ミラーボール(前)

 いびつな銀色の月がカラカラ回る。建物と一緒でだいぶ古いから、時折止まりそうになりながら覚束おぼつかない動きで回る。その佇まいは味があるとも言えた。彼はぬるい瓶ビールにありつけたことだけで幸いだったと思っている。新月の夜にしか開かないライブハウスはそのくらいひなびた店だった。


「何年か前に前説やってた芸人さん先月ここで見たよ。相変わらず面白かった」

「前説?」


 付き合ってくれた友人は眉をへの字にする。顔を傾けて左耳をこっちへ向けているのは雑音のせいだけではない。友人は片耳がよく聞こえないのだ。言葉が脳に達するとすぐに思い出したようで「ああ」と首を縦に振る。 


「ああ、山本くんとこの劇団のね?」

「そうそう。下北に見に行った」

 

 先日ここでも漫才をやっていたのを見たのだ。煌くミラーボールが回り彼らをその日の主役かのように照らしていた。そのことを話すと友人は困ったような顔をした。


「あの二人解散したんだって」

「へえ、いつ?もったいない」

「結構経つよ」


 あんなに息がぴったりだったのに。あの夜をきっかけにまた再開でもすれば良いのになどと無責任に考えてしまう。そうなれば自分はなかなかの瞬間に立ち会えたのではないか。あの手を取り合っての双方の男泣きは胸に迫るものがあった。


「―――――なあ先生、飲み過ぎてなかったか?」

「そんな筈ないよ。ギネス一本だけだ」


 ドリンクを買うのに並ぼうとすると人の足を踏んでしまうほどライブハウスは狭い。ワンドリンク制だった為ファーストドリンクだけは購入はしたが、その後は買いに行く気なんかしなかったのだ。


「解散っていうかさ、死別したんだ」

「え、」

「あの下北の後すぐ亡くなってるんだよ。眼鏡の方」


 どっちも眼鏡をかけていただなんて指摘するのは意味が無いことのように思えた。無粋だとか野暮という話ではなかった。きっと彼が問題に思っているのはそんなところではないだろう。


「マジかよ」

「マジなんだよ」





*******************




 ファーストフード店はテスト期間の学生で賑わっている。女子高生が短いスカートから伸びた足を椅子の下で組んで、革靴に包まれた爪先をぶらぶら揺らしていた。


「ダンスホールの噂知ってる?」

「あの潰れたとこ?」

「そう」


 ダンスホールなんて呼ばれる場所はもう残っていない。今は古い地主が買い取って経営している税金対策のライブハウスがあるだけだった。場所代が安いので演者側にとっては都合が良いらしく出演者が途切れている様子は無い。


「聞いたことあるかも」


 髪の短い方が答えた。二人とも頭を寄せ合うようにテーブルに肘を突いている。

 確かミラーボールが当時のままで今でも残っているそうだった。かつて数々のバンドや歌い手たちを照らした鏡の玉だ。今でもクルクル回っているのだとか、だから何だという感想しか出てこない。


「それそれ」


 フライドポテトを摘まむ指先は透明のマニュキアが塗られているのか動かすたびに照明を反射させてピカピカ光る。彼のボキャブラリーに“ラメ”というストックは無い。


「ミラーボールが回ってる日には死んだ人に会えるんだって」

「なんだそれ」



 なんだそれ。彼も心の中で呟いた。まるで田舎の言い伝えじゃないか。小学校の頃に住んでいた町にも似たような噂があった。風習と言った方が良いのかもしれない。正確には覚えていないが、山に登って何だかを探すのだ。その間誰も口を聞いてはならない、だったか。




 彼は二十年以上も前から売れない小説家だった。売れないと言ってもアニメや映画にならないというだけで、映像にするには難しい非現実的な世界観が読者からは人気がある。

 彼女が出版社への就職を望んだのも彼に会いたいが為だった。その一心で有名難関大学の文学部に進んだ。


 初めて彼の著書を読んだのは中学生の頃だ。夏休みの終わりに読書感想文を書く為の本を探していた。他の問題集だの自由研究だのは早々に済んでいるのだが、どうしても読書感想文だけは苦手で毎年最後まで手が付けられずにいた。

