いたって普通なNが目覚める話
【阿寒】
【新町】
《だいにつぽんとうきやうやきうくらぶ》
>【カタファジア】
【ジンク】
>【ユリワサビ】
================
私には苦手な先輩がいた。彼女は私が入社してから暫くの間教育担当として、しばらくお世話になった人だ。彼女は同性の目から見ても美しい人で、陰影のはっきりとした顔にスウッと一本の鼻筋が澄まして乗っている、今様の美人だ。顔の一つ一つの部品は研ぎ澄まされた印象で、それだけを見ると恐ろしさも感じそうだが、彼女は良く笑い表情も宙を舞う綿毛のようにコロコロと変わるので、とても親しみやすい。その分真面目な顔を作ると凛々しさが際立ち、男の人の中にはそこがまた良いという人もいた。
私も彼女には良くしてもらっていて、入社時の縁もあり時たま昼食を共にすることもある。それがなぜ苦手なのかと言えば、別に裏でイジメられているとかパワハラをされているというわけではない。本当に良い人で親しみやすいのだが、そこが苦手なのだ。
私は別に自分の容姿に不満があるわけではない。そりゃあ、もう少し鼻が高ければとか、胸のトップが何センチか上にあれば良いだとか、その程度の不満はあるが、別に卑下するほど悪い容姿ではないと思っているし十分満足している。性格だってうまく周囲とやれているし、中の悪い相手とも不倶戴天とまで険悪になることもないからそれで十分だ。普段の生活では全く満足に過ごしているのだが、先輩を前にする時だけはそうではない。
私がどんなに心から笑っても、先輩のように愛想は良くないし、私がどれほど心を尽くしても、先輩のように思いやりを持てはしない。私がどこまで着飾っても、先輩のように美しくはないし、私がどう思いを巡らせても、先輩のように洒脱な言葉は出てこない。私が全霊で仕事をしても、先輩よりも結果は出せないし、私が全ての心をつくしても、先輩より誰かを安らげることはないのだろう。
他山の石とは言うものだが、この劣等感が先輩の前にいると浮き彫りにされ、たまらなく自分が嫌になる。そしてそんな劣等感を感じてしまう自分をさらに嫌になってしまうのだ。これで先輩が優秀さを鼻にかけているようならばその程度の女と切り捨てることも出来ただろうが、本当に良い人で口紅の趣味が悪い以外はケチのつけようがない。だから、あの人のことがなんとなく苦手だった。
ところが、ある日のことである。
その先輩から終業後に飲みに誘われた。苦手とはいえお世話になっているし、自分の胸の内の薄汚さから目を背ければ是非にもお供したい誘いであるから、これまでもたまに飲みに行くことはあった。
「ごめんね、後輩さん。いきなり誘っちゃって」
「いいえ、ご馳走になります」
就業後、駅近くの居酒屋で乾杯後にまずは謝る先輩に、笑って答える。先輩はいつも飲み代を奢ってくれるし、飲むと言っても愚痴をいうでもなく、山の桜がきれいだっただのあそこのサンドイッチが美味しかっただの、世間話を酒で口の滑りを良くして喋くるように話をするので、気分良く飲める。しかし、この日は少し様子が異なった。
はじめのうちはいつも通りの世間話だったのだ。ところが、酒が進み互いに目元が怪しくなってきた時のことである。
「私、実は恋人がいたのよ」
あまり私的なことを話さない先輩が突然言い出したのにも驚いたのだが、さらに驚かされたのはそれに続いた言葉である。
「まあ捨てられちゃったんだけどね」
思わず聞き返してしまうが、先輩は熱燗をぐっと飲み干して目元を潤ませて言った。
「君には僕がいなくても大丈夫、なんですって。そんなわけないじゃないのね」
そこからは出てくるわ出てくるわ。泣き言と泣き言、その間に惚気話か思い出話。普段の親しみやすい先輩はどこにもおらず、アルコールに振り回されて管を巻く女性がうわ言のように恨み言を呟いていた。とはいえ、それになにか思うこともない。先輩も人間なのだ、泣き言を言うこともあるだろうし、今まさにそのタイミングなのだろう。先輩の醜態を見たところでいまささその評価が変わることは微塵もなかった。
やがて、話が一巡して付き合い出して二年目の思い出話しに戻ってきた頃。
「それで、あの人ったら蕎麦は山葵を麺に乗せて食べるんだとか言い出したは良いんだけど、分量を明らかに間違えちゃってね」
そこで唐突に言葉が止まる。
「先輩?」
「ごめん」
そう言うと、私が聞き返す間もなく顔を真っ青にしてお手洗いへと駆ていく先輩。あっけにとられる私を残してしばらくお手洗いにこもる先輩を待ちながら、一人思いふける。よほどその彼氏を愛していたんだなと思いながらも、なぜそれを自分に話そうとしたのかが解らない。ともあれ、これ以上は飲むこともなかろうと店員を呼んで会計を済ませることにした。
今日は私のおごりですよとなんとなくおかしな気持ちになりながら、先輩を待っていると顔が青いままの先輩がおぼつかない足取りでこちらへと戻って来る。
「さ、先輩。今日はもう帰りましょう」
「うん、ごめんね」
こころなしか言葉遣いの幼い先輩を支えながら店の外へと出ると、嘔吐した直後特有の冷えた肌が、初夏の夜特有の粘ついた熱気と比べて余計に冷たく感じた。
「ごめんね、ごめんねえ」
レコーダーのように繰り返す先輩を支えながらふと横を見ると、先輩の目の端から涙が一筋流れるのが見えた。誰に謝っているともわからないその言葉を聞き流していると、やがて他の単語も混ざるようになる。
「ごめんね。ごめんねえ。気づいてあげられなくてごめんねえ。ごめんね」
といった具合であったが、タクシー乗り場で車を待っている時に先輩が言った
「苦手なのに、ごめんねえ」
という言葉が、先輩を車に乗せてからもなんとなく耳に残った。おそらく私に向けたのではないであろうその言葉、けれどそれを言ったときの先輩の瞳が私の目をしっかり捉えていたからである。
耳の裏で時たま鳴るその音に渋い顔をしながら自宅に帰り、シャツを脱ぐと、肩に先輩の趣味の悪い口紅が移っているの気がついた。なんとなく匂いを嗅いでみると吐瀉物の酸っぱい匂いが鼻の中に広がり、思わず顔をしかめる。そこで、初めて臍下が熱くなっていることに気がついた。
何かを隠すように洗濯機へとシャツを叩き込んだが、洗剤をいれる段になって、なんとなくシャツを取り出して肩をマジマジと見つめる。先輩のことは変わらず苦手だ。苦手なのだが、このシャツは肩口を切り取って捨ててしまおう。何となくそう思うと同時、先輩の謝る声が聞こえ、股座がむず痒くなった。
================
一言:ユリワサビの花言葉は目覚めだそうです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます