憧憬
「吉原さん、稲毛海岸って結婚式場あります?」
吉原さんは大きく口を開けて長い睫毛をバサバサ動かす。割り箸に挟んだお好み焼きが宙に浮かんだままだった。話しかけるタイミングを間違えたかもしれない。私は
「どうしたの玲ちゃん。結婚すんの?」
「すると思います?」
「思わない」
吉原さんの返答は食い気味で、二人で声を殺して笑う。バイト先の休憩室は他にも人がいた。お弁当を食べている人や
吉原さんに聞きたいことがあって訪れただけで、普段はこの休憩室に来る機会はほとんど無い。研修で一度来たことがあったかもしれないが、違う部屋かもしれない。休憩なんて喫煙室で自前のおにぎりを食べられればそれでいい。
新卒で入った会社が去年の初めに倒産してしまってた為アルバイトを始めた。本屋さんで働いてみたかったのでなんとなく応募したら採用されて、居心地が良くて一年近く居座ってしまっている。就活と並行してと言いながら就活サイトに登録したのは最近のことだった。
「あった気もするな、結婚式場」
「どっちでも大丈夫です」
「あはは。もう周りに結婚式挙げるような世代いないしねー」
「そうですかぁ?」
「玲ちゃん頼むよ、あたしをパワースポットに招待して」
「あー、無理っすねえ」
また吉原さんと二人、小声で笑う。
「玲ちゃん今日飲み会なんでしょ?」
「まあウーロン茶しか飲みませんけどね。あと明日お休みいただきます」
「ゆっくり休め!」
吉原さんがニッコリする。お子さんの部活の応援で出かけたとかで、日焼けした頬が可愛らしい。私の最近の将来の夢は目下、吉原さんだ。
「残業ならないといいね」
「ありがとうございます!ではお邪魔しました」
「えっ!わざわざそれを聞きに来たの?」
「へえ」
話が無いわけでも無いが、人に語るには私もよく憶えていないし未だ不可解な点があった。
「うーん、後ほど聞いてください」
「わかった!玲ちゃん、今度うち遊びに来なよ」
「行きます!めっちゃ行きます!」
吉原さんと手を振って別れて休憩室を出た。また4階の喫煙室に向かう。裏口のエレベーターを使わなければ辿り着けない場所だった。非喫煙者は知らない秘密の場所。知ってるからって何の自慢にもならないけれど。
腕時計を見ると休憩は半分近く残っている。少し一人で考察したいことがあった。
昼休みの初めのことだ。喫煙室に着いてアメリカンスピリットに火を点けると電話が鳴った。090で始まる番号であることには気が付いていたが、エントリーしている会社からだと期待して出てみた。今回は3社目の応募になる。これまでも書類審査は通過するものの、実際に企業へ赴いてみると如何にも今時の内装や面接官のキラキラした“できるオーラ”に圧倒されてしまい、私には場違いであると気後れだけして帰ってくるという敗け続きだった。今応募しているのは教科書関連の出版社における経理事務担当で、私が場違いになりそうなイケイケ要素は無さそうだ。そうであってほしいと期待している。
「あの、」
「はい」
電話の主は名乗らなかったけれど、若い女性だということは察することができた。話し方からフォーマルな印象は見受けられないので面接のご案内ではなさそうだ。
「あの、私、何年か前に渋谷で道を聞いた者なんですが」
「え?あ、はい」
なんだこの電話。大丈夫か。新しめのセールs、あ!
