人伝に聞いたBの話

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 今は昔、ある夜のことである。男が田の中、あぜ道を急いでいた。現代となってはあぜ道と言えども街頭ぐらいは立ち、脇のぬかるみに足をはめるといったこともない。しかし男がこの道を通っている時代にはそんな気の利いたものはなく、手元の提灯の僅かな灯りが心もとない歩みの唯一の頼りだったのである。


 しかし、男の手に握られた提灯の貧相なこと。強風の一つでも吹けば真二つに割れてしまうのではないかと危ぶまれるほど年季の入った代物で、家の者が寝静まってから舌がニョロリと出てきても全く不思議ではないほどであった。事実、全く頼りにならないことに、風が一吹きすると破れ目から入った風が提灯の中の灯りを吹き消してしまったのである。


 男も慣れたもので、足を止めてため息を吐きながらマッチを取り出すと、提灯を畳んでかがみ込む。ところがである。いつもならばすぐに灯るはずの灯りだったが、マッチを何本と燃やし尽くしても暗いままであった。風の加減かと体の向きを変えては試す男だったが、一向に付く気配はない。やがて燃えさしが十もできるころ、男に声を掛ける者があった。


「もし」


 男が振り向くと、頭巾を被った女がいつの間にか後ろに立っていた。手元には紙のしっかりと貼られた提灯が下げられており、その僅かに揺らぐ灯りは頭巾から覗く艶めかしい顔をちろちろと照らしている。


「ああ、すみません。灯りが消えてしまって。どうも火が着かずに往生していたのですが、往来で申し訳ない」


 それを聞いた女はまあ、と萌黄色の袖で口元を上品に隠すと、見開いた目を気の毒そうに細めながら言った。


「それは大変でしたねえ。火を貸してさしあげたいのだけれど、あいにくこの提灯しか手元になくて」


「いや、結構。どうぞ、お先にお行きなさい」


 男が脇に避けながら言うと、女は軽く礼をしたが、はと立ち止まって振り向きざまに言った。


「近くに叔父の家がありますから、そこで火を借りるというのはどうでしょう」


 そんな、と言って恐縮する男だったが、ね、そうしましょうと言って童女のように笑う女。毒気を抜かれた男が頷くと、女は提灯を掲げて、こちらへ、と道を進み始めた。


 男が慌ててついていく先、女の手元の明かりがその顔を舐めるたびに陰影が艶かしく動き回り、女をことさら美しく見せた。それに見惚れながら男がついていくと、いつの間にか山の中である。はて、いつの間にこんなところに。さてはこの女はあやかしの類かと男が訝しみ始めた頃、ふと開けたところに出たかと思えば、小屋が煌々と光を放つ入口を備えて待っていた。


「今、叔父に話を通してきますからね」


 と言って中に入っていく女。それを見送って暫く待つと、女が入口から顔を出して手招きをする。誘いの通りに中へと入れば、土間向こうにには中央の囲炉裏と長持ちが一つに行李が二つ、それに茣蓙が引いてあるだけで、脇に隣室への障子戸があるだけの簡素な部屋である。その囲炉裏の脇に、熊のような大男が腰を据えていた。


「どうも、お嬢さんのご厚意に甘えて、火をいただければと参ったのですが」


 男がみなまで言う前に、大男が口を開く。


「姪から話は聞いた。火で難儀しているとのことだったが、馬鹿なことをしたな。この夜遅くでは、火があっても山歩きなどするものでないぞ」


 男が何を言おうかと迷っていると、大男は息を短く吐いて言った。


「仕方がないから、一晩泊めてやる」


「そんな、そこまでしていただいては」


「お前のためではない。山で人が失せたとなれば山狩が入る。それが煩わしいだけだ」


 男が恐縮して遠慮するが、大男は無愛想に言うと立ち上がる。なおも遠慮しようとしたが、大男の後ろに大ぶりの鉈が見えると、とたんに怖くなって口をつぐんだ。これは明日の朝日は拝めないかもしれないと男が心の中でわなないていると、女が申し訳無さそうに謝った。


「ごめんなさいね、そこまで気が回りませんで。叔父さん、無愛想だけど優しい方だから安心して。ね」


 その顔のあまりの情けなさに恐怖心もしなびた男は、はあと言って腰を下ろした。やがて、夕飯もごちそうになるというところで、大男と打ち解けた男は、世間話にと話題を振った。


「長い事こちらにいらっしゃるようですが、お歳はいかほどで」


「八十かそこらだ」


 それを聞いた男は仰天した。土間で夕飯をこしらえる大男はいかめしい顔こそしていたが、どう見ても五十過ぎにも見えなかったからである。


「それは、ずいぶんと若々しいですが、長生の秘訣は」


 男の問いに大男はちらりと後ろを振り返ると、無愛想に


「さてな」


 と言ったきりである。その突き放すような響きに男の気はすっかり萎えてしまい、それから食事を取り、床に付くまでずっと無言だった。


 やがて、男が横になって目をつぶっていると、女とその叔父が隣の部屋でなにか話しているのが聞こえる。耳を済ませるとはっきりとは聞こえないが、男のことを話題にしているようで、あんな男では、だの、若い男もたまには良い、だの、まるで山姥たちが言いそうなことを話していた。やはり食人鬼の類であったか、我が命運もここまでよと男が泣きそうになるのをこらえていると、大男の方が呟いた言葉が耳に入る。


「あの長持ちは開けさせないようにせんとな」


 女が同意しているのを聞いて、男は目を薄く開いて長持ちを見てみた。特に妙なところはないのだが、話に上げるほどであるから何かあるのだろう。そう思い、ゆっくりと寝返りを打ってみれば、障子戸はしまっており、女たちがこちらを気にする気配もない。


 そこで、男はゆっくりと立ち上がり、どうせ死ぬならと一思いに長持ちの蓋を跳ね上げた。すると、中から大量の蝶が雪崩のように飛び出したかと思えば、部屋中を飛び回り、やがて外へと一匹残らず逃げ出していった。男が呆然としていると、後ろから女の声が聞こえる。


「なんということをしてくれたのか」


 振り向けば、女が険しい顔で立っていた。


「あれは人から少しずつ貰い受けた寿命の変化。あと少しで念願かなったものを」


 そう言われて後ずさった男が長持ちにぶつかった拍子にそこを覗き見ると、しゃれこうべと目があった。男が悲鳴を上げて尻餅をつくと、女は滑るように男の元へと詰め寄り、身をすくめる男に気も止めず長持ちの蓋を閉める。


「旅の者から千年かけて集めた寿命もすべて逃げてしまった。他と同じに一年しかもらうつもりはなかったが、仕返し代わりに多めにいただくよ」


 そう言って、女が男の胸に手を這わせると、その手が胸板の奥へと沈み込んだ。いよいよ恐ろしくなった男は胸に感じる痛みと相まって、気が遠くなる。最後に見た女の顔は鬼女のごとく美しいものだった。


 そして、次の朝。カッコウの声で男が目を覚ますと、家の体をなしていたはずの小屋は朽ち果てた廃墟となっており、その中には灰の散った囲炉裏や腐り果てた行李が打ち捨てられていたが、ただ長持ちだけが初めから何もなかったかのように消え失せていたのだという。


 これは、ある老人が懐かしそうに語った話だ。


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 一言:老人は百二歳まで生きました。

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