ミラーボール(後)



 事実は小説よりも奇なりと彼は照れくさそうに頭を掻いた。




「本当に来てくれるとは」


 先生の大きな手が私の頭を撫でる。


「良かった、触れるんだね」

「うん。あったかい」


 先生のゴツゴツした手が大好きだった。その手が頬に触れる。もっと一緒にいたかったと思うのはきっと我儘が過ぎる。私は先生に会えただけで幸せだった。その為に生きてきて、伝えたかった思いもだいたいは告げることができた。


「お嫁さんにまでしてもらって」


 先生の顔に触れてみる。もともと白い肌は日に当たらないからか真っ白だった。薄く浮かぶシミですら愛おしい。無精髭がチクチクする。


「約束を破らせてしまってごめんなさい」

「るみちゃん」

 

 それなりには女性と交際したこともあった。ただ、母親の闘病を考えると介護を前提とした結婚なんてできない気がした。相手を信じ切れなかったこともあるかもしれない。そんなことを言っている間に四十も半分を過ぎた頃だ。母親を看取り、あとは自分の最期をどうしようかと思い始めた時に現れたのが彼女だった。眼鏡をかけて凛々しいスーツ姿に艶のある黒髪。睫毛が濃いのが印象的だった。落ち着いた、若い女性にしては低い声で話す。


 彼女は若いだけでなく、贔屓目を除いても美しい。優秀な上に明るく素直な性格をしている。それなのにとんでもないおっちょこちょいだった。誰が放っておけるというのか。悩んだ末、自分のような者には諦めるしか道は無いに違いなかった。きっと彼女には条件の良い若くて相応しい男が幾らでもいる。社会に出て働いたことの無い彼には劣等感も大いにあった。彼女の幸せを願おうと心に決めていた。かと言って見守るような度量も無い。どうしようか、そこが気掛かりだった。不器用なりに彼女を愛しているのだと気が付いた。

 

「俺の方こそ結婚なんて諦めてたのに、父親にまでならせてくれて」

「あの子たちは元気ですか?」

「うん。手に余るほど元気だ」


 彼女は二卵性の双子を産んだ。男の子と女の子だった。自分は天涯孤独にならずに済んだ。そんなことは問題ではない、彼女と子供達と過ごした時間は言葉には表せないような幸せなことだった。


 双子が五歳になろうかという時だ。彼女に限って目を離した隙など無かった筈だ。ただ、目撃者によると近くで車椅子の老人が困っていたようだったと聞いている。警察を介しての又聞きだ。


「ここで待っててね。絶対に何処へも行ってはダメ」


 そう言い残して双子に手を繋がせて場を離れた。ショッピングモールから帰るところだった。屋上の駐車場に車を停めていた。免許は大学卒業の直前に取得した。就職が決まった出版社で必須とのことで、大慌てで嫌々ながら教習所に通ったそうだ。


 車椅子の老人がエレベーターに向かう途中の通路で、階段側に寄ってしまっているのが駐車場から見えた。それを何とかしようと彼女は老人に駆け寄った。その日は雨だった。そうだ、彼女には水難のそうが出ていたっけ。傾きかけた車椅子を支えようとした彼女は階段に足を滑らせた。自分はそこにはいなかった。件のカメラマンの取り次いでくれた取材に応じていたのだ。


「お盆には帰って来てるの?」

「もちろんですよ。一緒に帰ってきてます」


 第三子を身籠っていた彼女は庇わなかった頭部を強打した。それがきっかけで二度と息を吹き返すことは無く永遠の眠りについた。


「ちゃんと迎えてくれてるじゃないですか。あ、これネタにしてくれて良いですよ」

「しないよ」

「子育てを押し付けてしまって申し訳ないです」


 彼女は頭を下げる。


「大丈夫だよ。義姉さんが協力してくれるから」


 確かに大変だった。大変だったなんてもんじゃないよ。物心がついていたこともありママに会いたいと子供達に泣かれでもすればこっちも泣きたくなった。俺だって会いたいよ。でも子供たちのことも大事で愛しい。命に替えても守らなくてはならないと思うのに、いい年をして自分は未熟でどこを向いても不安で仕方なかった。子供たちのことが可愛い分だけ、また失ってしまうようなことがあればと考えて怖くなってしまうこともある。彼女の存在がどれだけ頼もしかったことか。それを失って、どれだけ心細いことか。自分の身の回りのことすら全て彼女がやっていてくれていたのだという、当たり前になっていた幸せが身に染みたのも後になってからだ。




