明るい未来のUの話
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今を生きる者たちの曽祖父達が、私達に青い空を遺そうと声を上げたのも今は昔。都市の空は暗く陰り、その上に広がる宇宙との間にも無数のがらくたが浮かんでいる。人々は頭上の暗幕に慣れきり、いつの間にか空を仰ぐことを忘れていた。
しかし人間とはしぶといもので、空の代わりに地を眺める者達の営みは、確かに続いていた。
「重ね合わせに異常なし、訂正は今日も正常なり。重ね合わせに異常なし、 210万のQubitのご機嫌も麗しく。重ね合わせに異常なし」
熱ゆらぎを抑えるための冷媒を秘めた真空装置がその腹の中に隠しきれぬ冷気で呼び寄せた氷河期の演算室で、二人の男が紙とペンを手に作業をしていた。
「重ね合わせ、異常なし。重ね合わせ、異常なし。先輩、全数検査なんて今時流行らないっすよ」
「やかましい。手を動かすだけで飯の種になるんだから、それ以上グダグダぬかすんじゃない」
背の低い男が情けない声で訴えた言葉も、先輩と呼ばれた隣の男はすげなくあしらう。ただし彼らの表情は見て取れない。彼らの働く零細企業の量子コンピュータは熱シールディングが完璧でないため、冷媒によって作業環境の気温は 100 Kを下回ることもある。そのため、計算室での作業にはこれまた旧式の耐寒服の着用が義務付けられていた。
「重ね合わせ、異常なし。重ね合わせ、異常なし。腹減ったなあ」
「だったら早く終わらせろ」
背の低い男、おそらく若い男、は一つの筐体を検査するたびにぼやくが、先輩の方もそれに慣れきった様で無感情に答えるばかりである。やがて二人の男が筐体の列の終端までたどり着いたことで、この部屋の量子コンピュータの二割の検査が終了した。
「今日の検査はこれで終了。出るぞ」
その言葉に若い男は軽薄な笑みを浮かべながら、うっす、と先輩のあとに続く。そうして入った更衣室。男二人が着替えていたが、その様子は対象的である。先輩と呼ばれた男、疲れた顔の男は陰気な顔で黙々と服を脱ぎ着していたが、若い男は何が楽しいのか笑顔のまま、益体もないことを話し続けている。
「それで朝起きたら、女だと思ってたのにそいつこぉんな濃いヒゲが生えてまして。体の一部を作り込む前にもっとやっとくことがあるだろって、もうお互い大笑いですよ」
「そうか」
「でジェニファー、そいつの名前なんですけど、ジェニファーが言うには夜の蝶は夜だけ飛んでいれば良いからまずは羽を塗るとか言い出しまして」
「面白いな」
「そう。そいつ面白いんで、寝たのはあれっきりなんですけど友だちになっちゃったんですよ。それでジェニファーがサンドイッチに目玉焼きを挟むんですけど」
「お先に」
「ああ、待ってください先輩。このあと一緒に飯いきましょうよ飯」
疲れた顔の男はその言葉に何秒か考えたが、ああ、と頷くと更衣室脇のベンチに腰を下ろして天井を見上げた。 5年も前に建てられた中古物件だけあって、白い天井はくすみ壁紙も色褪せて見える。零細企業とはいえこれはひどいと男がため息を吐くと同時、若い男が更衣室から足を踏み出した。
「先輩スマイルですよスマイル」
その言葉に男は口元だけを釣り上げて見せるが、若い男はそれで満足したようで、人参を鼻先に吊るされた馬のように落ち着きのない様子で歩き出した。
男達がエレベーターで地上階まで上がってみると、開いた扉の眼の前を掃除用の四脚マシンが足早に通り過ぎていく。右を見てみれば物理メディアを満載した無限軌道のマシンが忙しなく暗号化された情報を配って歩き、左を見てみれば物資輸送用の宅配カーゴを無骨なロボットアームたちが受け渡し交換し合っている。天井を見てみれば社内便を積んだ小型ボックスが専用のレーンに吊り下がって行き来していた。
どの方向を見ても従業員達の構成物質はシリコンとプラスチックで、タンパク質製の男たちはひどく浮いて見える。しかし男たちはその光景に眉一つ動かすことなく外につながるチューブへと歩いていた。正確を期するならば若い男については眉と言わず顔のパーツ全てが発情期の兎のように目まぐるしく動きまわっていたが、それは更衣室での挙動と全く同じである。
男たちはチューブを通って大型のターミナルまで進むと、リニアトロッコに乗った。このことから男たちはかなり裕福な暮らしをしていることが見て取れる。他の客、もちろんシリコン製、はすし詰めのリニアトレインに乗っていたし、耐用年数間近なのであろう旧型のマシンは大型のカーゴのデッドスペースに備わった、風防も最低限の隙間に放り込まれていた。
個人用のリニアトロッコに乗ってレーンを進む男たちの間には更衣室と同じく若い男の声だけが絶え間なく響き、時折年配の男の相槌が挟まるだけである。
「しかし、昔の人の考えることはわからないっすよね」
「ああ」
「仕事なんて贅沢品なのに、昔は人類の半数以上が持ってて。それなのに、みんなそれを捨てたがっていたって話じゃないっすか」
「そうだな」
「俺も好きでこの仕事やってますけど、倍率1000倍はいってましたからね」
「好きでやってるならもう少し静かに仕事をしろ」
「いやあ、こればっかりは性分なもので」
それを聞いた男は鼻を鳴らすと、半透明の風防から外の景色を目で追った。高硬度プラスチックによって 1気圧の減圧にも耐える真空パイプは、 100年前、人類が景色を見て笑うことを忘れていなかった頃のレシピをそのまま使用しているため、外の景色を見ることができる。しかし灰色と黒鉄色、そして白と銀だけで構成された直線と直角の集合体は、彼に在りし日にあった談笑を再現させる事はできなかった。
若い男の言葉を男が右から左へと聞き流していると、男の懐から電子音がなった。懐に手を入れてみれば、携帯端末のタイマーアプリケーションからの通知である。
「あれ、先輩の世代ってもうがっつりインプラント世代っすよね」
「趣味だ」
「趣味なら仕方ないっすね。そうそう、趣味といえばローゼンバーグのやつがグルオベンケイムサシの世界チャンプを狙うとか言い出したんですよ」
「そうか」
タイマーの内容は錠剤を服用する時間の到来を示している。男は逆の懐から手の広サイズのボトルタイプケースを取り出すと、中から何種類かで一組になった錠剤のセットを丸呑みにした。が、そのタブレットの苦さに思わず眉間にシワが寄る。それを見た若い男が納得したような顔になった。
「そういえばDNAコーディング世代は外れてるんでしたっけ。便利っすよ、今度後天的改竄施術を受けたらどうっすか」
「やらん」
「コーディングのお陰でご覧の通りいつだってドーパミンどっばどばで楽しいっすよ。不安病なんて過去のもの。ワトソン博士に乾杯っすよ」
「その有り様だからだよ」
「こりゃ手厳しい」
男の暴言にもひるまず、自分自身にすら聞かせようとしない話を再開する若い男。それを背景に流しながら、苦みを飲み込んだ男は再び窓の外に視線を向けた。人間の社会に都会の野生動物が適応して生きていたように、電子知能の社会に人間は適応して生きている。しかし、都会の野生動物すらもすでにこの世にいないように、自分たちもいずれいなくなるのだろうか。
男はそんな不安に襲われ、今飲んだタブレットの製造プラントを管理する電子知能に文句を言うことを決めた。
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一言:そう、科学の力ならね。
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