夢枕

 マリは大学で初めてできた友人だった。同い年とは思えないくらい迫力のある美人で都会的で、正直関わり合いになりたいとは思わなかった。私は田舎者な上にそもそも人付き合いが得意ではない。しかしながら彼女は私をそっとしておいてはくれなかった。面倒見の良さがそうさせたのだと思うしかない。彼女のおかげで交友関係が広がったことに感謝しなくてはならないと思っていて、それは私の大学時代を彩った、といえば物足りないだろう。全てになったとでも言っておこうか。それはまた別の話になる。


 マリの家は最寄駅からバスで大学に向かうまでの通過地点にあった。入学してすぐに、帰りのバスを途中下車してお家にお邪魔したことがある。田舎から出て来たばかりで心細いだろうと彼女の母親は私に晩御飯を食べに来るように誘ってくれた。真に受けた私はちゃっかりと何度かお言葉に甘えた。時間によっては「作ってあげるから持って帰って家で食べなさいよ」と言うこともあった。

「おばちゃん、これどうやって作るの?」

 いくら図々しい私でもお土産まで持たせて貰うのは申し訳なくて、せめて再現できるように作り方を教えてもらうことにした。

「これはね、丸ごと揚げんのよ!そんで醤油とか混ぜたヤツに漬けんの、バーッて」

「あ、うん」

 バーッて漬けるとは何事か。バーッと揚げるならまだしも。おばちゃんは細かいことを気にしない豪快な性格をしている。

「今日は雨降ってるから行くのやめる」

 マリの妹さんの卒業式をそう言って断念するような楽ちんな人だった。


「玲ちゃん、最近来ないじゃない。顔出しなさいよ」

 すっぴんでもツヤツヤの顔をしたおばちゃんが笑っていた。何故か自転車を漕いでいて、私を後ろから追い抜かすと走り去っていった。変な夢だ。春休みでたるんでいたから、朝起きられるか不安で夢なんて見てしまったのかもしれない。


 それは私たちが四年生になる四月の初めの登校日のことだ。友人たちの集まるラウンジにマリの姿は無かった。年度替わりの履修の手続きが始まると、いつも見かけないような知人でも登校してくるものだった。待ち合わせをしているというわけでもなく、本当にただ「集まる」というだけの集まりだ。だから全員と友達というわけでもなく、友達とその友達同士が何組か入り乱れるという、女子校にはよくある風景だったのではないかと思っていた。私は共学を知らないから断言はできない。テラス席はいつも早い時間から大抵埋まっているのだそうで、花の咲く高さで室内からも桜が見える窓側の席を誰かが取っておいてくれているのが常であったと記憶している。私が味噌ラーメンを載せたトレーを持ってラウンジに入ると何人かが名前を呼んで手を振ってくれた。彼女らとは学科は違うけれど、元々マリがサークルの新歓でお近づきになった友人たちだった。いつのまにか私もその輪に入れてもらうようになり、揃うと決まった時には「この日は死ぬほど笑うだろうな」と思えるまでの仲になれたことをマリにも彼女らにも感謝している。ただ、友人たちは社交的で顔が広いから私にばかり構っているわけではない。この年度初め恒例の集いには私にとって辛うじて名前と顔が一致する程度といった知り合いの方が圧倒的に多く、特にマリがいないと所在無く心細い思いが少なからずあった。私は隅っこの席に腰かけて見知った顔ぶれに手を挙げて挨拶を返して少しだけ安心する。それでもやはり友人は少なくて良いと思っていた。本当に仲良くできる相手が何人かいてくれれば良い、この考え方が正しいのかは今でもわからないけれど、今でも変われないままでいる。


「玲ちゃん、マリの話聞いてる?」


 少し遠くの席から同じ学科の知人が声をかけてきた。マリは美人で目立つから注目されることが多い。私は学籍番号が近かったせいか比較的マリと過ごす時間が多かった。外側からもそう見られているのだという認識はある。私は当たり障りない、悪いことではない無難なことを選んで答えた。


「就職決まったんだってね、早いよね」


 余計なことを話してマリのことを面白がられるのが嫌だったのだ。彼女は目立つ分だけ余計なことを言われることも多い。ほとんどが嫉妬なのは判っているけれど、マリのことをよく知りもしないくせに好き勝手に言われて面白くない思いをしたことが過去三年間で何度もあった。


「え、マジで?」


 仲の良い友人の一人が頓狂とんきょうな声を上げた。


「そんなの卒業できるかの方が心配じゃん」

 

 知っているくせに。


 当該友人たちが反応してくれて次々と冗談を言い合った。就職が決まった旨、マリからは春休み中に一斉送信メールで報告があったのだ。お祝いをしようと話していて一ヶ月近くペンディングされたままだった。

 今日会って話せばいいよね、ファミレスにでも行って。どうやら皆もそう思っていたらしい。話題を本質から遠ざけようという意図は明白で、それが同学科の友人には不満と見えた。