「・・憶えてます!」
「あ、よかったです!」
嘘を吐いた。ごめんなさい。本当は忘れていて、そんなことがあったのを今言われて思い出した。
なんだこの人、大丈夫か。そんなあの時の気持ちがフラッシュバックしてくる。
「あの時はご親切にありがとうございました。おかげでなんとか結婚式に間に合いました」
「あ、そんなそんな!でもよかったです、本当に」
「どうしてもお礼を言いたくて、急にすいませんでした。お仕事頑張ってください」
私が呆気に取られているうちに電話は切れてしまった。面接の連絡ではないものの、なんだか嬉しくなった。
何年も前のことだ。自分が大学四年生だった頃の記憶が蘇る。
その日渋谷にいたのは、はっきり言ってどうでも良い飲み会に誘われていたからだった。何月だったかも憶えていないが暑くも寒くもなかった。
狙ってる男と飲みたいからとかなんとか、一緒に来て見定めて欲しいとかなんとか、友人から執拗に頼まれていた。ようは引き立て役として呼ばれた。場所が渋谷でなければ断っていただろう。否、断ってはいたのだ。そもそも知り合いでもない異性のいる飲み会なんて好きではなかったし、その当時も就活をしていて準備に集中しなければならないと焦っていた時期だった。周囲も皆そんな風だったせいで「玲しかいないの」と頼られてしまい嫌々ながら参加する羽目になった。仕方がない、入学した時からの付き合いで彼女の酒癖が良くないのは知っていたから監視が必要だとは思っていた。本人も解っていての誘いだろう。仕方がない。
「今日これから出かけんの?」
「飲み会なんすよ」
「ふうん」
店を出てから美容師さんとの会話を思い出して「はっ!」とした。桜丘にある美容院へはついでに行っただけなのに、飲み会の為に行ったと思われたらと考えて急激に恥ずかしくなる。だがしかし行ってしまったものは取り返しがつかない。誰よりも気合いの入った女だと思われても仕方なかろう。言い訳をするならば、来週は第一志望の会社の面接があるのでどのみち今週末には予約を入れてあった。それを前倒しに予約し直したまでだ。誰もが聞いたことのある有名電機メーカーで、私のような者など一生分の運を使い果たしでもしなければ採用されることなど無いのは解っていた。一次の書類試験を通過したことで運を相当使ってしまった気もしていた。記念受験のようなものではあったけれど、できるだけのことはしたかった。それでダメならば仕方ない。できることが美容院へ行くことくらいしかないのだから。
友人との待ち合わせ場所に向かうため、人通りの少ない裏道を歩いて文化通りを目指していた。月一で通っているネイルサロンの方向だから迷いはしない自信がある。
「あの、すみません」
背後から声をかけられた。警戒しながら振り返ると可愛らしい女の子がこっちを見ている。二十歳前後だろうか、周辺には人がおらず私に向かって声をかけたのは明らかであった。洗顔フォームを配っているんですけど、と言い出す心配はないであろう素朴な雰囲気がある。
「どうしましたか?」
「あの、稲毛海岸までは、どう行けばいいですか?」
稲毛だと・・?
千葉県だっただろうか。地理は一番の苦手科目であったし、埼玉県民の私のテリトリーからは完全に外れた場所だ。そう伝えようと思った瞬間、察したのか向かい合う彼女が泣き笑いの表情を浮かべた。
「さっき山梨から出て来たばかりで、こっちに知り合いがいなくて」
なんてこった!
そんなことを聞いたら断れるわけがないじゃないか。ふと時計を見ると四時半過ぎ、相手陣との待ち合わせは六時半。美聡と落ち合うのに集合時間は設けられていないので切羽詰まってはいない。彼女は4限まで講義があると聞いていたので連絡があるまで少しプラプラ歩く予定でいた。
「何線に乗るとかはわかりますか?」
「半蔵門線?て言ってた気がします。すみません、東京に行くなら渋谷にも来てみたかったんです」
「わかりますよ」
謝ることはない。私だって上京する前やしたての頃には来てみたかった。かといって結婚式という一大イベントの直前に来ようとは、見かけによらず大胆な行動に出る人だ。せめて前日に来よう?
