエが規定の製造所ではないグラスゴーで、臨時にせよ貨幣を鋳造したことを知っているのか…また、それを今、なぜ彼が口にしているのか…。

 ミュラーがアマーリエに耳打ちをする。

「銀の商人や、細工師にドワーフがいた。彼らが、情報を漏らしたんだ」

 アマーリエは、岩の斧にさらりと答える。

「ええ。その通りよ」

 岩の斧は、顎に手を当てて返す。

「それは困ったの…武具や糧食の購入、それに兵士の賃金に当てたのであろう?」

「必要最低限な量だ」

 ミュラーが口を挟むが、岩の斧は難色を示す。

「じゃが…もしも、もしもだぞ?お主らが戦に負けるような事があれば…アンオルフの価値は暴落するじゃろ。やれやれ…代位弁済が必要となるやも知れんて」

「無礼なっ」

 ミュラーが一歩前に出た。アマーリエには、その予備動作の段階で止めるとこが出来たが、それをしなかった。ミュラーは続ける。

「領民でないと言えども、貴族同士の礼節は重んじていただこう。あなた方が、井の中の蛙でなく、優れた文明を築き、卓越した外交センスを持つ、交渉相手に足りる聡明な種族だと証明したいのであらば」

「ミュラー、お黙り」

 岩の斧が反論のための息を吸い込む前に、アマーリエはミュラーを叱りつけた。

「彼は生粋の貴族の家柄であるため、過剰に反応してしまうのです。どうか、無礼にお許しを。岩の斧殿の王国は、独立した勢力です。西方貴族の慣わしに従う謂れもない。どうぞ、お気になさらず、お好きなように。ただし…互いの立場にそれほどの差異はない、とだけは…何卒、お含みおきを」

 アマーリエが一礼する中、ミュラーは元の位置へ下がる。

 アマーリエとミュラーの考えは、一致していた。

 貨幣価値への不信は、理屈では翻すことができない。実のところ、岩の斧が言った通り、暴落の可能性を大いに宿しているからだ。


 貨幣の価値の話は、父からの教育において、授かった知識の中にあった。

 貨幣を鋳造すると、発行する領主には、原価と貨幣価値の差額が利益となる。しかし、それに差がありすぎると、貨幣の人気は無くなり、他の貨幣との間に価値の差が生まれてしまう。差が生まれると、貨幣の価値が下がり、物価の急激な上昇となってそれは現れる。だから、貨幣に使う金属の価値と、貨幣の額面価値はできるだけ近づけなければならない。できるだけ、というのは、実際にはその差が重要な収益である以上、イコールにはならない。貨幣の発行ができるのは、支配力のある領主のみ、と限定される所以がそこにある。発行量もまた、同じだ。実際にはイコールの価値を持たない物を、大量に製造しすぎれば、額面価値は必ず暴落する。戦の最中に大量に鋳造したとなれば、その危険性は推して図るべし。だが、実際に被害を被るのは領主だけではない。領民をはじめとする、貨幣を手にした者たち全員だ。生涯をかけて蓄えた財産が、本人たちの行いとは関係なく、一方的にその価値を落とすのだから。

 もっと複雑な話もあったようにも思えるが、アマーリエが記憶しているのはこの程度だった。

 グラスゴーでの貨幣鋳造は、ロロ=ノアの提言に始まり、彼女の管理下で実行された。銀の含有量が、父が発行していたアンオルフ銀貨よりも、わずかに劣ることを、岩の斧は知っているに違いない。誰にも気が付かれぬ程度に、調整したその量を。


「公益金貨立てをご希望ならば、半年は待ってもらわないと無理ね。戦中では、為替が安定しないから」

 アマーリエは説得の方向性を定めた。

 真っ向からは否定ができない以上、戦争の結果次第では…という方向に誘導してゆくのだ。

「今の為替が不利なのは、当然、理解しておるぞ」

「アンオルフ銀貨で支払う。それで私たちは戦争に勝ち、あなたたちも武具の性能を諸国にアピールできる」

「公益金貨ならば…」

「アンオルフ銀貨なら!あなたは、私たちを戦争に勝たせなければならない。もしも私たちが負けるような事があれば、代金の支払いも滞り、さらには武器がヘボだからだ、などと評判を落としかねないのだから。銀貨仕立てなら、あなた方の仕事に対して、私たちは担保を得る事ができる」