 伝えきれなかった感謝の気持ちが目から溢れてきてしまう。今までだって何百回ではきかないほど人知れず泣いただろう。


「君は若いままだ」


 二十代後半の美しい姿のままだった。それなのに子供たちも春には高校生になる。まだ二人でいた頃は、週末になると時々こんな風に彼女の会社帰りに待ち合わせをした。うんと昔に解散してしまったバンドのメンバーが出るアコースティックライブを聴きに行ったり、結婚してからはそのまま電車に乗って温泉に出かけることもあった。幸せだった。子供たちのことに必死でそんなことを思い出すことも無くなっていた。あんなに幸せだったのだ、思い出せと記憶が蘇る。今思い出さなくてどうする。


「るみちゃんが俺の人生に電気をけてくれたんだ」


 母親の生きている時に出会っていたかったと思ったこともあった。母親を安心させられたかもしれない。少しは子供たちのことも楽なのではないかと考えてしまう日もある。どうしようもないのに溜め息が出るし泣いてしまいそうになる。


「また会いましょう」


 彼女の手が頬に触れる。猫の手と笑った小さな手だ。俺を救って子供たちを泣き止ませて、最後に車椅子の老人を助けた魔法の手。ほんのりと光を帯びて透けているみたいに見える。


「わたし待ってますから。先生の孫とかに早まって生まれて来ないように、待ってる」

「君はおっちょこちょいだからな」


 彼女が鼻に皺を寄せて笑う。その顔がチャーミングで、いつまででも見ていたいのに視界がぼやけてくる。涙のせいなのかは判らない。


「またね、先生」

「るみちゃん」

「私、トモさんに会えたから幸せだった」


 懐かしい髪の匂いがする。「大事?」と何度も確認してきた日を思い出している。なんと答えたのか全部は思い出せない。照れてはぐらかしたこともあったと思う。でも大事だったことだけは間違いないから、それは憶えている。カメラマンの友人が撮ってくれた写真ばかり浮かんでくる。毎朝必ず見ているから目に焼き付いていた。純白のドレスになんか目もいかないような君の輝く人懐っこい笑顔。幸せにすると誓った日を。


「うん、ありがとう」


 それ以上は何も言えなかった。俺の方がそうだよとか、伝えたいことはあるのに時間が無いのは解っていたから。




「お父さん!」


 彼女と似た温もりが体当たりしてきて我に返った。二つ分の威力に吹っ飛ばされそうになりながら、なんとか軸足で持ちこたえる。気付けばライブハウスを出て駅に向かって歩いていた。



「こら、君たち何時だと思ってるんだ」


 そうだ、元はと言えばこの子らが話しているのを聞いたからだ。ミラーボールの回る日は云々というやつだ。同様に盗み聞きした、打ち合わせで使ったファーストフード店で女子生徒の会話を信じるも何も藁にもすがる思いでやって来た。一年近くも足繫く通う内にライブハウスが営業するのは決まって新月であることに気付いたり、他にも条件があるような気がしてきたのだ。



「お母さんに会えたの?」


 るみちゃんに会いに行くなんて二人には話していなかったのに、どうやら誤魔化せていなかったらしい。定期的に飲みに出かければ何か思うところはあったのかもしれない。彼女の子たちだ、察しが悪いわけがない。




「会えたよ」


 そう答えると何も言わずに2人が頷いた。俯いたと言う方が近いかもしれない。随分と健気な子にさせてしまった。娘の顔は残念ながら自分に似ていると思う。しかし性格は彼女にソックリだった。目に浮かべた涙になど気付いていませんとでも言いたげな気丈な眼差しで見上げてくる。その髪を撫でた。


「僕も会いたかった」


 泣くのを隠そうともしない息子の女々しさと気の弱さは自分にソックリだ。顔が彼女に似ているのは息子の方だった。抜け駆けしてしまった後ろめたさが込み上げて喉に詰まった。君たちだって会いたかったに決まっているのに。なんてことをしてしまったんだろう。そう思うのに後悔はしていない。



「また会おうって。君たちのこと気にかけていたよ」


 それからお盆には赤ちゃんを連れて帰ってきているなんて涙なしには語れなかった。結局ふたりの前で泣いてしまうのだったら一緒に連れて行けば良かったのだろうに。


「タクシーに乗ろうか。家に帰ってから話そう」

「明日は学校休んでも良い?」


 そんなことを口では言っても休んだりしないことを私は知っている。子供らを信用していたが、かといって無理をさせようとも思っていない。今日は特別な日だった。


「どうしても起きるのが難しかったらそうしなさい」

「「はい」」


 捕らわれたように見えるかもしれないけれど両腕に温かさを感じる幸せを噛み締めていた。君が作ってくれた幸せだ。コンビニでアイスでも買って帰ろうか、君の帰る場所を自分が生きている限りは守るって決めてるんだ。るみちゃん、だから心配しないで待っていてくれ。










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