それでも気持ちはよくわかる。稲毛海岸もひっくるめて“東京”と呼んでしまうことには特に共感しかなかった。
「妹の結婚式なんです」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
笑顔はあどけないが、ご結婚されるような妹さんがいるということは見かけよりも結構年齢が上なのかもしれない。
「他のご家族は先に?」
「ええ、恐らく」
別に就活に備えて徳を積もうという下心があったわけではない。田舎者だった頃の私を見ているようで心配になったのだ。彼女がダサいとかそういうことを言いたいわけではなく、むしろファッション誌から飛び出して来たような洒落た服装をしていた。そうではなく、今はどうだか知らないが当時の渋谷なんか少し歩けばキャッチセールスだとか怪しいスカウトだとかがわんさかいた。
こんな風に簡単に人に道を聞いてしまうところも可愛らしい容姿も―――恐らく私よりも年上だったのだろうとは思うが、彼女からは純粋さが滲み出ていた。なんというか隙がありすぎる。
「私もあんまり詳しくないんで、一緒に探しましょう」
「良いんですか?」
ぶっちゃけ、そんなに良くもなかったが腹は括ってある。飲み会に遅れるくらい何だ。わざわざ美容院に行った上に遅れて来るなんて、そんなにまでして主役になりたいのかと思われたとしても、このまま心配しているよりずっといい。行き方も知らないけれど送り届けてしまう方が気が楽なくらいだ。
「結婚式は何時からですか?」
「七時です」
まだ五時前だから間違えさえしなけえば間に合うのではないか。どのくらい時間がかかるのかなんて検討もつかないが同じ関東だ、二時間も三時間もかかる距離ではないだろう。
ちょどよく電話が鳴った。待ち合わせをしている友人からだった。彼女は千葉県から通っている。
「ちょっと聞いてみます」
「あ、すみません」
「玲どこにいる?あたしもう着いちゃったー」
「私ももう渋谷にいる!ねえ美聡、稲毛海岸てどうやって行くの?」
「え、何処からの話してる?」
「渋谷?」
「マジか!結構時間かかるよ?つうか待て、これから行く気?」
「私じゃない」
かいつまんで話すとミサトはすぐに「道を聞かれたけれど私自身いなかっぺだから、どうしたらいいかわからない」旨を理解してくれた。彼女は名前の通り美しく聡明だった。
「わかりやすいのだったら東京駅まで行って京葉線だな。山手線で行った方が良いと思う、間違えようがないから」
「わかった!」
さすがミサト、今いる位置からならば湘南新宿ラインという手段もあるが、タイミングが悪ければ待ち時間が山手線の比ではない。間違えて乗ってしまって東京駅を通らない場合もあるかもしれない。地下鉄は乗り継ぎで迷う可能性が高い。急がば回れである。これは超方向音痴なりに就活を重ねる中で学んだことだった。
「京葉線まで東京駅ん中めっちゃ歩くけど、不安にならないで向かうように伝えて」
「わかった!後でスタバおごる!」
電話を切った後、私は歩きながらミサトから指示されたことを彼女に話した。不安ではあったが、心配していたよりも早く改札に辿り着くことができた。思えば自他ともに認める超方向音痴の私が道案内だなんて大それた真似をしたものだ。今考えるとヒヤヒヤする。
「なんか地下を歩くらしいんですけど、結構な距離を」
「わかりました」
「諦めずに進めということでした」
「頑張ります」
リュックから取り出したノートを一枚やぶって自分の電話番号を書き込んで渡した。学校の帰りで助かった。電話番号も、ちょうど就活中で何度も書いているから調べなくても手が憶えている。ついでに【京葉線】と書き足した。無いとは思うが京王線を探して
「これ私の番号だから、不安になったら連絡してください」「私も詳しくないけど調べるし、友達に聞いたりはできるから」
紙切れを受け取った彼女が驚いたような顔をしていたのだけ思い出せる。それから深々と頭を下げたのだった。艶々の黒髪が躍って甘い匂いが漂って消えた、というのは思い出補正だ。
「ありがとうございます」
いいから走って!!
