第2話 雪中行軍

 戦神アドルフィーナが守護する3月の中旬。

 アマーリエの軍勢二万は、凍てつく雪が吹き荒れる山の中にいた。

 視界を遮る吹雪に苦しめられながら、狭い山道を一列に進む軍列は、先頭から殿まで20kmにも及んだ。

 木材を積んだ荷馬車が、山道から滑り落ち、崖下で荒ぶる吹雪の中へと消えてゆく。

 アマーリエは雪が積もったフードを深く被り直し、顔に突き刺さる氷結の粒をしのぐ。まつ毛は凍り、気管は凍え、手足の感覚は麻痺していた。

 ただ、感情を殺して前に進む…。

 オレリアの山を、季節外れの大寒波が襲っていた。



 天然の要害に囲まれたグラスゴーには、荷馬車が通れる山道が3ルートあった。

 一つは、アマーリエたちが北上した辺境南部へ繋がる南ルート。もう一つは、山塊を降り湿地帯を抜ける東南ルート。最後に尾根伝いにアマーリエ地方へと進む西ルートだ。

 どのルートを選択するのか、アマーリエは辺境騎士団幹部たちを招集して、議論を重ねてきた。


 信義の守り手オスカーの守護する1月の月初。

 グラスゴーの街中は、新年の祭事で大賑わいだった。

 剣の神を祀るそれぞれの神殿が、趣向を凝らした輿を掲げ、通りを練り歩く。その輿の後には、司祭を先頭に白いフードを被った信者たちの列が続き、聖水と花を撒いて通りをくまなくお清めしてまわるのだ。

 冬の間は、農業をはじめ、交易船や行商人などの流通も減り、仕事が暇になる者が多い。新年の一週間は、市民たちが羽根を伸ばす事ができる貴重な休日となる。この日のために、仕事の合間を見つけては一年間、コツコツと創意工夫を凝らし準備をしてきた輿を、守護神へと捧げ、広く市民にお披露目できるこの祭りが、市民にとってかけがえの無い楽しみなのだ。


 ローズ、クレマチス、プリムラ、ビオラ、アネモネ…豊かな色彩が、普段は味気のない石畳を飾り、風に舞い上げられて雪のように踊り回る。

「まるで夢のよう…」

 アマーリエの瞳には、現実味が無い白昼夢の様に映った。

 幼い少女たちの一団が、清楚な白いドレスの裾をちょいと摘み、挨拶をしてから小走りに通り過ぎて行く。アマーリエは微笑みで、それに応えた。

 こうして、領主が一人で街の中を出歩ける治安の回復が、アナイスを打倒して以来、この四ヶ月の成果だと言える。今日ばかりは騎士たちも、役人たちも休みのため、こなす公務もない。一人、執務室に篭っても、指示を伝える相手がいないのだ。

 特にやる事がないので、こうして一人、護衛も付けずに街に出ている。

 しかし、退屈な時間は、苦手だった。


 新年の到来を祝う祭りの中で、アマーリエだけは別の気持ちでいた。

「長い冬が、やっと明ける…」

 出征準備のための、予算確保と数多の雑務に奔走しながらも、心中は焦り、苛立ちに耐えるので必死であった。

「…もう少しで、出征できる。あと一息…」

 年末に、アマーリエは故郷へ向けて使いを放っていた。

 その目的の一つは、アマーリエ地方の情報収集。

 そして、もう一つは、潜伏しているであろうクラーレンシュロス派の勢力へ向けて、アマーリエが反抗のため帰還する、という知らせを流布するためだ。

 ロロ=ノアには、相談しなかった。

 きっと、彼女は情報が敵に露見されれば、奇襲の優位性を失う、と言うだろうと考えたからだ。

 でも、アマーリエには父から授かった領民たちに…戦災で苦しみ、主人が逃げ出した絶望の淵に沈む彼らに、少しでも早く、希望の光を与えたい。そう願った。


 入れ違いに、辺境南部からの知らせが届いた。

 山の民との連合軍を指揮する、パンノニール伯ランメルトからの書簡だ。彼には、先の戦で両腕を失った、軍師デジレを同行させている。

 南部の空白地に住む民たちに恭順を誓わせ、現在は港湾都市を有する豪族である、フラム伯との同盟を前提に、交渉の場を重ねているという。また、威勢を示すために、砦の建設に取り掛かる旨、許諾を得たい、という内容であった。

