第2杯 改め、偽悪家のニグム

「お前、名前は」


ニグムは煉瓦の階段を先導して降りながら、振り向きもせずに青年に話しかけた。


(名前も確かめずに雇用したのか......)

と、青年はまた呆れた。殺し屋だから当たり前なんだろうが、ニグムはぶっきらぼうで、無愛想で、取っ掛かりにくい。実際会ってから今までのこの短時間で既にそう感じていた。


「僕はシャーナだよ。薄暗いバーなんかに出回ってる、あの手垢まみれの古臭い紙に書いてあっただろ?」


ここら一帯の裏社会業界の求人、雇用方法は、紙を見て、手紙で連絡を取るしかない。とても表には出せない経歴の書かれた履歴書のようなものがバーやクラブなんかに出回っている。それを見る。


「シャーナぁ……? この国の名前じゃないな。お前外国生まれか? 偽名か? 俺は本名を聞いてるんだ」


ニグムは、青年___シャーナの言葉を遮ってそうまくしたてた。その語調や抑揚の付け方がまるで不快感を示しているように聞こえて、シャーナは勝手に会話を断念しそうになった。

それ以上に注意すべきことは、この雇用主は本当に、もう全く、あの紙を読んでいないようであるということだ。


「シャーナは本名! ああそうだよ僕はこの国生まれじゃないよ、わざわざ遠い場所から砂漠を越えてここまで来たってわけさ! 君に呼ばれたからね」

「……へぇ、そうか。なら紛らわしいから、苗字だけでも新しくつけてやる。……そうだな……」

「いやいらないよ! 僕にはモールンっていう素敵な苗字があるんだから!」


ニグムの方から、うーん...と微かに唸る声が聞こえた。苗字を考えているのだろうか。シャーナは正直混乱した。全く自分の意見が通らない。


それよりも、自分たちは今から仕事____殺しの仕事をしに行く予定なんじゃなかっただろうか。雇われた身として、一言くらい物申してもいいのでは無いだろうか。たとえ相手が名の通った殺し屋であろうと。


「……ニグム、その、苗字とか考えてる場合なのかなーって……。具体的な指示とか、仕事内容とか説明して欲しいんだけど……」

「俺に最初から全く敬語を使っていないところを見る限り、相当肝が据わってるとみた。緊張感なんかなくても十分仕事を全うできるように思えるんだがな」


シャーナの平たく響いた声に対して、皮肉めいたニグムの声色が塔の中で冷たく反響した。


シャーナは何も言い返せなくなった。(言い方は悪いが)心のどこかでニグムを軽視している部分があるのかもしれない。ニグムは自分より背が低く、威圧感はあるもののこうして結構言葉を交わしてくれる。想像の中の殺し屋、ジルコンと目の前のニグムとのギャップが、シャーナにとってはとてつもなく大きいものに感じられていた。


「最初こそビクビクしてそうだったが、俺にはもう慣れたか」

「……ほんとーにすいませんでした、ニグム……様?」

「いや、もういい。俺もあまり敬語を使われたことが無いからむず痒い」


だったら一体どうすればいいんだと思いつつ、シャーナは口を噤んだ。ニグムは今仕事内容について話す気は無いみたいだ。とりあえず習うより慣れろということか。

長い階段はまだ続く。


「思いついたぞ」

「は? ......あ、あぁ苗字! どういうやつ?」


少しの沈黙の後、ニグムが独り言のようにつぶやくのでボーッとしていたシャーナは危うく聞き逃すところだった。

いらないと言ってるのに付けられる苗字。本当に心底いらないのだが、ニグムのどこが怒りのツボなのかまだシャーナにはわからないため興味のありそうな声色でそう聞いた。


「タンヅィーフなんかどうだ。ナジュム・タンヅィーフ」


タンヅィーフ。「掃除屋」という意味だ。


「…………長く考えてた割にそのまま過ぎないか……?」

「文句言うな。わかりやすくていいだろ、シャーナ・タンヅィーフ?」

「あぁ、うん…そだね……」


(絶対この苗字いらないよ……シャーナ・タンヅィーフだって? 違う国の言葉でバラバラじゃないか、デリケートな仕事なのにこれじゃあ怪しまれまくりだろ!)


しかしもう何を言っても無駄だろう。それにもう少しで地面につくようだ。彼は毎日何往復もこの塔を昇り降りしているんだろうか? 大変だなぁなどと、シャーナは地上に近づくと共に蘇ってきた仕事への緊張から、一先ずどうでもいいことを考え始めた。


塔から地上に出ると、やはり周りには誰もいない。わずかな枯草の塊と、砂と塔から崩れたのであろう煉瓦が落ちているだけだった。さらにあたりは他の建物の陰になっており、改めて物々しい雰囲気を感じた。