 出向いた本屋の隅で平積みされていた彼の文庫本が目に入り、夜空の色と金魚の赤いカバーが好みだったので購入した。名前も知らぬ作家だった。


 当時はインターネットなんて無かったから、彼女の知る彼は生年月日と、作者紹介の写真の顔だけだ。整えられていない太い眉とキュッと締めた口角。カメラを睨む視線からも緊張感が伝わってくる。精悍な顔立ちに実直さを感じた。新聞を見ていて偶然ラジオ出演するのを知った日は二時間も前からドキドキしながらラジオの前に正座した。浮ついたところのない声と穏やかな話し方を聴いて以来、彼は彼女の「理想の人」になった。

 

「遠藤先生は天才ですよ」


 彼女がどうしても伝えたい言葉だった。その為に一心不乱に頑張って勉強をして大学に入って就職をした。人生をかけた夢が叶った瞬間の彼女は眩い笑顔を浮かべていた。


「先生の書く御伽おとぎ話が大好きなんです」


 それが無ければどうやって生きて来られただろう。そんな風に言われて、彼女から慕われることには嬉しくも、困惑する気持ちが大きかった。


「今はこうだけどさ、年を取って俺がボケたりしたらどうするの?」


 いつだったか、とても困惑した様子で彼は言った。自分は二十歳も年上で君は若い。彼女は少し考えてから静かに答えた。


「そんなもんツッコむしかないじゃないですか」

 

 彼は大笑いをした後で結婚しようと言ってくれた。好きだった芸人の言葉だったが、それは内緒。それまで生きてきて、これほど幸せだったことは無いんじゃないか。そう思っていたのに、彼女にとっての結婚生活はもっと幸せが次々と舞い込む。

それは日々更新された。



「るみちゃんが良いならいいよ」


 それが彼の口癖であったし本心でもあった。彼女の望むことならば何でもしてあげたいし喜ぶ顔を見たいと思っていた。しかし彼女は、彼の考える若い女性のそれとは違って質素とまではいかないが慎ましい生活を望んだ。たまに会社が連休にでもなれば温泉へ行くのが一番の贅沢だと考えている。奮発してブランドのバッグや指輪をプレゼントすれば目をキラキラさせて喜んだが、自分から欲しがることは一度も無い。彼は自分にそういったセンスがあるとは思えなかったので、何か欲しいものはないかと聞いても答えは一つだった。


「だったら、美味しいものでも一緒に食べに行きましょう」


 彼女の作ってくれる料理は美味しくて満足だったのに、それを口に出して言ってしまえばケチ臭いだとか家事を強要していると思わせてしまうことにも怯えていた。何かのきっかけで彼女の心が自分から離れてしまうことを彼は常に恐れていた。それもあって彼女の提案する通り二人で出かけ、彼女の言うように美味しいものを食べに行く。それでも彼女の作ってくれる味噌汁が一番好きだった。彼にとってはソウルフードとなっていた。


 彼女と出会って文字しかなかった自分の人生に光が差したのだ。色づいたと言うべきなのか、とにかく世界が明るくなった。子供を授かったと聞かされた日のことを彼は忘れられない。体調が悪くて珍しく会社を早退したとメールが入ったのは出会ってから二年目、結婚してから一年半が経った頃だった。


 彼は打ち合わせで都内に出かけていて、その後の予定を決めかねていた。食事でもどうかと誘われていたし、彼女も行ってくれば良いと言ってくれていた。せっかくなので彼もそうするつもりではいた。相手は人づきあいの苦手な彼にとっては胸襟を開いて話せる数少ない仕事仲間である。相手に迷惑でなければ友人と呼んでも差し支えない同世代の男性だ。


