Jの下での一幕

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【ミロシェビッチ】

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 今は昔、ある国の野に立つ菩提樹の下で、今まさに一人の瞑想する男が悟りの境地に達しようとしていた。男はかつて王家に生まれ、賢者からは世界の王になる者だといわれていた。しかし彼が今なろうとしているのは人の国の王ではない。生命としての至高を目指すもの達が目指すべき、手本としての王が生まれようとしていた。


 悟りを間近にして、彼の脳裏にはなおこれまでの人生が浮かんでは消えていく。


 王子としての彼に知恵を授けてくれた教師を言い負かしたときの憎しみの顔。


 人の身を儚み修行者になることを告げたときの父王の怒りの言葉。


 子を設けてなお自らが捨てていった、自らに嫁いだ哀れな妻の泣き崩れる姿。


 何もわからぬ身であっても父親を失うということを感じ取り無垢な声で泣く「障碍」と名付けた息子の声。


 修行のために入門しその真髄を三日で悟った後にそれぞれの師が決まってみせた絶望する様子。


 修行を続けても生の苦しみから逃れられぬ、川面で自らを見つめた自分自身の落胆する眼差し。

 それらが彼の瞼の裏に映っては消えていく。


 しかし、彼はその無数の光景の後ろに一つの光を見つけた。


 それは彼が最も偉大な師と仰ぐ自然が見せた姿、あるがままに生き、あるがままに死す生き物たちの姿だ。


 その姿が、彼に一つの教えを授けた。すなわち、人間が自然から生まれ、自然の一部で生きているという単純な事実だ。


 しかし、その単純さを自らの懊悩が覆い隠してしまっていたと気付かされたのである。


 そうしたとき、ふと思い出されたのは心についての洞察であった。


 この世にあるものを果たして自分はどのように感じているだろうか。目が見ているのだろうか、耳が聞いているのだろうか、鼻が嗅いでいるのだろうか。


 いや、そうではない。

 心が目を通して見ているのだ。

 心が耳の集めた音を聞いているのだ。

 心が鼻にまで漂う花の香りに喜ぶのだ。


 すべての形は心によって感じられ、心が千変万化するように心の感じる現実もまた変わりゆくのである。


 ならば、現実とはまた心に映り込んだ像であって、本来は形あるものですらない。


 心が静かでさえあれば、現実のなんと穏やかなことだろうか。


 自らをあれほど蝕んでいた苦痛、あるいは脳裏に浮かんでは消えていく後悔、あるいは未知から襲い来るものへの恐れ、その全てがいまは水面に立つさざなみに過ぎない。


 その境地に達したとき、男はいつの間にか悟りを得ようとする欲望を忘れ、そしてそのために悟りの境地へと達したのである。


 そのことを感じた男はゆっくりと目を開くと、空を見た。菩提樹越しに見たその雄大な空には鳥が舞い遊び、穏やかな風が流れ、視界の外からは水のかすかなせせらぎと小鳥の愛の歌が聞こえる。そして、それが全てであり、全てがそのようであったのだった。


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 今は昔、ある国の野に立つ菩提樹の下で、今まさに一人の瞑想する男が悟りの境地に達しようとしていた。男はかつて王家に生まれ、賢者からは世界の王になる者だといわれていた。しかし彼が今なろうとしているのは人の国の王ではない。生命としての至高を目指すもの達が目指すべき、手本としての王が生まれようとしていた。