「シャーナ、地上にいるときはこれを被れ」


ニグムが振り向いて彼と同じ黒いフード付きのローブを差し出した。


「いやいや、こんなに暑い気候の国なのに!? 君だけでいいんじゃないか?」

「逆だ。俺はもう顔を隠しても意味は無いんだが……面の割れてないお前が、顔を見られるのはあまり良くない」

「わかったよ……」


そのローブを受け取り身に纏う。やっぱり少し暑い。シャーナがちらりとニグムの顔を見ると、彼は涼しい顔でこちらを眺めていた。この蒸し暑さに慣れてるんだな。


「うん......悪くないぜ」


それだけ言って踵を返し、シャーナがこの塔へ来た道と反対の方向へ歩いて行った。


「おーい、なあ、君それ絶対思ってないだろ!」



しばらくの間、シャーナは賑やかな街中を、ニグムの後を黙ってついて歩いた。賑やかと言っても、彼らの周りに近寄る者はいなかったが。

シャーナは周りを見回してみた。老若男女問わず、ヒソヒソと声を潜めながら、こちらを見つめている人々の怪訝な顔がフードの中から見える景色の大半を占めていた。フードで見えない後ろの方は、緊張が解けた人々の明るい声で埋め尽くされている。


(このフードは、ジルコンの関係者だっていう証明になるのか)


それなら身分証明に便利じゃないか、とポジティブに考えることにした。


本来なら気さくで、明るく活気のある人々が暮らすこの国____バドル王国は、波紋のようにほぼ同心円状に広がっている。

宮殿を起点に何重にも重なる円状の道を、これまた宮殿から真っ直ぐ伸びた何本もの道が貫いている。バドル王国は三つのオアシスを領有していて、そのうちの一つは宮殿の北側に、もう一つは東南の方向に、残りの一つは西南方向にある。

この豊かな三つの水源によって、バドル王国は砂漠地帯にある国の中でも随一の発展をみせている。偉大な歴代王族の善政の元に、経済面はもちろん、情緒豊かな音楽、圧倒的な空想力を特徴とする文学作品達、蜃気楼をモチーフとした伝統舞踊……などの文化面でも発展は留まるところを知らない。

これらは世界でも賞賛され、全世界におけるエンターテイナー的立ち位置をこのバドル王国は担っていると言っても過言では無い。


しかしその文化の威光に隠れ、いわゆる、裏社会の人間____ジルコンなどの殺し屋や、反社会的な諸々の組織、汚職により私腹を肥やす様々な業界人などが比較的多くいるのもまた確かなことであった。皮肉にもそういった勢力がバドル王国の繁栄を促してきた部分もあるのだが……。


「おい、さっきから落ち着きがないな。キョロキョロするな」


家と家の間のかなり狭めな路地裏に入ったところで、ニグムはこちらを振り向きながら苦言を呈した。そんなにキョロキョロしてたつもりはなかったのだが。

しかしシャーナはいよいよ観光という名の現実逃避をやめて、本来の目的を思い出さざるを得なくなってきた。ニグムが腰に手を当てはじめたからだ。直接は見えないが、ニグムの左側のローブが彼の腕の形に沿ってもり上がっているので、恐らく刃物を抜く準備、または警戒をしているのだろう。ニグムは左利きだという情報だ。


そこでシャーナはふと疑問に思った。自分は掃除屋のはずだ。戦えるとはニグムに伝えていないのに、彼はどこまで自分を連れていくつもりなのだろう。しかし声を出せる雰囲気ではなかった。嫌な緊張感が漂っている。その路地裏は何を使って書いたのか分からない壁の落書きや、古い砂埃に支配されていた。そのまましばらく曲がりくねる狭い路地を黙って進んだ。


そしてとうとうある小さな扉の前で止まった。中が何の施設かは分からないが、ここが裏口であることは確かだった。


「いいか、この中に今回のターゲットを捕らえてる。俺がこれからそいつにトドメを指す。それが済んだら、お前の初仕事だ」

「あぁ......」

「ここからはニグムじゃなく、ジルコンと呼べ。さぁ、入るぞ」


一方的に仕事内容(しかもざっくりしすぎている)をまくし立てたと思うと、ニグムはすぐに左手で古い木の板でできた扉を開け、中へ入った。シャーナは彼の後に続いて、少し屈んでそれをくぐった。扉はニグムの背にピッタリで、まるで彼のために作られた裏口のようだった。


中の雰囲気は想像を絶するものだった。薄暗く、赤いランプの照明が明滅している。ざっと見回すと、入ってきてすぐ右には大量のビンの置かれた棚があり、目の前にはカウンターがあった。

カウンターの奥にはソファ席があったりと、どうやらここはバーのような、飲食系の店のようだ。


しかし内装よりも目を引いたのは、黙ったままの数人の人影だった。シャーナ達が入ってきた裏口はカウンターの内側だったようで、すぐそばにこの店の店主らしき大柄な人物が佇んでいた。奥の席には点々と俯いたままの人影がぼうっと赤黒い光の中に浮かび上がっている。