彼女のふんわりとした足取りを見てそんな風に思った気がするがよくわからない。もう十年近くも忘れていた話だ。
改札に消えてゆく後ろ姿を見送ると私も踵を返して走り出した。何の自慢にもならなくて残念だが昔から足は無駄に速い。走りながら電話をかけた。
「ごめんミサト、どこにいる?」
ミサトはすぐに電話に出てくれて、有名なカフェの名前を言った。その近くで待機しているらしい。私が困ったら出動できるように店には入らず待っていてくれたのだと解釈した。
「ここの支払いは任せろ!」
「黙れ、このいなかっぺ!」
調子乗んじゃねえ!と言い張る彼女を力技で捻じ伏せて私は会計を済ませた。
「ちゃんと電車に乗れたかな?」
「だといいな」
乗れていますようにと二人で手を合わせる。連絡が無いところを見ると無事に向かうことができているのではないか。そう思うのに何度もスマホの画面を確認した。
「玲なら時間があれば送って行っていたんだろうね」
「道を知りもしないくせにね」
アイスの何ラテだか忘れたが、ストローで掻き回すとグラスの中で氷がカランと音を立てた。
飲み会の前半は楽しかったけれど、盛大な外れだった。まあ「お付き合いを」となる前に酒癖の悪さが判ってお互い良かったというところだろう。ミサトの
「ねえミサト、あの男はやめておこ?」
「うん、ありがとう」
「あの男は私の人生に必要ない」
そう言って、私の部屋に着くとミサトは彼の連絡先と、これまで連絡した履歴を削除した。辞めたバイト先の店長だったらしい。一回り年上ということだったが年齢の割に驚くほど若く見え、爽やかで愛想も良かった。が、途中からとにかく酒癖が悪かった。一緒に来ていたご友人をバカにして笑いを取るようなところが気になったことと、他の席のお客さんにまで絡みだしたところでお金を置いて抜け出して来た。友人の方から謝られたが、彼一人に押し付けてしまったようでかえって申し訳ないことをした気分ではある。
翌朝、ミサトは店長の酒癖の悪さも形跡を削除したことも憶えていないようだったが悔やむような言動は見られなかった。それは本能で冷めたということなのか、どうだったのだろう。憶えていないのか聞かなかったのかもう思い出せない。一緒に学校へ行って、食堂にモーニングがあることに二人で驚いた。
ついでに話しておくと就職活動も上手くいったとは言えない。やはり第一志望の会社から採用の連絡はなく、なんとなく受けてなんとなく内定をくれた映像関連の企業に入社した。漫画やアニメや映画なんかも扱うことがあり、話の合う仲間ができて楽しく過ごした。楽しかったから、この時間は長くは続かないのだろうなという予感はなんとなくしていた。いつだってそうだ。案の定あっけなく倒産したのは私の身の丈に合っていたということなんだろう。楽しかったな。今でも思い出してしまう優しい時間だった。
あの別れ際、彼女に電話番号を書いた紙きれを渡したのは間違いない。
不可解なのは、その後で何度か電話番号を変えているという点だった。番号を変えたのは言い寄って来た男が煩わしくなった時と大学を卒業して就職した時だ。あとは社会人になって携帯電話を落とした時。共通の知り合いなどいないし、そもそも彼女とも知り合いと呼べる間柄ですらない。
それでもさっき電話で話した内容から考えると人違いとは思えなかった。
間違い電話がかかってくることならばよくある。最近であれば「これを聞いたら折り返し電話して」と拙い日本語で何度も留守電が入っていて、最後に入っていたメッセージは「もう国へ帰る時間だから」という内容だったということがある。残念そうな声の向こうでドラマみたいに空港の轟音が聞こえていた。
「間違えてますよ」と電話をかけてあげられれば良かったのにと悔やまれた。全ての留守電に気が付いたのは残業終わりの喫煙室で、最後の着信はもう何時間も前のものだった。
