揺蕩ふ

茅花

迎え火

  石段を上り切ると自分でも驚くほど肩が上下していた。駆け上がったわけでもないのにもう一歩も動けないほど息が切れている。かと言って此処で立ち止まってしまえば再び歩き出すまでにどれほどの時間を要するか判ったものではない。故に無理矢理の一歩を踏み出した。足を上げるだけで辛いが、有無など言わされず連行された富士登山を思い出せば幾らか易しかった。六合目のあの重い第一歩を私は生涯忘れないだろう。こうして励みになっているのだから皮肉なものである。年だな、と思う。

 祖父母の墓地を見晴らしの良い山頂にと望んだのは誰であったのか今では解らない。三十年近く前のことだ。ただ、今この標高まで登って来られる親戚が限られていることは確かだ。従兄姉の中では最年少のわたしも来年には三十路に手が届く。田舎から来た両親は下の涼しい待合所でお茶を飲んでいることが多かったがそれすらも少なくなってきていた。加えて今年は異常な猛暑につき自宅で待機する運びとなっていた。それで良い。彼らを引き連れて登山とでもなれば自らの無事も知れたものではなかった。おまけに駅からも20分ほど歩く距離であるのにも関わらずバスも走っていない。車を所有していない私にとっても苦行であった。夏は昔から好きだったが、今年は、こんなのは私の好きな夏ではない。どこかのSNSで「日本は五季になった」との名言を見かけて感心した。数年前のことだったか、それは「今は夏ではなく地獄」と続いた。   


 然り。


 日傘は経年劣化するものなのだろうか。まるで意味を成していないかのように陽射しを感じる。数年前に突然の雨の帰り道に買ったものだった。晴雨兼用という文言に釣られて買ってからは主に日傘として使う機会が圧倒的に多かったが、こうも陽射しを強く浴びたことは今までにない。

 

 やっと頂上の一番奥の区画―――一等地と呼ぶんだそうだ―――へ到着してしゃがみ込んだ。体がバラバラになりそうな疲労感に蝕まれている。しばらく汗が流れるだけの時間が過ぎた。しかし今は昼過ぎで、これからまだまだ暑くなってゆくばかりだろう。座っていても仕方がないので、掃除をしようと気合いを入れて立ち上がった。いつも隅に置いてある箒と塵取りが見当たらない。暑くて頭がどうかしてしまったのだろうか、それとも買い替えでもするつもりで叔父が撤収したのだろうか。

 どうも前者であるようだった。墓石に刻まれたのが母の旧姓ではないことに気付くまで十秒ほど要した。これは隣の墓地である。墓前で勝手に休憩を取った無礼に手を合わせてお詫びしてから移動した。逆隣の墓石の裏で向こう側に寄りかかっていた隣の卒塔婆がパタンとこちら向きに一枚だけ倒れてくる。挨拶でもしているかのようだ。おじいさんの朗らかな声が聞こえる。


「こんにちは。暑いね」


「こんにちは。暑いですね」


 ご無沙汰致しておりますと手を合わせ私もお辞儀を返す。風が吹いて木々が揺れた。標高が少し高いのと、緑に囲まれてはいるので風が少しは冷たく感じる。とめどなく流れている汗のせいかもしれない。


 思い出すのは昨年のお盆に訪れた時のことだ。鮮明に憶えている。当時は会社員として外に働きに出かけていた分だけ、まだ体力もあったのではないだろうか。それにこれほどの熱気ではなかったように思う。墓石の前にしゃがみ込み息を整える。

 線香に火を燈すまでの流れはいつも決まっている。掃き掃除をしてゴミを捨てがてら水を汲みに行く。水場とゴミ箱は同じ場所にある。湯呑を二つ洗ってから水を撒き、おじいちゃんに缶ビールと、おばあちゃんにお菓子を供える。ビールの蓋は開けない。母の弟である末っ子長男の叔父が持って帰って飲めば良い。スイーツはカラスに狙われるので、お焼香の後に食べて帰るまでがミッションである。ゴミはゴミ箱へ。毎年変わらない。

 

 昨年の私は今年と同じように墓地を掃除してから、やはり例年通り墓石の前でコンビニ前のヤンキーが如くしゃがみ込んだ。確か風が強い日で線香に火が点くまでしばらく時間がかかった。今と同じように息切れが収まるまで、ただ汗を流して過ごした。年を取ったと痛感しながら、この花は誰があげに来たのだろうと思いを巡らせる。わたしは従兄姉の中でも飛びぬけて末っ子になる。十五人いるうちのほとんどが二十近くは年上で、一番年が近いのは姉で三十代後半になる。

