恋バナに出た単語X

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【ヤドバシェム章】


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 ひなびた縁側で一人の老女が座椅子に座って庭を眺めていた。節くれだった手と深く皺の刻まれた顔からは、彼女がさぞ苦労してきたであろうことが見て取れる。彼女がどこを見るでもなく、羽織った藍色のどてらに白で縫われた蝶のごとく意識を彷徨わせていると、服の裾を引っ張る者に心を現へと引き戻された。


 振り返ってみれば、前歯の乳歯が抜けた少女が彼女の衣を掴んで立っている。


「ばあちゃん、なんか話きかせてよ」


「こら、よし子。すみません叔母様。しつけが行き届いていなくて」


 花粉症の花をすすりながらぼやっとした調子で喋る少女を、後ろから彼女の母親が襟首を掴んでたしなめる。


「ああ、いいよいいよ。私も暇してたしね。よし子ちゃん、どんな話が聞きたい?」


「んー、恋バナ」


「もう。本当にすみません」


 母親は平謝りだが、少女の方は良く言えば爛漫といった様子で老女を見ている。老女は少し悩んだ素振りを見せたが、座椅子に座り直すと穏やかな声で語り始めた。


 あれは私が二十歳になるかならないかの頃だから、もう五十年は前の話になるのかしら。あの頃は丁度女性の社会進出というのがもてはやされて、私も大学を出てから百貨店の裏方をやっていたの。今でこそ男女同権なんて言うけど、当時はまだ男社会の隅にお情けで座らせてもらっているようなものでね。嫌な上司もそれは多かったのだけれど、うちはほら、武家の家系だから何くそと発奮してバリバリに渡り合っていたものだったわ。


 当時の百貨店には展示場なんてのもあってね、ある日そこで金の展示をやることになったの。金といっても延べ棒を見せて終わりじゃないのよ?江戸時代の大判小判に、石川の金細工、イギリスのゴールドのブローチにアラブの金飾りと国内外からいろいろな細工を集めて見せる企画だった。外務省の肝いりだったんだから。


 その頃私は戦略立案室、今で言うプロダクトマネージャーみたいなことをしていてね。もちろんこの展示には一枚噛んでいたわ。ただやってることはプロダクトマネージャーとはいえ、当時は今みたいにしっかりとした分業はなくてねえ。私も渉外に出かけたものよ。その中でアラブの王子様とご一緒する機会があってね。金細工の貸出のお話をしたんだけど、その後の饗応の席ですごい話が飛び出したのよ。


 なんとね、その王子様国内がきな臭くなったからって日本への避難がてら来たんですって。さらっとそんな話をなさるんですから、ああ、住む世界の違う人ってこんな風なんだなあって思ったわ。それで、その王子様ともまあよろしくやりましょうということで私が対応係になったんだけど、その王子様がもう不良でねえ。


 ああ、不良と言っても盗んだバイクで走り出すとかそういうのじゃないの。まあそういう不良のほうがある意味可愛らしいかもしれないのだけれど、ムスリムなのに「豚を食べるなとは言われたが、飲むなとは言われなかった」なんて言って豚骨ラーメンは食べるし、逃げてきたくせにお大尽でクラブの払いを全部自分につけさせたり、見ていて危なっかしいったら。


 しかも、それで起きた問題は私が全部片付けて、王子様は後ろで見てるだけなのよ?なんど頭をひっぱたいてやろうかと思ったことか。実際にそんなことはできないのだけれど、もう小憎たらしくて小憎たらしくて。おまけにそんな苦労を報告しても一笑するだけで、ねぎらいの言葉なんてたまにしかくれない。


 正直なところ、当時は早くこの仕事を終わらせたくて仕方なかったわよ。


 ただまあ、だめな子ほど可愛いというか、お相手している間にどうも情が湧いちゃってね。その王子様も女癖だけは良かったから、惚れた晴れたというのじゃないのだけれど、できの悪い弟みたいな感覚かしらね。不敬なんだけれど、ともかくそんな気分だったわ。


 ところが展示も大盛況に終わってからしばらくして、その王子様とも縁も切れたと思った頃、急に訪ねてきたのよ、その王子様が。王子様はたいそう酔っ払っていらしてね。普段はお互いカタコトの英語で話していたんだけれど、その時はお国のアラビア語で早口でまくし立てていたわ。それでとにかく落ち着くまで待って英語で話を聞くと、政変でお兄様が亡くなったらしいとのことで、それはもう取り乱していらっしゃった。


 それからずっとアラビア語混じりの英語で泣き言を言ってたわ。それまで飄々とした悪ガキみたいな印象だったから、ついほだされちゃったのでしょうね。まあ、並々ならぬというか、そういう一晩の関係を持っちゃったのよ。


 それで次の朝、お互いに冷静になったのだけれどまあ気まずくてねえ。普段からバカみたいな冗談ばっかりで、昨晩も泣き言なりにずっと話してた王子様も朝はずっと気まずげに黙りこくって。それがなんだかおかしくて笑っちゃったら、王子様も心外だなんて顔をしたあとようやく笑みをお浮かべになられたわ。


 それでじゃあ家を出ましょうかというときに、王子様が多分お国のアラビア語でなにか言って、確か発音はこう、「アハタージュ・イレイカ」みたいな言葉だったかしら。何を言いたいのかは、王子様の真剣な目で解ったのだけど、結局解らないふりをして部屋から送り出したわ。


 それで王子様とはおしまい。


 子供だけは授かったけど、結局男の人には恵まれなくてこの年まで独身よ。まあコブ付きのキャリアウーマンなんて今でも人を選ぶんだもの。当時ならさもありなんよね。


 でもまあ彼への想いは恋と言うには淡すぎたけれど、息子のことはしっかり愛していたわ。


「これがおばあちゃんの恋バナよ。っと、寝ちゃってるわね」


「もう、この子は。本当にだめな子で」


「いいのいいの。そういう子のほうが却って可愛いわよ」


 話を聞いているうちに船を漕いでいた少女を、母親は困り顔で見て老女に詫びたが、老女はそれを笑って許す。座ったまま眠りに落ちた少女を横にして、毛布をかけながら母親は老女に気になったことを訪ねた。


「それでその、叔母様。そのアハタージュなにやらというのは、どういう意味だったんですか?」


 その言葉に老女は穏やかに笑う。


「さあ?」


「さあって、気にならなかったんですか?」


「そりゃあ気になったわよ。でも」


 老女は笑みをすまし顔に変える。


「あのときの彼の瞳があまりにも綺麗だったんだもの」


 その顔は隣でアルハンブラの王子と連れ立って、三日月を乳の川へと浮かべている少女によく似ていた。


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 一言:表記(أحتاج إليك)

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