 --「そんなものになってどうするのかねえ」--


 --ヘビを手に弄ぶ浅黒い男がそう言って男をあざ笑う。--


 --「偉大な王、なれば良いじゃないか。富、名声、色情、すべてお前のものだというのに、哀れな男だ」--


 --その言葉に応えて、三人の娘が嘲笑を菩提樹の下の男に向ける。--

 --娘たちは扇情的な衣服を身にまとい、菩提樹の影の外を無邪気に笑いながら追いかけ合ってあそんでいた。--

 --その蠱惑的な唇から漏れる言葉を耳にいれるだけで、男という男は彼女たちの足元にひれ伏すのだろう。--

 悟りを目前にして、彼の脳裏にはなおこれまでの人生が浮かんでは消えていく。

 --最も挑発的な顔をした娘が、男の座る菩提樹の後ろから顔を出して語りかけた。--


 --「あなただって、人を踏みにじってきたのでしょう。それが楽しかったのでしょう。なら、そうしなさいな。そうすることがあなたの幸せなのよ」--


 --その言葉に自らが傷つけた人の顔が思い浮かぶ。--

 王子としての彼に知恵を授けてくれた教師を言い負かしたときの憎しみの顔。

 --しかし、男は目を瞑ったまま答えた。--


 --「確かに、私は人を打ち負かすために言葉を使った。だが、それをするべきではなかったのだ」--


 --それを聞いた娘は不機嫌になり、男にがなりたてる。--


 --「ふん、なにがするべきではなかったよ。あなたは親に受けた恩を忘れて、自分がやりたいことを今だって続けている。本当は何一つ変わっちゃいないくせに」--


 --その言葉に、出家に際して父から投げつけられた言葉を思い起こした男は、後悔の念に苛まれる。--

 人の身を儚み修行者になることを告げたときの父王の怒りの言葉。

 --しかし、今から行おうとしていることが他の全てよりも重要であると確信を持っていたが故は、その言葉に眉一つ動かすことはしなかった。--

 --すると、挑発的な娘は怯んで後退り、菩提樹の影から踏み出してしまう。--

 --それと入れ替わるかのように、最も艶やかな肉体をした娘が男の前で踊りだす。--

 --娘は流れるように舞いながら、甘く溶かすような声で男に囁きかけた。--


 --「けれど、あなたを愛する人も居たのでしょう。その愛に溺れ、悦びを得たのでしょう。それを失うなんていけませんわ。愛こそが命に必要なものなのですのよ」--


 --その言葉に、自らが捨てた愛の姿を幻視する男。--

 子を設けてなお自らが捨てていった、自らに嫁いだ哀れな妻の泣き崩れる姿。

 --しかし、男は息も乱さずに答えた。--


 --「愛はあらゆるものが持つ。しかし、愛のために生きるものもいれば、愛のために死ぬものもいる。そのような愛がどうして命の本質になり得るだろうか」--


 --それを聞いた娘は不機嫌になり、男を責め立てる。--


 --「ああ、大層ご立派です事。けれど、そうでしょうね。あなたは愛によって命を与えたものに愛を与えなかったのですもの」--


 --その言葉に出家の障害とみなした自分の息子の声を思い出した男は、自らの残酷さをつきつけられる。--

 何もわからぬ身であっても父親を失うということを感じ取り無垢な声で泣く「障碍」と名付けた息子の声。

 --しかし、そのあまりに大きな泣き声ですらも、世の人々の苦しみの声に比べれば静か過ぎたが故に、男はその鼓動を早めることすらしなかった。--

 --すると、踊っていた娘はたたらを踏み、足をもつれさせて菩提樹の下から転がり出て地面を這う。--

 --それを見た最後の娘、最も豪華な衣装を着た娘が男の前に座り込み、穏やかに話しかけた。--


 --「あなたさまは、多くのものを持っていらっしゃる。それこそ、余人の計り知れぬほどのものを。それをどうして人の為に使わず、ましてや人を傷つけるために使うのですか」--


 --その言葉に、男は自らが修行として知恵を集める過程で行ってきたことを思い出した。--

 修行のために入門しその真髄を三日で悟った後にそれぞれの師が決まってみせた絶望する様子。

 --しかし、男は身じろぎもせずに答えた。--


 --「もしも、真に智慧を求めるのならば自らの無知を受け入れなくてはならない。故にこそ、智慧を求める過程では苦しみが生まれるのだ」--


 --それを聞いた娘は不機嫌になり、男を睨みつける。--


 --「ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。しかして、得られたものが無力なあなたさま。なんと哀れなお方でしょう」--