 彼の所有する軍資金は、増産したアンオルフ銀貨だけのはずで、さまざまな貨幣が入り乱れ、為替が安定していない辺境において、それも特に南部で、どれほどの価値が担保されているのか、アマーリエには想像ができなかった。

 相当に頭を悩ましているに違いない、とだけは理解できる。

 アマーリエは許可の旨を返信した。


 練兵のローテーションと、武具の製造と購入の遅れが挽回できず、予定していた一万五千の兵士のうち、三千をこの街に残すことに決めた。これらはオレリア公領の市民兵であり、常備軍ではない。百人程度の当番以外は、通常の生活に戻ることになるため、彼らの練兵と武装は、おいおい、で構わなくなる。

 この地方の冬は少し短く、2月にもなれば、雪は消える。

 2月末を目処に、オレリア公領以外からも、続々と兵たちが集結する手筈だ。

 山の民たちから、五千の精兵。シュナイダー侯領から、三千の市民兵たち。

「軍馬が足らない」

 騎兵の調達は思うようにいかなかった。


 馬の産地は限られている。バヤール、パドヴァ、ロスティニュの三大平原がそれだが、グラスゴーからの直接的な通商ルートはない。バヤール平原は山脈を挟んで北に隣接しているにも関わらず、前オレリア公アナイスが、ハイランド王国との国交を断絶していたからだ。

 それに、金もかかる。

 金もかかるために、馬に慣れ親しんで育った者の数も、絶対数的に少ない。

 騎士の文化が浸透していない辺境において、騎兵の増強は難題だった。


「会戦は、避けないといけないかも…」

 一つの戦場に敵味方の一同が会し、一挙に勝敗を付けんと挑む会戦において、騎兵は両翼から相手を半包囲するための強力な機動戦力となる。逆に言えば、騎兵が少なければ、相手の半包囲戦術を阻止するにも苦しくなる。

「姫様、何を描いていらっしゃるの?」

 すみれ色のドレスを着た少女が、アマーリエに話しかけてきた。

 自分が、石畳の隅に溜まった砂の上に、ローズの枝で会戦の配置図を描いていたことに気づく。

 祭りの中で、こんな事をしているのは私だけだろう、と思った。

 アマーリエは、まだ4歳かそこらの少女に微笑みかけた。

「私だけが知る、秘密の魔法陣よ」

「魔法?姫様は騎士様なのでしょう?魔法も使えるの?すごい!その魔法は、どんなことが起こるの?」

「ふふ…この街の女の子たちが、みんな美人になるためのおまじないよ」

「わぁ、すごい、ありがとう!剣の姫様…いえ、剣と魔法の姫様!」

「みんなには、内緒なんだからね!」

 すごぉい!と叫びながら、少女は通りを走り去って行った。きっと、さっそく約束は反故にされ、母親か友だちにでも今の出来事を語るのだろう。

 一つ大きく伸びをして、首を左右にストレッチし、乾いた冬の空気を吸い…そして空を眺めた。

「神殿に、挨拶まわりでもすっか」

 仕事をするのが、一番だ。


 新年の一週間が終わると、通りに散り積もった花びらも綺麗に掃除され、いつもの日常が訪れる。そしてアマーリエにとっては、待ちに待った出兵に向けての最終調整が始まる時期となる。