彼、または彼女らは全員ニグムのものと同じ黒いローブを身につけていた。凄まじい雰囲気にシャーナは呼吸を忘れる程だった。

ニグムはカウンターを出て、席と席の間を縫って進み、裏口から左手の壁の前で立ち止まった。シャーナも気味の悪い黒ローブの客達の様子を伺いながらニグムに続く。すると急にニグムが壁の前で声をあげた。


「『ゴールデンアップル』を一杯」

するとすぐに、何も無いはずの薄黒い壁が物々しい音を立てて開いた。シャーナは驚いたが、周りの客は何も反応しない。壁の奥はさらに暗く、入るのが躊躇われるほどだった。ニグムは構わずずんずん進んで行った。

といってもそこまでのスペースは無いようで、本当に少し進んだところで立ち止まった。シャーナはニグムと衝突したが彼は微動だにしなかった。

誰も衝突した、されたことに不平不満を言わなかった。


いきなり部屋に明かりがついた。さっきの店の赤黒い照明ではなく、明るく眩しい、白の照明だ。


その部屋は、何もかも白かった。アラベスク模様の絨毯、白塗りの壁、そして眩しすぎるほどの照明。目がくらみそうになったが、シャーナの目は部屋の中央に椅子に縛り付けられた人間を見つけた。

明かりがつくなりその人はバッと怖気付いた、鬼気迫る顔をこちらに向け、叫びだした。


「お、おい……! 頼む、後生だ! 俺には妻も子供もいるんだよ! 見逃してくれ〜!」


今叫んだ彼が今回のターゲットだ。ターゲットとして満点の、お決まりのセリフを叫んでいる彼にニグムは何も言わず近づいて行った。シャーナの鼓動が早まった。ニグムが歩くわずかな時間の間に、部屋の白に鮮血が飛び散る様を何度も何度も想像して、勝手に首筋に汗が滲む。

殺しの現場をこうもハッキリと見させられるとは思っていなかった。


「やめ……やめてくれ……」

「静かにしろ」


弱々しい男の声を遮りニグムの冷たい声が部屋に響いた。


「これから儀式を始める」


突然、シャーナの後ろの暗闇から音もなく、黒フードの人物が一人、ぬっと出てきた。自分の後ろをついてきていたのだ。全く気が付かなかった。

その人は手に、蜂蜜のような黄金の液体の入ったグラスを持っていた。それをニグムに手渡し、部屋の隅まで下がっていった。


「ラスコー・ニコラス。君は死に、そして今、この場で生まれ変わる」


ニグムはグラスを男の口元で傾け、あの黄金の液体を男に飲ませた。毒殺なのだろうか。シャーナは男の体にどのような変化があるのか、見たくもないのに目が離せなかった。

グラスの液体が無くなると、ニグムは改まった声でこう呟いた。


「お前に自由を与えよう、星のめぐりの許すままに」


そう言った途端、男の顔が濃い紺の煙に包まれた。その煙が晴れるのを見て、シャーナは驚愕した。


「か、顔が......」


男の顔は明らかに変わっていた。黒髪に茶色の瞳、腫れぼったい鼻だった彼は、少しくせのついた見事な茶髪に、青い瞳が輝く鼻筋の通った青年に変わっていた。


「今からお前は、ジョゼフ・ニール。このバドルを去るも、留まるもお前の……好きに……」


椅子に縛り付けられたままの男の顔を見ながら話すニグムの声は震え始め、とうとう言い終わる前に突然吹き出した。


「ハハハハハ! ジョゼフもうダメだ、お前なんて顔してんだよ」

「ぅおいっ!!! こっっっこまできたんだから最後まで真面目にやれよォ!!」


いきなりカラッとした明るい声で笑いだしたニグムに、ジョゼフと呼ばれた男は縛り付けられている椅子をガタガタ揺らして怒鳴りはじめた。


「あーあーもうちょっとだったのに何してんの! せっかくマスターが『どうせならサプライズっぽくしよう』って企画してたのに台無しじゃないのよ!」


ニグムに液体を渡した黒フードが横からヤジを飛ばした。声からして若い女性のようだった。

シャーナはこの一連の流れを何も理解できなかった。一瞬にして和気あいあいとした空気に変貌したこの空間に一人だけ置いていかれた。


「俺には無理だって言ったのに押し通したマスターが悪い。......シャーナ、まぁとりあえず、店内に戻ろう」

「え? え?」


椅子に座っていたジョゼフと、フードの女性はタタタッと暗い通路に消えバーの方に戻っていった。

シャーナもニグムに押しやられて先程の薄暗い店の中に戻った...と思ったら、バーに一歩踏み入れた途端目の前でパーンと何かが弾けた。


「うわ!!?」


シャーナは撃たれたのかと思ったが、血飛沫の代わりに舞っているのは紙吹雪だった。


「「「よーこそ、砂の国バドルへ〜〜!!」」」


ニコニコ顔の男女三人がシャーナに向かってそう叫んだ。


シャーナが祝われていると気付くのには少し時間を要した。ニグムが後ろで小さく、だが笑うようにため息をつくのが聞こえた。

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