「違うって、お母さん亡くなったんでしょ?」

「え?」


 私たちは顔を見合わせる。その表情から知っている者はいなかったということはわかる。


「知らない」

「いつ?」

「わかんないけど、うちの親が言ってた」


 この級友が、私立の中学受験をしなければ同じ中学校だったとマリが話していた人物だと気が付いたのは後になってからだった。一年生の時に大人数の飲み会で一緒になったことがあったかもしれない。現在交友関係にないのであればその程度の縁だったのだろう。私は狭量で薄情な人間であると、そう言われていることも知っているし自覚もあった。

 

 さておき、最後にマリと連絡を取ったのはいつだっただろう。


「昨日は電話とか来なかったの?」

「うん」


 面倒くさがりのマリは用件を電話で済ませることが多い。友人たちは学科も別なので登校日の前に連絡をとることも特段無いのだという。どうして気付かなかったのだろう。言われてみれば昨日連絡が無かったのは少し不自然だったのかもしれない。全く気が付かなかった。


 スプーンの先でプリンのパフェをつつきながら、空いた手で頬杖をつく。冷房が効きすぎてはいないか。パフェではなくパンケーキを注文するべきであったか。皆で来るものだと思っていたファミレスにマリは呼べなかった。

 

「大変な時にごめん。おばちゃんのこと聞いたよ。落ち着いたら教えて、お家にお邪魔しても良い?」


 マリに送るメールの文面は、私を含む同席した四人で一生懸命考えた。いつもバカなことしか話さない私たちが初めて真面目に議論した。

 お悔やみの相場なんてわからないので、なんとなく五千円ずつ出すことになった。

 


 薄い筆ペンで書くんでしょ?

 

 何だよそのペン。

 

 ピン札はダメだって!

 

 ここ誰の名前書くの?

 


「皆で行ったら迷惑になっちゃうから、玲に行ってもらうってことで良い?」 

「賛成」

「頼む」

「よっしゃ、頼まれた」


 それは私はマリの一番近くにいたのだと気づかされる出来事でもあった。

 メールを送信するとすぐに電話がかかってきたから、皆で顔を見合わせて息を飲んで頷き合う。


「ごめんごめん連絡もしなくて。バタバタしててさー」

「ううん。大変だったね」

 

 マリの声は思ったよりも大丈夫そうに聞こえた。というよりはいつも通りだったので安心した。彼女が気丈な人なのだと改めて思い知る。


「もう落ち着いたからさ、明日から学校行くよ」

「あ、本当に?」


 明日から来るって。


 そのことを伝えると三人とも強張こわばらせていた顔を笑顔に変えた。私もきっと一緒だった。


「待ってるね」

「おう、待ってろ。あと何履修したか教えてね。一緒に出るから」

 



 翌日、登校するバスに途中からマリが乗ってきた。私を見つけると手を挙げて、私も同じように返してマリは隣に座る。道中の所々で桜が咲いているのが車内に立っている人の隙間から見えた。私たちが何も話さないまま学校へ送り届けられると、掲示板の前に別学科の三人が立っていた。また手を挙げて無言で挨拶をして二手に分かれる。今日は私が代表して、帰りにマリの自宅へお邪魔する予定になっていた。




 三月の途中、おばちゃんが買い物から帰って来ない日があったんだそうだ。きっとバスには乗らずに歩いて出かけたのだろうと、マリも大学生になった妹さんも全く気にしていなかったらしい。そのうち先に帰宅したお父さんが二人に「橋の上で事故があったらしくて渋滞が起きていた」と言った。気が付けば七時半を過ぎている。買い物から戻らないにしては幾ら何でも遅いから、お母さんの乗ったバスも遅れているのではないか。

 そんなことを話していると家の電話が鳴った。警察からで、おばちゃんが車に撥ねられたのだという連絡だった。


 三人が慌てて病院に行くと、おばちゃんは既に息を引き取った後だった。それは電話で伝えられていたことではあったのだけれど。

 

 化粧を施された顔を見て友人姉妹は「笑わずにはいられなかった」らしい。

 

 

 不謹慎な!!



 とも思ったが、キャラというものがある。おばちゃんは最後に渾身の笑いを取れて嬉しかったのではないかと今でも思っている。いつもはバスに乗るのに徒歩で出かけることがあるのはダイエットの一環だったのだと確かに聞いたことがあった。


 その日、買い物袋を持ったおばちゃんが歩いて橋を渡っている夕方のことだ。白い杖をつく女性が、向こうの歩道から四車線を横切ってこちらの歩道へと向かおうとしていた。最初は何人かで「危ないから渡ってはいけない」と必死に声をかけていたが、気が付かないのか無視しているのか杖の女性は横断するのをやめなかった。それを制止するのにおばちゃんが飛び出してしまったらしい。杖の女性は事故が起きたことに気が付くと慌てた様子でその場を立ち去った。これは複数いる目撃者たちの証言だった。横断歩道も信号も無い道路だ、時間帯を考えても車の通りは多かったことだろう。


 私は無念さに目を瞑る。

 自分の無力さに、おばちゃんのおせっかいさに、杖の女性が取った一連の行動に悔しさが込み上げる。

 


「わざわざすまんね」

「ううん。押しかけてごめん」

 

 おばちゃんのいないマリの家は静かで、急に喉が詰まったのはお線香の匂いがしたからだった。





 

 待って







 待って、おばちゃんマジで?



