禍取り線香
まくつ
禍取り線香
焦燥にじわじわと嬲られていた。
太陽がその姿を隠しても尚、容赦のない暑さに覆われた夏夜。ごった返す雑踏には人熱れが立ち込めていて息が詰まりそうになる。
七月もその幕引きを感じさせる三十日の午後八時。繁華街を歩く。世間はすっかり夏休みムードで街は人、人、人。誰もが楽しそうな顔をしているのを見ると腹が立つ。
もっとも高三で受験勉強をしないといけないのにこんな場所に来ている私が悪いのだが。
只の気晴らしだ。どこにいても勉強しろ、勉強しろって圧を感じるようで。耐えきれずに家から逃げ出してきた。
そうして馬鹿みたいに何も考えず繁華街に来た。が、失敗だった。
何かが変わるかも、なんて思っていたのが阿保らしい。元からこういう場所は好きじゃない。酒と煙草の臭いは何よりも嫌いだ。人の質も正直良いとは言い難いし。
夜の繁華街なんて女子高生が一人できて良い場所ではないね。
熱帯夜にはエアコンに頼りすぎたせいで暑さになれていないことを実感させられる。少し歩くだけで額にじっとりと脂汗が滲んだ。メイン通りから離れて少し静かな場所で一息つきたくなった。
衝動に任せ、気が向いた交差点で曲がった。メイン通りから一本しか外れていない昔ながらの商店街にはさっきまでの喧騒が嘘のような静寂が澄み渡っている。
人通りはまばらで、無いと言っても過言ではない。結局夜の街に飲み屋以外の需要など無い。
そんな道を特に意味もなく、ただ歩く。広めの間隔で設置された街灯はその足元を照らすだけ。暗闇の中ぽつぽつと照らしだされた空間を転々と渡っていく。
商店街の果ても近づき束の間の逃避行の終わりを意識し始めた時、ふと鼻が不思議な香りを捉えた。
その何とも言えぬ幻想的な匂いを辿る。やはりこれといった意味はなく、強いて言えばこの束の間の安寧が終わるのに耐えられないだけだった。
細い裏路地の奥、古ぼけた建物が視界に入ってきた。
古い木の大きな看板がかかった店。なんと書いてあるのかは分からないが右端に『堂』という漢字が掠れて残っている。なんちゃら堂、という店名なのだろう。看板だけでなく近世ヨーロッパを思わせる洋風な建物も相当の歴史を感じさせ、扉の横にはぼんやりと光るガス灯が据え付けられている。
本能、とでも言おうか。私は飛んで火に入る夏の虫のように扉を開いていた。
キィ、と気が軋む音と共に扉が開く。カラン、とドアに取り付けられているベルが心地良い音を響かせた。
どうやらレトロな雑貨屋のようだ。広いとは言い難いロココ調の空間には不思議な香りが立ち込めていて、見たことのないような素晴らしいアンティーク品が所狭しと陳列されている。丁寧に磨かれて埃一つ被っていない物もあれば、戸棚に乱雑に詰め込まれている物まで。
古そうなカンカン帽子から子洒落た椅子。螺鈿が煌めく漆塗りの懐中時計。数えきれないほどの物がひしめき合っているのに一つ一つが大粒の宝石のように美しく冴え渡っている。洗練された品々はどれも渇き切った私の心を満たしてくれるようで、思わす息を呑む。
「いらっしゃいませ。何をお求めですかな?」
不意に後ろから声がした。
慌てて振り返ると老人がいた。動きやすそうなデニム生地のエプロンを着て丸渕のアンティーク眼鏡。整えられた白い髭。年齢は七十過ぎくらいか。そこらの本屋の店主と変わらない格好なのに妙な気品を感じさせるその姿は老人と言うよりも老紳士か。
「おや、驚かせてしまいましたかな。私はこの店の店主をやっている者です。お嬢さんの望む物を必ずや見繕い致しましょう。何かご要望はありますかな?」
紳士的な物腰で老紳士はそう言った。不思議と落ち着く声だ。丁寧な態度ながらもその長い人生に裏打ちされた自信を感じる。
要望、、、要望か。突然言われるとなかなか難しい。志望校合格とか、お金とか、あるにはあるのだが。聞かれているのはそんな事じゃない気がする。なんというか、人生の悩みたいな。
焦れったい。ふと、そう頭に浮かんだ。嫌なことばっかりの人生だ。それを変えたくて努力しても何も変わらなかった。醜い存在はどれだけ煌びやかに飾っても、醜いことに変わりはないのだから。
それが焦れったくて、抜け出したくて。夜の街を歩いていたんだ。
「嫌なことを、なんとかできますか?」
で、結局これだ。いつまで経っても自分じゃ変われなくて、周りに責任を求める。それが私だ。自分がどうしようもなく嫌になる。
そんな醜い私の答えを聞いた老紳士は満足そうに微笑んだ。
「ふむ、難しいご要望ですな。承りました。ご心配なく、素晴らしいご要望ですぞ。少し待って下さい。ええと、確かこの辺りだったかな」
老紳士は雑多に散らかった棚を漁りだす。なにやら鈍い音や甲高い音が重なって狭い店内に響いた。
