玲ちゃんと三毛ちゃん
おばあちゃんの様子を見に行くようにというのはママからの指示だった。おじいさんの葬儀の後で体調を崩したとのことらしい。今まで気を張っていたから緩んだのではないかと誰かが言っていた。
ママの妹の玲ちゃんが家のことは全部やってくれているというから心配は無いとは思うが、日曜日に私は一人で電車に乗った。私だっておばあちゃんのことは心配している。
駅に着くと、駐車場で赤いハスラーの横に立った玲ちゃんが私を見つけて片手を上げた。電車を降りた途端に灼熱に焼かれた私は手を上げて返事をすることもできず、暑さでフラフラになりながら車へ近寄るのが精一杯だった。
「ちゃんと一人で来れたね」
「電車に乗るだけだもん」
「えらいよ」
乗り換えがあるわけでもないし、降りる駅だって此処へは先月末に訪れたばかりだから間違えようが無い。どちらかというと車に乗る方が珍しいくらいだ。
「ひゃあ、涼しい」
「涼しくしておいたんだよ。整っちゃいそうだったんだから」
「整ったら困るもんね」
整う、というのがどういう状況なのか想像できなかったけれど私は適当に相槌を打つ。
玲ちゃんは東京で働いていたけれど、三年くらい前おじいさんに癌が見つかった時に戻って来た。私も同じ県内に住んではいるけれど、パパもママも働いているし頻繁には様子を見に来ることが難しかった。というのは表向きの話であって、あまり関わり合いになりたくないというのが本当の理由みたいだ。詳しく聞いたことは無い。
私もおじいさんという人が得意ではなかった。少なくとも何かしてあげたいなどと思うような感情を持ったことは無い。こんなことを口に出すつもりは絶対に一生無いけれど、亡くなったと聞いてホッとしている部分がある。
玲ちゃんはおばあちゃんちの近所にマンションを借りていた。「一緒に住めばいいのに」とは誰も言わない。そこそこ無神経だと思われるパパですら口に出さなかった。自分が言われたら誰だって嫌だろう。私だって困る。
小さい頃、祖父母の家へ行くのはストレスでしかなかった。おばあちゃんに会えるのは嬉しいけれど、それを打ち消すくらい嫌なことだった。まず、部屋の温度が適正でない。おじいさんはエアコンが嫌いだと言い張って、家の中は夏は幼心に不安になるほど暑かったし冬は手足の指先が痛くなるほど寒かった。お正月には誰かが寒がるのを面白がって窓を開けたりもする。私はおじいさんが恐ろしくてたまらなかった。
私たちが耳を塞いで、聞きたくない、やめてほしいと言って泣き出す子までいるのに怖い話やグロい話を聞かせてきては孫の私たちを怖がらせて満足そうだったのが忘れられない。急に大きな音を立ててテーブルを叩くし、何でもないことですぐに怒鳴る。過去には何度か行方不明になることがあったとも聞く。お金が無くなると帰って来るのだとママから聞いたことがあった。あまり語りたがらないから、聞いたのはうんと昔のことだと思う。無邪気に、好奇心に任せて質問ができる年齢だった頃のことだ。
おじいさんには自分を偉大だと思い込んでいる節が見られた。自分は頭が良くて偉大であるから皆が従うのは当然だ。言動の端々から、そんな根拠の無い変な自信を持っている人だという印象を受けていたように思う。人を不快にさせて喜ぶ人間なんてだいたい皆そうなのかもしれない。自分は慕われているから、人にどんな態度を取ったとしても構わないという一方的な思い込み。嫌われるかもしれないなんてこれっぽっちも頭に無いんだろう。おじいさんがそうだったかどうかは知らないが、本人は幸せだったんじゃないだろうか。
私も二つ下の弟も小学校高学年になるとクラブ活動だと言い訳して祖父母の家へ行くのは避けていたし、中学生になった今は部活や受験勉強で忙しいということになっている。小学校三年生の弟も行きたいと言ったりはしないし、ママも無理に連れて行こうとはしなかった。ママと玲ちゃんにはお兄さんがいて、それは私から見たらおじさんに当たるのだが、おじちゃんちもまあそんなところなのだろうと想像している。ただ、おばあちゃんのことを誰もが常に心配してはいるのは解った。
老々介護というやつが心配されていたから一同頭を悩ませていた。ママと玲ちゃんがその話をしているのを何度も見かけたし、電話で話しているのも聞いたことがある。多分おじちゃん夫婦のどちらかだろう。結局何も決まらず、玲ちゃんはおばあちゃんの大変さを考えて引っ越したのだと思う。おばあちゃんちに着く途中で玲ちゃんの家の前を通り過ぎた。ちんたら歩いて二分もかからない距離にある。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。とっとと入りな」