何故なのかと聞かれたら好奇心だとしか答えようがない。どんな経緯で電話をくれたのか彼女に聞いてみたくなったのだ。随分と時間がかかった理由を、私の電話番号を特定した方法を、何よりも。
さっきは呆気に取られて何も言えなかったけれど、そうまでしてわざわざ連絡をくれたことに対してお礼を云いたい気持ちがある。
午後の二十分休憩の時に電話をかけてみることは昼休みに考えて決めていた。午後の休憩は、係によって時間帯はまちまちだし十分のところもあれば無いところもあるので、どの休憩室も混み合っているということは無い。喫煙室にいるのは食堂のおじさんかサボっても誰も困らないうちの係長くらいのものだろうと踏んでいた。
「お、お疲れっす」
「うっす」
暗証番号を押している途中でドアが開いて、中から食堂の坊主頭のお兄さんが出て来た。他には誰もいないようだ。
「はい」
3コール目で電話に出た声は明らかに怪訝そうで、あるいは怯えた様子にも聞こえた。さっきの彼女ではないが女性のようだ。
「あの、さっきお電話をいただいた者ですが」
「――――――ああ、」
困惑した様子が伺える。間違えました、・・かね?私が言葉にする前に向こうが話し始める。
「―――すみません、変なことを聞くと思うんですが」
「はい。大丈夫です」
「さっきこの番号から電話があったんですよね?」
探り合いのような、感じたことのない沈黙が流れる。それを破ったのは、またしても先方だった。
「と言うのも、ですね?」
「はい」
「あの、」
電話の向こうの全く知らない人は慎重に言葉を選んでいた。私も聞き間違いをしないように耳に神経を集中させる。奇妙な緊張感が
「この電話番号は自分の物なのだが、知らない発信履歴が残っていたので不思議に思っていた」
「その時間に電話をかけられる状態では絶対になかったので自分はかけていない」
「電話は手元にあった」
私なら早口になっていたであろう。この女性は冷静だと感心する。
「ええと、私も少し変なことを言うかもしれませんけれど」
「はい、大丈夫です」
「ありがとうございます」
しかも早口になるかもしれません。
「お電話は女性の方からでした」
「あっ。お話しされたんですか?」
「あ、はい、少しだけ」
先方が今どんな気持ちなのか全く想像ができない。どう手の内を明かせば不快に思わせないだろうか。私は悲しくなるくらい説明が苦手だった。
「お礼の電話をいただいたんです。もう何年も前なんですけど、その方が道に迷っていたので駅で一緒に乗り場を探したことがあって。その時に私の電話番号をお渡しして―――」
でも私の番号は変わっている。
それとも彼女の方でも電話番号を変えていて、その番号を現在使っているのが今話している...違う絶対にそうじゃない。落ち着くんだ、私。
「渋谷だったんですけど、妹さんの結婚式に行くから稲毛海岸へ向かいたいと仰っていて」
「あっ」
こんなことを知らない人に話して何になるんだろう、しかも早口で。もしかしたら私は通話相手の貴重な時間を奪っているのではないか。現に相手は黙り込んでしまった。聞かれてもいないのに「自分は親切な人間だ」と主張するイタい人から電話が来てしまったと思っているかもしれない。怖い思いをさせて申し訳ない気持ちになってきた。
「――—――それ、姉だと思います」
「じゃあ、あの時ご結婚された妹さん」
「はい。七年くらい前ですよね?」
「そうです、そうです!ご実家は山梨ですか?」
そう尋ねると妹さんは笑い出した。
「渋谷に行ってみたいって、ずっと言ってたんですよ。でもあんなのんびりした人でしょう?絶対にダメって皆で反対したから結局行けなくて」
「あ、お姉さん言ってました、渋谷に来てみたかったって!申し訳なさそうに」
なんなら謝っていたことを教えると、妹さんがまた笑う。小さい子の声がする。お母さん、どうして泣いてるの?