 クリューニ男爵、ランゴバルト男爵の連合軍によって蹂躙された故郷を、いよいよ取り戻すのだ。


「オレリア公領の代官として、ミシェルを指名します。セヴリーヌには、グラスゴー大司教座。イネスには、グラスゴー城砦の城代を務めてもらいます」

 年明け最初の幹部会議において、アマーリエは口火を切った。

 新参騎士の抜擢に、古参たちは騒然としたが、誰よりも三姉妹本人たちが、真っ先に反論を述べる。

「身に余る光栄です。しかし、私たちは騎士であり、癒し手でもあります。是非とも、此度の戦に従軍いたしたく存じます」

 セヴリーヌが立ち上がると、姉妹たちもそれに倣う。

 間髪置かずに、ロロ=ノアが発言する。

「オレリア領は辺境において、最重要拠点となります。アナイスを排除したことによる興奮で、街は辺境騎士団に対し総じて好意的ですが、出兵計画には反感を持つ者も少なくないのが現実です。いつ、熱が冷めてしまうやも知れぬ、微妙な時期なのです。そこへ来て…」

 ロロ=ノアは、三姉妹の背後に進み寄りながら、話を続ける。

「総鎮守をアドルフィーナ神と改め、セヴリーヌ卿はその基盤構築に実に見事な業績を示しておいでです。この時点で、あなた方に席を立たれてしまっては、グラスゴーの民の心は揺れてしまいます。グラスゴーは、オレリア公領の中心地。ここは、断腸の思いで、どうかご着席ください」

 慇懃無礼に首を垂れる紋章官に、セヴリーヌは食い下がる。

「では…せめて、イネスだけでもお連れください。この娘の守護神はアドルフィーナ神ではありません。同じ神殿の業務には付けないですし、この娘の弓は、きっと…いえ、必ず、お役に立てるはずです」

 山の民との一戦において、全軍が注目する中、一矢で敵軍のバリスタを炎上させた業は、今でも兵士たちの間で語り草になっている。

 ミシェルが更に、畳み掛ける。

「この子は、まだ神官としては未熟で、その上、やんちゃが抜け切れておらず、この街に残しては力を持て余し、きっと騒動を起こします」

「姉様…」

 流石にバツが悪く、イネスが抗議する。

「どうか、お願いします」

 二人の姉は、共に頭を下げた。

 アマーリエは折れることにした。

「わかりました。イネス、貴方の弓の腕前に期待しています」

「ありがとうございます!きっと姉様たちの分まで、活躍してご覧にいれます!」

「ギレスブイグ卿と仲良くするのですよ」

「セヴ姉…諸兄の前で、そこまで子ども扱いしないでください」

 騎士たちが一斉に笑い出した。

 ギレスブイグはいつものように、さして意に介した様子もなく、腕組みをしたまま目を閉じ、ただ耳を傾けているのみだった。

「城代は、ミシェルが務めて頂戴。では、出立は予定通り二週間後です。アマーリエ地方への侵入ルートは、調査の結果、二つのうちのどちらとするかを今、ここで決めます。ロロ、お願い」

 壁に地図のタペストリーを掲げると、彼女による流暢な説明が始まる。


 ルートの情報源である、この街で冬を越した六人の行商人たちが、会議の場に呼ばれた。

 グラスゴーからアマーリエまで、荷車を引いて進めるルートは、ふたつのみ。

 ひとつは、古代人たちが拓いた通商ルートで、万年雪を冠するオレリア山を抜ける道。山頂付近に雪の大精霊が棲みついており、11月から1月までの間に目を覚まして、大雪を降らすと言う。山道の雪は、3月末までは残るが、降雪は1月末までには収まるらしい。商人たちによれば、多少難儀はするだろうが、踏破は可能だとのことだ。

 ふたつ目は、辺境の小民族たちが使う、低地のルート。元々は、オレリア公とシュナイダー侯との間で、開通された交易ルートなのだというが、両者間の交易が途絶えた今は、修繕も行われず、荒れ放題だと言う。そして、このルートは湿地帯を抜ける必要があった。

「寂れた道なのだろう。湿地帯には、蛮族が出るのではないか?」

 スタンリーの問いかけに、商人たちは答えた。

「小型のリザードマンたちや、小鬼の棲家となっているようで、安全とは言えません。大蛇のような魔物も出没します。ですが、軍列を襲うような真似は、しないかと…」

「確かに、重装歩兵の列を襲うような真似は、しないだろう。だが、軍列の中には、武装の乏しい輸送部隊や、酒保隊、仕事を求めて勝手についてくる放浪人どもまでいる。襲うとしたら、まず食糧だろう。荷車を沼に引き込まれたら、取り返す術はないぞ」