整っちゃうから、と玲ちゃんと二人で言い合って笑う。整うってどんな意味なんだろうね。玲ちゃんも知らんけどって言っていた。
「お邪魔します」
「あらぁ、ハナちゃん」
おばあちゃんは椅子に座ってニコニコしていた。肩に冬のようなカーディガンをかけている。お部屋はエアコンが効いていて快適だった。窓際に寄せて空っぽのベッドが置いてあって、なんだか物悲しく感じた。テーブルに対してソファ代わりにちょうど良い高さと角度ではあった。でもどうしても座る気にはなれなくて、その向かいの椅子に座った。
「おばあちゃん起きてて大丈夫なの?これママからね、お菓子」
「ありがとう~!大丈夫なのよ、ちょっと疲れちゃって」
「なら良いんだけど」
おかきと豆とザラメを固めたのはおばあちゃんの好物だ。それとかりんとうと梅のお煎餅。おばあちゃんはやけに歯が強い。
「玲ちゃん、お茶淹れて」
「今お湯沸かしてっから。ハナはアイスティーで良い?甘いの?」
「うん!甘いの!」
「よし!」
おばあちゃんは元気そうだった。次は弟たちも連れてくるとママが言っていたことを伝えると嬉しそうにお煎餅を開けてバリバリ食べ始めた。おばあちゃんが体調良くなったらね、と言うつもりだったが余計なことに思えたので言うのは控えた。体調の悪い人はこの家にはいないようだ。玲ちゃんが足で器用に引き戸を開けて部屋に入ってきた。それが合図だったみたいに、小さい三毛猫が駐車場から庭に入って来る。障子の開いたガラス窓の向こうでピョンと門を飛び越したのが見えた。そういえば可愛がっている野良猫がいると言っていたから私も会ってみたかったのだ。小さく見えただけで子猫ではなさそうだった。多分うちのチロちゃんは大きすぎる。野良猫だったのをママが色んな手を使って捕獲してきて甘やかして今に至る。犬みたいに大きい。
「三毛ちゃんにごはんあげて」
おばあちゃんに言われて、湯呑とグラスの載ったお盆をテーブルに置くと玲ちゃんが「うっす」と返事をする。
「ハナも来る?」
「うん!なつく?」
「嫌な奴じゃなければ」
「じゃあなつくよ」
三毛ちゃんはニャーニャー小さな声で鳴いて、玲ちゃんの足元に顔をスリスリしながら歩いて回った。玲ちゃんがしゃがみ込むと、やっぱりスリスリしてからお尻を向けてシマシマの尻尾で玲ちゃんの顔を叩く。私を警戒する素振りは見せたけれど、離れて見ているだけで危害を加える気はないと判ってもらえたようだ。
まだ餌を載せていない小皿に三毛ちゃんが鼻を寄せた。それから「何にも入ってないんだけど?」みたいな顔をして玲ちゃんの顔を見上げる。お皿の模様がカリカリに似た茶色のドットだから確かに紛らわしい。チロちゃんも間違える時がある。
「これと同じお皿の大きいやつ、チロちゃんも使ってるよ」
「ママと新都心に行った時に買ったんだよ」
端っこが欠けてしまっているのか、養生テープの貼られたお皿にカリカリと猫用のカニカマを盛ってあげると三毛ちゃんは玲ちゃんに向かって「にゃぁーん」と鳴いた。いただきますと言っているように見える。
「ごちそうさまもするよ」
「いい子だね。かわいい」
「いい子なんだよ。もう
玲ちゃんが差し出した手に向かって頭を突き出し、「なでろー!」と背伸びをしてくるのが可愛らしい。
「前は
「うん。
「ウケんね」
三毛ちゃんは玲ちゃんの部屋の前で帰宅を待っていたり、待ちきれなくなると途中まで迎えに行くこともあるんだって。おばあちゃんが嬉しそうに話している。玲ちゃんはまだ外で三毛ちゃんと遊んでいる。私は暑くて、三毛ちゃんが「ごちそうさま」するのを見たら部屋に戻ってきた。
「全然こっちには寄り付かなかったのよ、ほら。棒を振り回して追っ払う人がいるから」
「うわあ」
「もうね、姿が見えただけで怯えちゃって。可哀相に」
何それサイテー、大っ嫌い。
そう口に出かけたけれど我慢した。亡くなった人を悪くいうもんじゃない。
「三毛ちゃんも連れて来るんでしょ?」
「多分ね」
おばあちゃんはうちで一緒に住むことになっている。玲ちゃんも近くにマンションを借りる予定だけれど、どちらも今すぐにというわけにはいかないらしい。それまでには色々とやることがあるらしい。大人が言う“落ち着いたら”とかいうやつだ。
玲ちゃんは三毛ちゃんを連れて行くつもりなんだと思う。さっき私が部屋に入ろうとした時、もっと三毛ちゃんと交流を深めていけば良いのにと言っていたから。
「おじいちゃんがさ、おばあちゃんが入院する前から缶詰だの買って来て食べさせてたでしょう?桃だの蜜柑だのって」
ピーチティーの氷が半分くらい溶けてしまっていて、グラスが汗をかいている。玲ちゃんはまだ庭で三毛ちゃんと戯れていた。玲ちゃんが小走りをすれば三毛ちゃんがその後をくっついて走る。玲ちゃんが立ち止まれば、その周りを三毛ちゃんがスキップして歩いた。