「都会に憧れてたんでしょうねえ。だからかファッション誌なんかはよく読んでたんです。誰かが付き添って連れて行ってあげればよかったねって今でも時々話すんですよ、でも誰も東京になんか詳しい人はいなかったから」
学校の近くにある寮に入るのならば進学に伴う上京を許すということに決まったのだそうだ。それが高校二年生の時。彼女は飛び上がるほど喜んで、東京に行きたい一心で大学受験の勉強を頑張った。きっと頑張りすぎたのだ。三年生になる前の冬。
「もう頑張らなくていいよ、って神様か仏様が傍に呼んでくれたんだねって」
私が渋谷で出会った彼女は今から十五年ほど前に亡くなっていたそうだ。幼い頃から体が強い方ではなく、遠出などはほとんどしたことがなかったのだという。
「よかったね、お姉ちゃん渋谷に行けたんだねえ」
それは彼女に向けて話しかけているように聞こえたから、姉妹の会話に口を挟むようで申し訳なかった。でもどうしても伝えたかった。
「結婚式にも間に合ったって言ってました、さっき」
「あはは」
その声にはさっきまでの怪訝さなんかちっとも感じなくて、でも
その笑い声は明るくて嬉しそうではあったけれど涙が混じって聞こえた。その声のまま妹さんは何度もお礼の言葉を述べてくれた。
「もしも記憶違いならば怖いと思っていましたので。お電話をいただいて助かりました」
「いえいえ、何のお構いもできませんで。でもお話できてよかったです」
確かに自分でも知らないうちに無差別に電話を発信していたら怖い。そんなことがあれば強烈なオカルト案件だ。
「姉妹揃って助けてもらっちゃいましたね、全部姉のせいですけど」
「ふふふ。私は何にもしてないんです。なのにご連絡をいただいて、嬉しかったってお伝えしたかったから」
告げることができてよかった。私からもお礼を言って電話を切った。それにしても夕方前で忙しい時間帯だろうに、邪魔をして悪いことをしてしまった。そう思う反面、見知らぬ人との電話はとても楽しかった。
だからなんだか気分が良くなってしまっていた。飲み会―――というのには、参加者は私ともう一人だけなので語弊があるかもしれないが、まあ相手が誰であろうと何人であろうと今宵の酒は美味いに決まっている。そんな確信で心が躍った。ウーロン茶は最後に一杯飲めば嘘にはなるまい。あの日ミサトもこんな気持ちだっただろうか。
バイトが終わり店を出て、ロッカールームまで着替えに行く途中また電話が鳴った。交差点で立ち止まり信号を諦める。私はとびっきり
家に着くと酔っ払った勢いでミサトに電話をかけた。酔っ払った人間から電話が来るなんて、受け手にとってこれほど迷惑なことがあるだろうか。自分がされたら怒るに違いなかった。私はまたいつかのように彼女にコーヒーをご馳走しなければならない。コーヒーで事足りるだろうか、果たして。
「ミサト、最近いいことあった?」
「はあ?」
ミサトは少し考えてから答えてくれた。
「ねえな。どうしたの?」
口調は荒いが彼女の声は楽し気に聞こえる。酔っ払いの勝手な解釈かもしれない。これでよく他人のことを酒癖悪いなんて言えたものだ。
「多分これからあるよ」
あの時。私はその場にいただけで、稲毛までの行き方を教えてくれたのはミサトだった。功労者にご褒美が無いなんてことがあってはならない。
「何?」
「予言」
「あは、怖いんだけど」
ミサトが笑ってくれて少し安心した。怒ってはいないみたいだ。
「詳しくは今度会ったら話すよ」
でもその前に起きたら謝らなくちゃいけないな。
バスに乗ったらメールしよう。明日お墓参りに行く前に。
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