「本気で、品質を疑うと?」

「抱えた在庫を錆びさせないように、常に油を塗り続ける手間も無くなる」

「武具の手入れほど、楽しい仕事もないと、誰もが思っておるぞ」

「売掛をすぐに現金化できる。滞っているのでしょう?その、仕入れた素材費と燃料費、そして人件費をすぐにでも、支払える」

「すぐに、払えるのか?」

「アンオルフ銀貨なら」

「金額はまだ不明だろうに。何を、どれほど欲しいかにもよるのではないか?」

「それよ」

 アマーリエが指を一本立てると、ミュラーが代わりに答えた。

「長槍、短槍、投げ槍、内訳は問わない。最低でも五千は欲しい」

 岩の斧は脇に控える男に目配せをすると、男はうなづき返した。

 在庫があるのだ。

 しかし、岩の斧は、髭をもごもごと動かし、口ごもる。

「…だがのぅ、すでに買い手が付いておる品じゃ」

「それは違うわ。教えてあげる。それは、“焦げ付いている“と言うのよ。一体、どれくらい延滞させられているの?教えてご覧なさい」

 ミュラーは、アマーリエの岩の斧に対する口調が、いつの間にか横柄になっていることに気がつき、ヒヤヒヤし始めた。

「顧客の情報は、秘匿義務がある。軍装品の調達具合など、おいそれと教えてはならぬだろうて」

「じゃぁ、それを律儀に守ってらっしゃい。その代わりに、あなたの抱える職人たちからは、製造した品を捌く事もできず、給与も払えぬ頼り甲斐のない雇用者として、陰口を叩かれ続けるといいわ」

 岩の斧は、下唇を大きく上げて、うぬぬと唸った。

「あら…図星が過ぎたかしら?」

 ミュラーがアマーリエの腕を肘で小突いた。

「追い詰めてどうするんだ」

 アマーリエは、白い息を吐き出すと、口調を和らげた。

「失礼な言い方をしてしまって、ごめんなさい。岩の斧殿。あなたの立場になって考えている内に、つい気持ちが入ってしまったの。悪気はないのよ、分かるでしょう?ちょっと、親身になりすぎてしまったわ。どうか、私の気持ちを分かって頂戴」

 岩の斧はむっつりと黙ったまま、視線を逸らす。

「だけれど、もうひとつ、余計なお節介を焼かせてもらうわ。王侯貴族との交渉事ならば、衣服にも気を使って然るべき。相手が立派な衣装を纏ってくると分かっているのだから、それにこちらも近づけるの。華美になり過ぎて追い越しては、逆に相手の心象を悪くするけれど…塩梅が大事なの」

「衣服などに興味はない。いくら金を掛けても、すぐに汚れてダメになる」

「いいえ。それではダメよ。衣装には、意味があるの。相手に敬意を表しているか否かが、衣装で伝わってしまうのよ。口調や心情とは関係なしに、よ。それでは、交渉事も上手くいかない。分かるでしょう?衣装は、礼節なの。それを理解しない人を、貴族たちは軽蔑するわ。だから、舐められてしまう。お金にも、困っているように思われてしまう。だから、足元を見られてしまう。あなたの立場でボロを着てても、良い事なんて、一つもないわ」

 アマーリエはテンのコートを脱いで、岩の斧に手渡した。

「これは、集めるのになかなか苦労する、テンの冬毛よ。私の一番のお気に入り!」

「儂に小動物の皮を纏え、と言うのか」

「動物の毛皮には、神秘が宿る。森と生命の力よ。何より、貴族たちが好む、高貴な者の証よ」

「ならば、大猪や熊の方が…」

「それは強さの証でもあるけれど、高位の貴族たちにはウケがよろしくないわ。蛮勇よりも深慮を尊ぶのよ。だから、警戒心が強くて捕らえるには難しい、テンや狐などが人気になるの。狐の頭部がついたマフラーには、狐よりも頭がいい、という意味がある」

「ふん。どうせ、罠で捕えるのだろうに…」

「罠を作るには、知恵がいるわ。設置場所も重要だし。少なくも、力技でないことだけは、確かでしょ」

「ふむ…そういうもんかの」

 ようやく、岩の斧はコートを受け取った。

「儂には…ちと長くないか?」

「高価な毛皮の裾を地面に擦らせる、と言うのも羽振りのいい証だわ。でも、気が進まないなら、裾を短くして、余った部分で帽子を作るといいわ。アンサンブルのセットアイテムとしては、上出来よ」

 太い眉の下から、アマーリエを見上げながら、岩の斧はもごもごと髭を動かした。

「友好の印として、プレゼントするわ。これを着て交渉をすれば、きっと相手の態度も違ってくるはず。少なくとも、そのボロ雑巾よりも」

 アマーリエはミュラーに強く突かれて、よろめいた。

「有り難く、頂戴し…」

「ねぇ、着て見せて頂戴」

「いや、丈を詰めねば、みっともなかろう」

「大丈夫っ、ちょっと当てて見るだけでいいから、お願いよ」

 渋々と、岩の斧は、ボロの上からテンの毛皮を纏った。裾丈は、半分近く余っている。

「ほれ、みろ。やはり…」

「素敵じゃないっ!」

 アマーリエの明るい声が、地下空洞に児玉した。

 ミュラーには十年ぶりに聴く、子どものようなあどけなさのある、アマーリエの声だった。

「そ、そうか…の?」

 家臣たちに意見を求めると、彼らも空気を読んでうんうん、と頷いた。

「…ほほぉぃ。そうかのぉ」

「見違える。やっぱり、元がいいと引き立つわね…うん。威厳がすごい、すご威厳だわ」

 アマーリエはわざと小声で囁いた。

 ミュラーは心の中で、毒づく。

 やりすぎだ…。

「では、商談の続きね!」

 パンと手を叩いたアマーリエに、岩の斧は観念したように、白い息をふぅーと吐いた。

 