 --その言葉に今の自分が置かれている状態を認識させられた男。--

 修行を続けても生の苦しみから逃れられぬ、川面で自らを見つめた自分自身の落胆する眼差し。

 --しかし、その無力感すらも受け入れ、智慧へと近づくための思索の対象であるが故に、男はその呼吸を見出しもしなかった。--

 --すると、座っていた娘は勢いよく立ち上がり、憤怒の表情で菩提所の影から走り出る。--

 --それを見ていた浅黒い男がつまらぬと言いたげに鼻を鳴らした。--

 それらが彼の瞼の裏に映っては消えていく。

 --なおも瞑想を止めぬ男に、浅黒い男は菩提樹の影の外から語りかける。--


 --「お前は残酷なやつだ。お前に関わった者は皆、お前に裏切られた。その上、お前自身は自分が特別なことをやっていると思っているのだからな」--


 --その言葉に、男は思わず腕の筋肉を痙攣させた。自らの気付かぬ心の内を言い当てられたかの様に感じて、恥じらいを覚えたのである。--

 しかし、彼はその無数の光景の後ろに一つの光を見つけた。


 --「お前がやっていることは何にもならない。仮に悟ったとて、千年も経てばお前の気付きなどたやすく捻じ曲げられるのさ」--


 それは彼が最も偉大な師と仰ぐ自然が見せた姿、あるがままに生き、あるがままに死す生き物たちの姿だ。

 --それは、形を変えながらも永い時を超えて続けられてきた営みの姿でもある。--

 --その営みは一切の悩みから開放され、残酷なまでにあるがままであった。--


 その姿が、彼に一つの教えを授けた。すなわち、人間が自然から生まれ、自然の一部で生きているという単純な事実だ。

 --男は目を瞑ったまま、まぶた越しに浅黒い男の瞳を見つめる。--

 --その見えない視線に浅黒い男はひるんだが、すぐに小馬鹿にした口調で問いかけた。--


 --「お前が何を言おうと、苦しみが途絶えることはない。それが人の選んだ営みということだ」--


 --「たとえそうだとしても、私が悟りの境地を諦める理由にはならない」--


 --男が穏やかに語りかけた言葉に浅黒い男は激昂したが、男はそれを受けても涼しい顔である。--

 --どんなに浅黒い男が恐ろしげなことをしても、男がすべきことはこの世の苦しみを受け入れる術を身につけるという、単純なことだけだからだ。--

 しかし、その単純さを自らの懊悩が覆い隠してしまっていたと気付かされたのである。


 --「何が理由だ。お前がどんな理由を掲げようが、残るのは結果。結果だけがお前を測る。お前が何を為してきて、何を為せるというのだ」--


 --その言葉に、男は心の臓がえぐられるかのような錯覚に陥った。--

 --浅黒い男の言葉は、男が悩み続けたことでもあったからである。--

 --心の底で淀んでいたものに触れた気がしたのだ。--

 そうしたとき、ふと思い出されたのは心についての洞察であった。


 --「おい、何をやっている。お前自身の行ってきた事と向き合ったらどうだ」--


 --男の纏う雰囲気が変化したことにい気がついた浅黒い男は慌て出した。--

 --浅黒い男の口からは牙が生え、吐息はヘビのようにささやきながら炎を混じらせる。--

 --しかし、その恐ろしげな姿を見ても男の興味は自らの心の働きに向いていた。--


 この世にあるものを果たして自分はどのように感じているだろうか。目が見ているのだろうか、耳が聞いているのだろうか、鼻が嗅いでいるのだろうか。


 --「お前が過去に向き合わないのならば、この石で打ち殺してやろう。お前がこれ以上苦しみを振りまかぬようにな」--


 --浅黒い男はもはや元の倍はあろうかという巨躯へと変貌しており、髪は燃え盛って爆ぜる音を立てている。--

 --その姿はあらゆるものが見て真っ先に悪魔と形容すべき姿であり、硫黄の匂いを漂わせて地獄を伴ってそこに立っていた。--

 --浅黒い男だった悪魔が身動ぎするたびに何百もの剣や槍や矢が男へと殺到するが、それらが男を傷つけることはない。--

 --その最中、男はふと気付きを得た。--


 --果たして、この光景は現実なのだろうか。--

 いや、そうではない。

 心が目を通して見ているのだ。

 心が耳の集めた音を聞いているのだ。

 心が鼻にまで漂う花の香りに喜ぶのだ。


 --悪魔ががなり立てている聞くのも汚らわしい言葉も、男には届かない。--

 すべての形は心によって感じられ、心が千変万化するように心の感じる現実もまた変わりゆくのである。


 ならば、現実とはまた心に映り込んだ像であって、本来は形あるものですらない。


 心が静かでさえあれば、現実のなんと穏やかなことだろうか。


 --そうして気がついたときには、悪魔の姿は影の欠片も残ってはいなかった。--


 自らをあれほど蝕んでいた苦痛、あるいは脳裏に浮かんでは消えていく後悔、あるいは未知から襲い来るものへの恐れ、その全てがいまは水面に立つさざなみに過ぎない。


 その境地に達したとき、男はいつの間にか悟りを得ようとする欲望を忘れ、そしてそのために悟りの境地へと達したのである。


 そのことを感じた男はゆっくりと目を開くと、空を見た。菩提樹越しに見たその雄大な空には鳥が舞い遊び、穏やかな風が流れ、視界の外からは水のかすかなせせらぎと小鳥の愛の歌が聞こえる。そして、それが全てであり、全てがそのようであったのだった。


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 一言:sed君が改行認識してくれなくて手動で整形しました。

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