「沼は、まずいですな…」


 騎士たちは、“沼“という言葉に敏感だった。

 古今東西、湿地帯に入った騎士たちが、活路を見出せた例は乏しいのだ。


「道は、どうなっておる?土を盛っているのか?」

 ボードワンの問いかけに、商人は答える。

「そういう場所もございますが、ほとんどは、板を渡した桟橋のような作りです。はい。」

「なれば、補修しながら…という想定をした方が無難でしょうな」

 騎士たちは、ざわめいた。

「山はどうだ。オレリア山は、雪を被っておるのだろう。それほど高い山を、荷車を引いて進めるものなのか。どうも、俺には想像ができん」

 オラースが腕組みをして、商人に尋ねると、ジャン=ロベールが壁際から口を挟む。

「やはり、もう少し待つべきだ。今でも、決して多い人数ではない。これを滑落で失おうものなら…」

 アマーリエは声を荒らげた。

「春まで待った!もう、これ以上は待てないッ!」

 ジャン=ロベールが、降参、とばかりに両手を軽く上げた。

 スタンリーが彼を叱責する。

「その話は、すでに決着がついていよう。いつまでも、蒸し返すべきではないぞ」

 ジャン=ロベールは、アマーリエの視線を避けるように、壁にもたれかかって横を向いてしまった。

 商人が、間が悪そうに後頭部をさすりながら、説明を続ける。

「万年雪のある高さまでは登りません。道は、岩肌を掘削して、一定の道幅が保たれ、荷馬車の通行にも問題がございません。我らは、主にこちらのルートを使っておりますので、よく知っております。荷の重さにもよりますが、足腰の丈夫な馬が必要となります。最後の急勾配は、むしろ九十九折りのよく整備された道で、時間は要しますが難儀せずに済みましょう。しかし、途中の尾根を渡ってゆく道は、轍の摩耗がひどく、それに車輪を取られ、立ち往生や、悪くすれば滑落など…危険な難所が、いくつかございます」

 商人の語りには、自信を感じた。

「3月には、雪は溶けている、という話は間違いないのだろうな」

 オラースの声は大きく、荒っぽい。商人は汗を拭いながら、慎重に答えた。

「も、もちろん、日陰にはまだ多くの雪が残っておるでしょう。ですが、大勢で行かれるのです。除雪しながら進めば、問題ありません」



 荒ぶる風に乗って、氷混じりの雪が軍列を凍てつかせる。

 アマーリエの頬に突き刺さる風が、ほんの一瞬向きを変え、顔面に雪を受けた。だが、それも束の間のことで、すぐに吹雪は元の強度を取り戻して視界を奪う。

 踏み出した足が、膝まで雪に埋もれた。

「待て、アマーリエ!雪崩だ!進むな!」

 ミュラーが彼女の肩を抱いて、引き留めた。

「何人か、巻き込まれたぞ!雪を退けろ!」

 風向きの変化は、雪崩の風圧がもたらしたものだった。

 音もなく襲った雪崩は、アマーリエの眼前にいた数人の騎士、従者たちの姿を消し去っていた。彼らの悲鳴は雪に掻き消され、あるいは、それすら声にするいとまも無いまま、底知れぬ死地へと連れ去ったのだ。