 商談を成立させた後、岩の斧はアマーリエたちを晩餐に招いた。

 なぜか、アマーリエは岩の斧に好感を抱き、岩の斧の方も、まんざらでは無いご様子。地底湖で養殖していると言う爬虫類の肉を、濃い味付けでカブと共に煮込んだ料理は、一口食べる事に酒がよく進んだ。

 篝火の灯りに照らされ、軽い口喧嘩と笑い声に満たされた、団欒のひとときを騎士たちは堪能した。

 晩餐が終わる頃には、岩の斧はアマーリエをすっかり気に入ったらしく、別れの折に握り合った手を、なかなか離さなかった。

「久方ぶりに、お主のような威勢の良い女性と語らえたわい」

 酒が効いたのか、丸い鼻の頭を赤くして、岩の斧はにこりと微笑む。

「ドワーフにも、女性はいる、と聞いた事があるわよ」

 アマーリエはぐるりと周囲を見渡すが、全て男のように見える…という話は黙っておいた。

「そりゃ、いるわ。ご覧の通りにな。しかし、我らの愛しい女性たちは、総じて口下手でな。お主らのような人間族とは、まったく真逆なのじゃ」

 アマーリエの脳裏には、奥方から叱られ、必死に言葉を尽くして弁明する岩の斧の姿が容易く想像できたが、どうやら実際には起こり得ない事態のようだ。

 今まで大人しくしていたアッシュが、恐縮しながら発言の許可を求めて来た。

 場が和むのを待ち侘びていた節を感じ、アマーリエは岩の斧に彼を紹介する。

「以後、どうぞお見知りおきを。時に、お尋ねしたかったことがございまして…あの、ハルトマンという者がとても興味を持っていたことで…」

 アマーリエの脳裏に、山の民の森の中で、不意に遭遇した黒騎士の姿がリフレインする。

「その…ミスリル銀、という金属は、こちらで練製されておりますでしょうか?」

 岩の斧は、長いまつ毛の下で、丸っこい目を大きく開いた。

 しばしの沈黙…そして、ドワーフたちが一斉に、笑い始めた。

「よくぞ、その名を知っておるな。感心したぞ。じゃが、その金属は、数多ある鉱石の中でも、別格のものじゃ。金よりも珍しく、青銅よりも厄介な代物。古代ならいざ知らず、今となっては…」

 アッシュは、がっかりしたようだ。

「そうですか…それほどまで貴重なのですね。できれば、一度、この目に拝んでみたかったですが…不躾な質問に、親身にお応えいただき、光栄です。ありがとうございました」

「青年よ、何を申しておるのじゃ?ミスリル銀は、アッシュ殿ならば、始終目にしておろうに…ほれ、美しき主人が所持しておる」

 アインスクリンゲを見て、アッシュは両目を開く。

「灯台下暗しの思いです」

「今となっては、奇跡の産物じゃな」

 アマーリエは、岩の斧に尋ね返した。

「奇跡の産物…ですか?」

 岩の斧は、腕を組み、髭を撫で下ろした。

「うむ…まずもって希少な金属。誰も、その鉱脈を知らぬ。次に、特殊な精錬法。ドワーフが編み出したと言われる技術と、エルフのみが使えるという精霊術の秘技。さらに、魔剣を製造するとなれば、魔術師が秘匿するその特殊な魔力付与を持って、初めて完成する…と、まぁざっくりだが、儂は祖父からそのように教えられた。いくつもの奇跡が合わさってこそ、初めて完成するのが、ミスリル製品なのじゃよ」

 アッシュがボソリと言う。

「確か、ドワーフとエルフは…」

 岩の斧はそれを聞き漏らさずに、続きを答えた。

「左様、まさに油と水。手を携えて、同じ製品を生み出そうなど…古代人は変わり者よ」


 宿営地に帰還したアマーリエは、武具の支払いと受け取りの役を、イーサンとケルンに命じた。

 その二人に金を預け、出立を見送る時、三組の人馬が宿営地へと近づくのを認める。

「敵情偵察に出ていた、マクシム卿です。果敢にも、従者二人だけを共にお出かけでした」

 防御柵を警備する兵が、アマーリエに告げた。

 ジャン=ロベール・マクシムは、アマーリエに気がつくと、手を振って挨拶を送ってきた。

「斥候は出しているのに、心配性なこと…」

 アマーリエは、冷めた視線で、彼が通り過ぎるのを見つめた。


 辺境騎士団の次の目標は、クラーレンシュロス城の奪還。

 辺境とハロルド城市を繋ぐルートの安全確保と、前線基地の役割として、是が非にも成し遂げる必要性があった。

 だが、紋章官ロロ=ノアと、彼女の部下レオノールの姿は、忽然と消え失せたままであった。

 故郷を奪還する、いざその時になって、軍師役は失踪してしまったのだ。

 これからは、ミュラーがその代役を務めることになる。

 だが、アマーリエは決意した。

 自分が、自分一人で、自分の軍勢を先導しなければならない。

 その意気込みが、これからの自分には不可欠となる。

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