 事情を話すと相手は快く「じゃあ、また次回」と答えてくれた。少しニヤついていたことに遠藤は気が付かない。仕事相手の彼はカメラマンをしながら経営者でもあって、自宅に帰るのも一カ月に一度あるかどうかという忙しさである。そんな過労から難聴を患っていた。


「俺も久しぶりに帰ってみるよ、せっかくだから」

「すまんね」


 慌てて帰ると家の中に熱気が充満していた。クーラーも付けずに窓を開け放った部屋に、ぐったりと横たわる彼女の姿があった。傍によってみると顔色は蒼白で指先は冷たい。呼吸の音が聞こえなければ即座に救急車を呼んでいたと今でも思う。ほっとして頬に触れると目が半分開かれた。寝ていたわけではないようだ。気分の悪い時に話しかけるのも忍びなく、水でも汲んで来ようかと立ち上がろうとすると彼女が腕を引っ張った。


「大事?」


 そう聞こえた。声は掠れていたし小さかったが確かにそう聞こえた。もしかしたら「大丈夫?」と言ったのかとも一瞬だけ考えたけれど。


「大事だよ。当たり前だろ」


 俺を信用できないのか。いや、できないよね。君に誇れるものなんて何も無い。


「赤ちゃんいる」


 いつか寒い夜に二人で飲んで帰った時、彼の天然パーマが暖かそうだから中に入らせて欲しいと彼女が騒いだことがあるのを思い出していた。



「そんなことあったっけ?」

「あったよ。会社の飲み会から帰って来て」

「あ、あったかも」



 彼女も思い出した。なんだか小鳥になったようなつもりで、入ってみたのを想像したら暖かくて柔らかくて心地いい気がしたのだ。試しに手を突っ込んでみたら想像通りだった。



「先生の頭の中を覗いてみたいって思ってたんですよ」



 本当に数え切れないほど何度も考えていたことだった。




「先生は天才です」

「るみちゃん」


 もう十年以上も前の話だ。少し距離の縮んだ二人は金曜日に飲みに行く約束をしていた。彼女は有給休暇を取ってスタンバイしていた。楽しみな余りほとんど眠れなくて、しかもいつもよりも早く起きてしまい昼間から風呂に入った。ところが昼になり先生から電話が入った。風邪で発熱したため延期にしてほしいとのことだった。辛そうな声で先生は何度も謝罪の言葉を述べた。


「先生、今まだ外ですか?」


 車の音が聞こえていた。電話の向こうは屋外で間違いなさそうだった。


「そうだよ」

「うちに来てください」

「えっ!」

「無理なら私が行きます。ご飯作ったらすぐ帰りますから」


 前に何人かで飲んだ時に送ってもらったので家は知っている筈だった。家にまで来られては困ると思ったのか先生は承諾してくれた。


「困るなんて思ってないよ」

「でも困った顔してる」


 タクシーで到着した先生は青い顔を少し上気させて怠そうで、いささか目が虚ろだった。


「ご飯食べますか?先お風呂入りますか?ああ、メンズの着れる服が無かった!」

「それは良いことだよ」


 先生はお風呂から出ると、つんつるてんの寝巻を着て、土鍋で作ったクッパを残さず食べてくれた。薬を飲むと前回と同じように本棚から少女漫画の続きを出して読みながら、そのうちに眠ってしまう。時々、本の閉じる風圧と音で目が覚めては再び読み始めるが、それを三度も繰り返すと目を覚まさなくなった。


 それからは押しかけ女房になった。思い出が押し寄せる。少しは迷いもあったのかもしれない。でも残っているのは全部が、ご褒美のように幸せな記憶だった。




「俺が死んでも、るみちゃんは一人で生きていけそうだからそんなに心配してないよ」

「ダメです。約束してくださいよ。その時は一緒に連れていってください」



「―――わかったよ」



 るみちゃんが良いならいいよ。

 そう言ってくれていたのか、その場しのぎなのかは解らない。それでも嬉しかった。先生を失うなんて私の人生の終わりと言っても同じだから。














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