そうして老紳士が取り出したのは小さな桐の箱だった。両手に収まるかといったサイズの立方体。印字なんかはされていない。ただ白い紐で縛ってあるだけの箱だ。
「カトリセンコウで御座います。これならばきっとお嬢さんの悩みを消し去ってくれましょう」
「蚊取り線香?それって蚊を殺すやつじゃ、、、」
何をいっているんだこの人。蚊取り線香なんて周回遅れの道具、今どき焚いてるのなんて田舎のおばあちゃんくらいのものだ。
「いえ、
老紳士は紐を解いて箱を開く。螺旋に巻かれ白銀に煌めく線香が姿を現した。
常識を超えた幻のような美しさに息を呑む。周りの色を溶かし合わせたように淡い光を反射するその線香はどんな芸術作品にも引けを取らない輝きを放っていた。
一目惚れ。
財布の中身を見てみるとぴったり千円札が四枚。運命だ。
「買います」
線香の値段とは思えない金額を躊躇なく引っ張り出して老紳士に差し出す。彼はにっこりと笑って桐の箱を差し出してきた。トカゲの彫刻が入り錆びた年代物のライターと一緒に。
「お買い上げありがとう御座います。これはほんのサービスです。炎の精霊たるサラマンダーは聖なる火を司る存在。お嬢さんに幸運をもたらしてくれましょう」
「あ、ありがとうございます。それじゃあ」
「素敵な時間をお過ごしください」
私は温かい老紳士の見送りを背に店を出る。
桐の箱を抱えているのに、さっきまで私に重くのしかかっていた重圧は幾分かマシだ。夜道を歩く足取りは軽い。机に向かいっぱなしで体力が落ちているはずなのにあっという間に家までの三キロを歩き切っていた。
「遅かったわね。早くお風呂入って勉強しなさい」
「うん」
母の言葉を適当に聞き流す。いつもこれだ。こっちだって頑張ってるのにプレッシャーをかけてくる。
反論は無駄だ。黙って従って良い子でいれば衣食住と少しの贅沢は保証される。そう気づいてから、本音を親に言わなくなってどれだけ経っただろう。別に愛されていないとは思っちゃいない。でも、何でも打ち明けられる頼れる親なんて幻想に過ぎない。
右耳で捉えたお説教を左耳から放流して、無言で悪態をつきながら自分の部屋に逃げ込んだ。
何をするかなんて決まってる。焚くのだ。この『禍取り線香』を。慎重に箱から渦を巻く線香を取り出し、トカゲのライターで火をつけて、軽く振って炎を消す。不完全燃焼が始まり煙が立ち始めた。
パチパチと心地いい音が鳴り、線香花火みたいに七色の火花が舞った。花が咲き乱れたかのような得も言われぬ香りが部屋をたゆたう。線香は雑多に散らかった部屋の渾沌を飲み込んで冴えかかっていた。
時が止まった。五感全部に訴えかけても尚余りある情感にあてられていると、沸々と心の深奥から感情の濁流が溢れ出て来る。
衝動に任せて狂ったように布団に突っ伏して止め処なく感情を吐き出す。
辛い。嬉しい。好き。嫌い。哀しい。楽しい。長い時間をかけて詳らかに、胸を埋め尽くす全ての思いを。
清濁全てを呑み込んだ部屋は時が止まったかのようにシーンと静まり返っていた。さっきまで世界を鮮やかに彩っていた香は幻のように消えていて、桐の箱だけが『禍取り線香』がそこに確かに存在したことを示していた。
錆びついた感情を全て吐露して残ったのは晴れ渡った感覚。
全能感とでも言おうか。今の私は何でもできる。そんな気がする。
魔法だ。私を縛る『禍』が晴れたのだ。
そう思うと、さっきまで私を圧し潰していた焦燥は淡く爽やかな残り香に溶けて、開いた窓から宵闇に逃げていった。
頑張ってみよう。どんなにささやかでも、ちっぽけでも。そう思った。
◇ ◆ ◇
「さてさて、あのお嬢さんは上手くやっているでしょうか」
[CLOSED]の看板を掛けた狭い店内。カタン、とティーカップを置く甲高い音がこだまする。
「あの香、本当はリラックスの効果しかないと知ったらお嬢さんはどう思うでしょうかね。まあ、気が付くことなどあり得ませんが」
老紳士は可笑しそうに笑う。
本当は『禍取り線香』に災いを祓う効能などありはしないのだ。幻想的な見た目と桃源郷のような香りを漂わせるだけの品。しかし彼の綿密な計算と熟練の技にかかれば、ただの香りは魔法のような効能を発揮する。
不安を抱える高校生を導く事など造作もない。
「ちょっとしたきっかけがあるだけで、人という生き物は案外簡単に前を向けるものなのですよねぇ」
老紳士は腰を上げ鼻歌を刻みながら、上機嫌で香の調合を始める。
魔法と見紛う世にも不思議な香りは明日も明後日も迷える人々を誘う。
「さてさて、明日はどんなお客様が来るのやら」
ここは魔法の雑貨屋、夢幻堂。
またのお越しはお待ちしておりません。一度ご来店いただければ悩みなど消え去るのですから。
禍取り線香 まくつ @makutuMK2
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