 

 嘘なんでしょ? 嘘だって言ってよ。



 おばちゃんは友達のお母さんだけど、東京でできた私の友達でもあったのに。




「まあ、そう深刻になりなさんな」 


 マリが私の肩に手を置いた。真っ白い温かい手。


「———うん」


 そうだ、おばちゃんはシミったれたことなんて嫌いなんだから。


「玲ちゃん、あんた久しぶりじゃないの」


 頭の上でそうやって笑うおばちゃんの明るい声がする。



 通されたのは入ったことのない畳の部屋だった。

 おばちゃんの写真は飾られていなかった。写真なんてもう何年も撮っていなかったらしい。それはそうだろうと思う、反面で「卒業式に出てればなあ」とも薄っすら考えてしまう。


「まだ今は来てくれる人がいるからさ、来なくなったら飾ろうかって話してんの。若い頃の写真」

「おばちゃん喜ぶね」


 おばちゃんに手を合わせた後で「これ皆から」と袱紗ふくさから出したご霊前袋をマリに渡した。お仏壇の前でマリと二人、お互いに手を合わせて頭を下げ合う。なんだかとても大人になった気分だった。


 

 履修の受付期間が過ぎて桜が散ってしまって、本当に落ち着きを取り戻した頃、マリが駅まで一緒に出ると言った。寄り道をするのは本当に久しぶりだった。マリと一緒にとなると前回がいつだったかもわからない。私も就職活動は始めていたし、彼女に至っては不幸の後で慣れない家事を頑張っているのか前にもまして痩せて綺麗になっていた。寂しいのだって哀しいのだってあるだろう。心配ではあったが、せっかくの彼女の明るさや気丈さに上手く騙されているのが良いような気もしていた。


「妹の夢にお母さん出てくるんだって」

「え、マジで?」

「うん。わたしの夢には出て来ないのに」「出て来てはあれをやりなさい。これをやりなさいってうるさいんだって」


 なんだか想像がつく。大変おばちゃんらしい。


「おばちゃん心配なんだね」

「そう思うじゃん?」

「うん」


「ところが仏壇の裏を掃除しろって何回も言うんだって」


 妹さんは御座おざなりに返事だけをして放置していたそうだ。するとおばちゃんの出現回数が増えたのだという。話を聞きながら私はいつのまにか前のめりになっていた。マリも大きな声では話せないと思っているのか、同じような姿勢を取っている。私たちは二人で小さなテーブルを挟んで、頭を寄せ合うように話をしていた。まるで密談だ。何か企んでいるみたいでワクワクする。


「しょうがねえから二人で仏壇の掃除したんだわ。このままだと夢じゃなくてリアルに出てきそうだからっつって。そしたらさ」

「そしたら・・?」


 マリは咀嚼していたフライドチキンの骨だけをバラバラと器用に吐き出す。この特技を出会ったばかりの頃に初めて見た時は驚いたが、見慣れた今となっては様式美ですらある。彼女はコーラを一口飲むと話を続けた。


「そしたら宝くじが出てきたんだよ」

「すげえ!!」

「発表されたばっかのだよ、しかも。そんなの期待するじゃん」

「するよ!する!!」


 しかしながら宝くじって何時いつが発表なのだろうか。私は買ったことが無いからわかなかった。でもマリのつまらなそうな表情から結果はなんとなく判る。


「わざわざ調べたらさ、外れてんの」


 目を合わせて、それから二人で大笑いをした。とてもおばちゃんらしい。笑いすぎて涙が出た。


「結果が気になってたんだろうね」


 これ以上笑ってもいいのかどうか一瞬だけ迷ったが、誰も気を悪くしたりしないような気がしたので私は大いに笑った。


「そうじゃん?マジでくだらねえ」


 とても他人事のように彼女も笑って、白い指先で切れ長の目尻を拭う。キラキラのネイルアートが施されているのは一足早く就活に勝ち抜いた者の特権だ。私もせいぜい頑張ろう。


「外れててちょうど良かったのかもよ」


 高額当選なんてしていたら余計に未練が残ってしまうかもしれない。


「あたしもそう思ってる。妹も」


 マリの笑顔は屈託なくて、おばちゃん、多分もうそんなに心配しなくて大丈夫だよ。と声をかけたくなった。  

 マリはとても強いけど、でもまだまだおばちゃんには傍にいてほしかっただろうとは思っている。私だってそうなのだから。美味しいご飯のテキトーな作り方をもっともっともっと教えて欲しかった。


 だけどおばちゃんはこれからも当分、ちゃんと傍にいて時々こうして笑わせてくれるのだという予感がしていたし、現在でもそれは的中し続けている。











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