「誰の話?」
「おじいちゃんのお父さんとお母さんの話よ。ハナちゃんは生まれてないもんね」
「うん。全然生まれてない」
おじいさんの方の家系はヤバい。それはおばあちゃん方の親戚では深刻な話みたいだった。東京の比較的裕福な家で育ったおばあちゃんは、安定した就職先で秘書の仕事をしていて、生活も安定していることもあってか楽しかったせいもあったのか当時としては行き遅れていたらしい。それを嗅ぎ付けて宛がわれたのが―――という話らしかった。ママが仲良くしている大叔母さんから少しだけ聞いた話だ。
おばあちゃんは苦労したのだそうだ、金銭的にも精神的にも。私はそちら方の親戚筋に会ったことも無いし一切関わり合いが無いので知っていることはほとんど無い。
ただ、ママのおばあさんが亡くなった時のことははっきりと憶えているのだと聞いたことがある。おばあさんは長く入院していて、先月亡くなったおじいさんから命じられてママと玲ちゃんで何度もお見舞いに行ったこと。病院まで片道一時間は歩く距離で、その時には炭酸水を何本も持たされて重たかったこと、それをママは全て玲ちゃんに押し付けていたんだろうなと私は思ったこと。
おばあさんは亡くなる三日くらい前になると既に話をできるような状態ではなかったらしい。決して口には出さなかったけれど、会うのはこれが最後だとママは確信したそうだ。泣いてはいけない、縁起でもないと思っても涙が出てしまったと話していた。それから人が亡くなること以上に、その時の父方———先月亡くなったおじいさんだ―――の親戚達の行動が恐ろしかったと聞いたのをふと思い出した。嬉しそうなのを隠しもせずに笑いながら、まるで一刻でも早く死に追いやるかのような―――—
「おじいちゃんのお葬式がママの最初の記憶なの、その時は小さかったから
ママはそう言っていた。
おばあちゃんはまだ少し疲れているのか、あるいは長かった介護の区切りがついて気が抜けてしまっているのかもしれない。だってその順番だとおじいさんのお父さんが缶詰を買って来たなんてありえないじゃない。
玲ちゃんは外でまだ三毛ちゃんと遊んでいる。ねこじゃらしのおもちゃを凄まじい勢いで八の字にスウィングしているのが見える。三毛ちゃんの方も本気の顔つきで飛び付く。そんな戦が繰り広げられていた。
「いなかったから知らないだろうけど、おばあちゃん亡くなる間際にいつも炭酸飲みたいって言ってお見舞いの度に売店まで買いに行かされたんだから」
「他のどんなお菓子買っていっても、お義父さんが缶詰買ってきてくれたから要らないって突き返されて」
おばあちゃんの話し声は元気そのものに聞こえた。怒ったような言葉を使っても楽しそうでよく笑うし、でもまた缶詰の話してる。
所在なく感じて外を見ていると、着地して我に返った三毛ちゃんがこっちを向いた。おばあちゃんはどうしてお外に出て来ないんだろうとでも思っているんだろうか。猫と会話ができれば良いのにと思う時が多々ある。三毛ちゃんは窓越しに部屋を見回すと、「ニャァッ!」と短く叫んで走り去って行った。それこそ弾かれたように。玲ちゃんは三毛ちゃんを見送っている。何か声をかけているみたいだった。三毛ちゃんが何に驚いたのか玲ちゃんは気にならないのかな、と少し思う。こっちを見ようともしない。よくあることなのかもしれない。
「あら嫌だ!ほらね、三毛ちゃん逃げちゃった」
おばあちゃんの声は恐らく玲ちゃんには聞こえていないだろう。窓の向こう側で、ゆっくりとした動作で玲ちゃんは立ち上がった。のんびりとした仕草でお皿を洗って、やっぱりのんびりとジョウロに水を汲んでいる。途中で何度もジョウロに水を補充しながら、庭に敷き詰められた植木にまんべんなく水をやった。それから窓に背を向ける格好で木でできたベンチに座った。どうやら電子タバコを持って外に出たようだった。随分と用意がいい。よく見ると着ている長袖のパーカーは遮熱のスポーツウェアだ。まるで長い時間外にいることを想定していたみたいにタンブラーまで持っている。部屋に入ってくる気配は無い。おばあちゃんと喧嘩でもしたのかもしれない。
「忘れちゃったの?やぁだ」
急に肌寒さを感じて鳥肌が立つ。冷房が効きすぎているような気がする。おばあちゃんは大丈夫なんだろうか。寒くないのかな。ていうか、おばあちゃんさっきから誰と喋ってるの?
「誰の話だ?って、自分の親の話でしょうよ。そっちのお義父さんとお義母さんの話!」
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