少女の見たDの話
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『大きなウサギ穴にぴょんと入って。たちまち飛びこみアリスは後を追う、またもどってこられるかなんて、ちっとも考えもせずに。』(アリスはふしぎの国で, Lewis Carroll(著)大久保ゆう(訳), 青空文庫(No.57320))
そうして、その後。
アリスが無数の本棚に目もくれずに穴の底へと一直線に落ちていくと、そこには「A」の文字の上にたくさんの矢印が書かれた看板がやたらめったらに立てられていた。
「おかしいじゃない。台本だと、ここにはドアがいっぱいあるはずでしょ。なのに、矢印でいっぱいだなんて!」
アリスは怒ってもう大変。不思議なもの、わからないもの、素敵なものが大好きな女の子、けれど、不自然なもの、わらえないもの、杜撰なものは大っ嫌いな女の子がアリスだもの。それなのに、たくさんの看板は本当にてんでばらばらで、矢印だって好き勝手な方向を向いている。聞いていた話と違う上にこんな杜撰な仕事、これじゃアリスじゃなくたって笑えない。
アリスが肩を怒らせて腕を組む。ふくれっ面で部屋中をツカツカ、ツカツカ。まるでティーカップの中の時計みたいに歩いていると、後ろからニヤニヤ声がかけられた。
「おやおや、アリス。ずいぶんとイライラしているね」
それを聞いたアリスはもう怒ってたいへん。だってそこにはネコのない愛想が浮かんでいたんだもの。
「ちょっと、あなたの出番はもっと後のはずでしょ。それに、なによこのでたらめな看板は。看板っていうのは進む方向をお知らせするものでしょう。これじゃどっちに行ったら良いのかわからないじゃない」
「おや、そうかい。そう見えるかい」
「ええ、そうよ。試しに矢印を順番に手で辿ってみたけれど、てんでばらばら。なんの役にも立たないわ」
だいたい、とアリスは愛想に指を突きつける。
「あなたったらずっとネコがないままじゃない。ネコならネコらしくニャーニャー鳴けば良いし、そうじゃないなら愛想以外も見せたらどうなのよ」
そう言われた愛想はパッと消えて、文字通り一瞬でアリスの後ろに現れた。今度はネコ付き。
ネコはにたにた笑いながら「ニャーニャー」と鳴くと、また愛想笑いをしながら言った。
「順番、今順番って言ったね、アリス」
「ええ、そうよ。手前の矢印からはじめて、ひとつずつその先にある矢印を順番にたどっていって。そしたら天井に行き着いたり、床に行き着いたりだもの」
「その『順番』っていうのはなんなのかニャー」
きかれたアリスは胸を張って答えた。
「順番っていうのは自然なことよ。例えばパパとママから私が生まれるのが順番で、私からパパとママは生まれない。手を離したから卵が落ちるのが順番で、卵が落ちたから手を離したわけじゃない。過去から未来に進むのが順番ってことよ」
「過去、過去と未来、未来ね」
ネコはいつの間にか一つの看板の前に移動すると、看板の周りをゆっくりと、それこそ「誰が見ても」「ゆっくりと小回りでぐるりと一周」看板の周りを回ると、小馬鹿にして言うんだもの。その小憎たらしいことと言ったら。
「過去も未来も、どこにも書いてないじゃニャいか」
「当たり前じゃない。今は過去でも未来でもないし、未来だって今でも過去でもないもの。過去だって今は未来じゃないわ」
アリスが呆れて言うと、ネコは不思議そうに訪ねた。
「じゃあどうやって、過去から未来に矢印を追っていったんだい?」
「そんなの」
アリスは当たり前に、と続けようとしたけれど、そこでハタと止まってしまう。だって、どうやって辿っていったのか言葉で説明できなかったのだから。
言葉に詰まるアリスを見て、ネコはご満悦。最高に小憎たらしい顔でこう言った。
「愚かな子だ、愚かな子だねアリス。この矢印は全部いっしょの矢印。先に行っても行き先はぜんぶ同じの矢印さ」
なんですって、とアリスは怒り出す。愚かと言われたからというのもあったけれど、この矢印が全部同じだなんて!
「ネコ、あなたこそおかしいわ。だって、どの矢印もぜんぜん違う方向を向いてるじゃない。重ね合わせたって、全然重ならないわ!」
「そうやってそこに立ったままだから解らないのさアリス。ほら、試しに矢印のとおりに進んでご覧」
ネコが人に指図をするなんて!
「自然の法則」が乱れている気がしたけれど、よく考えれば家で飼っている猫のダイナだってミルクをもらえないと尻尾でアリスを叩く、それなら別に不思議もないか。アリスは納得して、手近な矢印の先へと歩き出す。すると、同じところに戻ってきてしまった。
「あら、この矢印は戻って来る矢印なのね」
「その矢印だけじゃない。他の矢印も試してご覧」
なんであなたにそんなことを。グチグチ言いながらも、他にやることもないのでアリスは別の矢印沿いに歩き出す。すると、また同じところに戻ってくる。
「すごい偶然。また同じだわ」
「本当に?」
ネコは愛想笑いのままアリスに問いかける。
「もう、なんだってのよ」
「良いから他の矢印をたどってご覧」
言われたとおりにアリスがぐるっと回ると、おかしなことに気がついた。けれど、信じられずにもう一周。すると、やっぱり気のせいじゃない。
「おかしいわ。同じところにぐるっと回ってきているはずなのに、矢印の向きが回ってる」
「そりゃあ、グルっと回ってきたんだ。矢印だって回るだろ」
「そんなはずないわ。だって、この矢印は看板に書かれた絵なのよ!」
「だから言っただろう」
いつの間にか、ネコは姿を消し、愛想だけが残っていた。
「矢印は全部同じ。誰かがちょっと回って見た矢印が全部ここにあるのさ」
「そんなの…… だって、おかしいわ」
「そういうもの、そういうものなのさ」
やがて、ネコに遅れて愛想も少しずつ消えていく。文字通り煙のように消えていくネコの愛想にアリスは慌てて声をかけた。
「ちょっと、解らないわよ。説明してちょうだい」
けれど、愛想は消え、もちろんネコも消えたまま。あんまりな状況にアリスの気も遠くなる。
と、そこでアリスの目が覚めた。手元には虫眼鏡。蟻の行列を見ているうちに、眠ってしまっていたみたい。
「ああ、また変な夢だったのね。でもまったくおかしいわ。夢を見たのは絶対に過去のことだもの。そうして、煙のように頭の中から消えてしまうんだわ」
口をとがらせるアリス、そんな彼女を呼ぶママの声。その声に見ていた夢のことはすっかり忘れ、アリスは起き上がって駆け足でママのところへと飛んでいった。
だから、これでこの話はおしまい。
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一言:「追跡」も忘れないように。
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