「埋もれている者がいるかも知れない、急げ!」

 兵士たちに指示を出すミュラーは、腕の中でアマーリエの身体が重くなるのを感じた。

「おぃ、アマーリエ、しっかりしろ!起きろッ!アマーリエ!起きろッ!寝るな!」

 白一色の死の世界の中で、ミュラーはアマーリエを抱きながら叫んだ。


 アマーリエは、遠のく意識の中で、名を呼ぶミュラーの顔を見上げた。

 顔を近づけて必死に叫ぶ彼の声は、どこか遠くから聞こえる呼び声のようで、現実味がない。

 やがて、その声も薄れてゆく…。

「寒い…」

 アマーリエはつぶやいた。

 彼女は、ミュラーの頭上に浮遊する人影に気づく。

 強風だというのに、まるでそよ風を受けるかのようにゆらめく白い髪。

 吹雪の中だというのに、薄い羽衣を纏っただけの半裸の女性。

 どこまでも白い、純白の肌。

 すらりと伸びた、四肢。

 細く、美しい曲線の輪郭。

 長いまつ毛に縁取られた、切れ長のペリドッドのような若草色の瞳。

 肉厚の唇だけが、まるで血のように赤かった。

 その唇がふたつに開き、ぬめ光る舌を覗かせて…女はアマーリエに微笑みかけた。

 濃密なほどに淫美で、ひどく狡猾で、しかし、どこかあどけない笑み。

 雪に舞う女は、長く伸ばした爪を持つ、細く長い指先をアマーリエの頬へと伸ばした。

 その妖艶な美貌は、アマーリエに似ていた。


「…どういうわけだ?近衛と一緒にいたはずだろ、なぜ、誰も知らないんだ!」

 目を開けると、アマーリエは小さな天蓋の中にいた。

 外は未だに猛吹雪で、天蓋は今にも飛ばされそうに揺れている。

「目が覚めたか…休んでいろと言いたいが、そうも言えん状況だ」

 アマーリエの肩を抱いているのは、ボードワンだった。天蓋のすぐ外で、ミュラーが何者かに叫んでいる。

「誰が、いなくなったの…?」

 彼女の問いに、ボードワンは眉を顰めただけだった。

「それよりも、お前のことだ。奇跡で治療は施したが、一時凌ぎに過ぎん。本格的な対処は、吹雪を抜けてからでないとできん」

 今度は、アマーリエが眉を顰めた。

「休んではいられない。急いで下山するのだ」

 アマーリエは目にかかった髪を退けようと、手を伸ばし、それに気づいた。

 手首から先が、茶色の包帯で丸々と固められている。

「何、これ。ぬいぐるみじゃあるまいし…」

「油紙で包み、その上をオイルコットンで巻いた。アマーリエ、凍傷になっているのだ。できるだけ、手を使うな。動かしたり、触ってはならん」

 自分の両手をしばし見つめてから、身体を起こした。

「まるで、感覚がない…凍傷なら、お湯で…そっか、お湯が作れない?」

 ボードワンは首を振った。

「違うのだ。ギレスブイグなら、湯を沸かせもしよう。だが、一度温めた後に、また冷えることがあれば、凍傷はさらに悪化してしまう。だから、今はすぐにでも、この吹雪から抜け出さねばならぬのだ」

「解ったわ、行きましょう」

 アマーリエは即答した。

 天蓋は立ち上がれる高さも無く、ボードワンに身を支えられながら、外へと引き摺り出される。強風と冷たい雪が、アマーリエの顔面を襲い、銀色の髪を暴れさせた。

「誰が、いなくなったの!?」

 天蓋の外に出たアマーリエは、ミュラーの肩を掴んだ。

「これ、手を使うなと言うておろう!」

 ボードワンは手を引き剥がし、風に暴れる防寒具を苦労しながら彼女に着せた。

 ミュラーは、返答を渋った。

「誰なの!?答えて!」

「ロロ=ノアの姿が消えた…レオノールもだ」

 アマーリエの目が泳いだ。

「まさか…落ちたの…」

「アマーリエ、今は下山することだけを考えろ!歩くぞ、急げ!」

 ボードワンはアマーリエの腰を抱き、無理矢理に彼女を連れて歩き出した。

 アマーリエは、ボードワンの髭に覆われた頬に、力無く顔を寄せた。

「…どうしよう…これから、なのに…」

「お前さえいれば、何とかなる!気をしっかり持て!ここにおるのは、“お前の軍勢“なのだぞ!」

「私の…軍勢…」

 フラフラと揺れるアマーリエの身体を、ボードワンはしっかりと抱きしめながら、力強く雪を踏み締めた。今にも雪にかき消されそうな、その後ろ姿を、ミュラーが見つめる。

「僕は、君の側を離れない…僕だけは…何があろうと、決して」

 ミュラーの独り言は、吹雪の中に掻き消された。

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