あるQの残る話
【ガンパハ県】
【ワルワル事件】
【シャルジャ】
【八木山ベニーランド】
>【オオカミなんかこわくない】
>【シグルト】
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響いた声も帰ってこないほど深い森の中、オイズルは鹿の痕跡を慎重に追いかけていた。森の狩りを生業にする者にとって弓矢と手槍は欠かせないものであるが、オイズルはそのどちらも携えていない。わずかに黒曜石で作ったナイフとスリングを持つばかりである。それは彼がエッダに歌われる豪傑であるからではなく、彼が座るべき王座を弟に簒奪されたからであった。
オイズルは曽祖父の世代にイングランドへと渡ってきたデーン人である。偉大な祖先は結束と勇猛さで定住地を築き上げたが、それからたかだが二代後には血の結束を裏切るものが玉座についた。祖先の名につばを吐きかけた愚かな男を名誉なきヘルヘイムへと送るために、オイズルは生きのびなくてはならなかったのである。
しかし彼の行ってきた狩猟はウルに捧げるものであったから、弓矢のないその身で糧を得られるかと心に陰りが差した。その憂いに関わらず、オイズルの備えた戦士の肉体は音もなく僅かな痕跡を辿っている。そしてその時はふと訪れた。
影のように歩いていたオイズルの眼の前に、奥の木立からオスの鹿が顔を出したのだ。見つめ合うオイズルと鹿、十全な彼であればとっさに矢の狙いを定めるところだったが、その手元にはただスリングがあるのみ。それでも彼の魂は体に命じてそっと懐から礫を出し、スリングに乗せゆっくりと回し始める。
スリングが風を切る音を聞きとがめた鹿の耳が震え、その足はいつでも駆け出せるようにと力を溜めていたが、闘志をみなぎらせた瞳にはオイズルの姿が写っていた。そうしてどれほどの間見つめ合っていただろうか、早鐘を打つ鼓動が五十も打ち鳴らされるか鳴らされないかと言う時である。脇の茂みから影が飛び出したかと思うと、周囲の物陰の全てから同じように影が飛び出した。鹿が混乱してピィと鳴いたが早いか、影たちのうちの一つが鹿へと飛びかかり、地面へと引き倒す。
鹿の首元に牙を食い込ませたその影は月を追いかける者のごとき、銀の毛並みをした大きな狼だった。狼はチラリとオイズルを見たが、すぐに顎に力を込めで鹿の魂を月のごとく飲み込んでしまう。そして狼が口を開くと血と涎の混ざった粘液が鹿の魂を奪い返そうと狼の口元へ橋をかけたが、それもすぐに半ばで折れ、鹿の魂と肉体が完全に狼たちの物になったことを明らかにしていた。
オイズルはその僅かな間の出来事をあっけにとられて見ていたが、すぐに気を取り直すと腰のナイフの位置を触って確かめた。しかし、狼たちはオイズルの方をわずかに見るばかりで鹿の躯の下へと集まっていく。オイズルはとっさに腹を立てて一歩踏み出したが、その途端に十と降らぬ二対の金の瞳に見つめられてそれ以上動くことができなくなった。
オイズルが死への恐怖にくじけた不甲斐なさのもたらしたムスペルヘイムにも匹敵する胸の熱さを自らの使命を盾にして鎮めようとしていると、一匹の狼が彼へと近づいてきた。オイズルの魂は怖じけても彼の肉体は闘争への備えを欠かしておらず、反射的に腰を落としてナイフを引き抜くと身構える。その狼は鹿の命を飲み込んだあの銀色の狼であった。
狼は彼のナイフが届かぬ距離まで歩み寄ると、彼の周囲を大きく円を描いて回りながら彼を見定める。そして狼は興味を失ったようにそっぽを向くと、彼の群れの下に戻り彼らの言葉で何事かを言い交わしあい、素早く森の奥へと溶けて消えた。そうした後には狼に食い散らかされた鹿の残骸とオイズルが残ったが、狼達はさらに多くのものを残していった。それは、去り際にちらりと振り返った狼の瞳に映った、ナイフを構えた敗北者の姿である。オイズルは竜の肝を舐めたことはなかったが、その狼が言わんとすることだけは理解していた。その敗北者の顔はオイズルの顔をしていたからである。
オイズルはその姿を認めて叫び出したい感情に駆られたが、かすかに残った理性がそれを許さなかった。そしてオイズルは鹿の残骸へと亡者のように近寄ってナイフの刃をあてたが、その刃を引くことなく腰へと戻した。そして彼もまた深い森の中へと消えていく。その瞳はニヴルヘイムの氷のように全ての怒りを閉ざして冷たく光っていた。
これはとある兄殺しのデーン人が息子に語って聞かせた話である。
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一言:……イントロ?
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