「あら、お花片付けてないじゃないの!」

 声が聞こえたので顔を上げた。気付けば知らないおじいさんが隣のお墓の前に立っている。その墓前の花瓶には萎れた花が挿されていた。「水もかえてない!」とおじいさんは叫んだ。独り言のようにも聞こえたので返事はしないでおいた。一緒になって悪口を言うのは、面識もない人に向かって「違う」と判断したからだ。それにおじいさんの口調も怒っているようには聞こえなかった。なんだか楽しそうにさえ思えた。

「うちの奥さん、昨日来たのにお花もお水もかえてないよ」

 おじいさんが今度は明らかに私に向かって言った。

「あらまあ、暑いから慌ててしまったんですかね?」

 息は整いつつあるが流れる汗が止まらない。立ち上がるまでにどれほどの時間を要するだろうか。おじいさんは暑さなんて微塵も感じていないみたいにチャキチャキ動いた。花を鷲掴みにしてゴミ袋に入れて、渇いた雑巾で墓石を磨く。その辺に落ちていたお線香を拾ってこっちに向けて来た。折れたのか途中まで燃えていたのが風で飛ばされたのか、半分以下の長さになっている。

「これに火つけてくれない?」

「わたしお線香たくさん持ってるから、よかったら使ってください」

 巣鴨の専門店で買って来たものを箱のままで持って来ている。私が差し出した線香をおじいさんは受け取ろうとしなかった。

「いいのいいの、火が着けば」

「そうですかあ?」

「うん、そう。そう」

 遠慮している風でもなさそうだったので言われた通りにすることにした。ライターをカチカチやって、おじいさんも空いた手で風を避けてくれるけれどお線香は湿気ているようで火はなかなか着かなかった。それでもようやく煙を立て始めると、おじいさんは「どうーもありがとう!」と嬉しそうに何度も唱えた。お線香をあげて手を合わせるや忙しなく、備えてあったのか花が挿してあったかわからないワンカップの容器を掴む。・・・飲むなよ?こめかみを汗が伝う。

「三十三回忌ってやるもんですかね?」

 こっちを向いたじいさんと初めて目が合った。やはり暑さなど感じていないように清々しい笑顔を浮かべている。清々しい。

「やるんじゃないですか?うちはやったと思います」

「そうだよねえ、やるよね」「ありがとうね」

 おじいさんはとっても嬉しそうだった。だから後になって三十三回忌をうちではいまだやっていないことに気付いて申し訳なく思えた。おばあちゃんが亡くなったのはわたしが保育園の頃だ。まだ三十三年なんて経っていない。

「じゃあね、ありがとうございました」

「いいえいいえ、何のお構いもしませんで。お気を付けて」

 おじいさんは私が言い終わる前にもう歩き始めていて、振り向きながら頭を下げる。三つ向こうのお墓がある前の曲がり角でカップの水を茂みに向かって撒き散らした。なんという豪快なじいさんだ。木陰になっている高さの緑色がバシャッと音を立てる。突然水をかけられて緑たちもビックリしたことだろう。私もビックリしたが、それから例年通りの作業を勤め上げた。駅中にあるコンビニで買ったタイ焼きを喰らって、ビールにも手をかけそうになるがそこは堪えた。



 帰り道は坂を上って途中の公園で一休みして水分補給をして、また坂を上った。大学生の頃には毎日通った道だった。若かったからできたことだと身につまされる。

 駅前にできたうどん屋に寄るのは今日お墓参りに行くと決めた時から決めていた。大盛ぶっかけうどんに鶏の天ぷらと野菜のかき揚げをトレーに載せてレジに行くと、やや年配の男性の店員さんから「こんなに食べられるの?」と確認された。心配そうな表情だった。店長さんだろうか。

「大丈夫、食べられる。一口も残さない」

 そう約束してお会計を済ませた。小さい頃、米粒を一粒でも残せばおじいちゃんは許さなかった。完食する為に念のため朝食はおにぎり一つで我慢したのだ。店員さんからはきっと中学生か何かと間違えられたのだろう。グッタリしていると幼く見られてしまうことは、大学時代に急性胃炎で点滴をされた時で存じていた。二十歳だったあの時も「保護者の人は来てる?」と医師から優しく話しかけられた。

 うどんとトッピングを平らげて、ちくわ天も食べたかったと思いながら「ごちそうさま」と店員さんに声をかけた。さっき心配そうだった彼は月並みの礼の言葉を述べながらにこやかに見送ってくれた。


 ちくわ天を食べなかったせいか予定よりも少し早めに帰りのバスに乗れた。空いた座席に座って文庫本を開く。さっきのじいさん足音しなかったな、と頬が緩む。三十三回忌は自身のものだったのだろうか。嬉しそうだった。三十年以上に前亡くなった人だとしたら当時はそんなにじいさんでもなかったのかもしれない。昨日来たというご夫人は幾つになられているのだろう。あの階段を上るのは大変だったことだろう。スロープでも作れば良いのに。そんなことを考えているうちに瞼が重くなる。開いていた文庫本がパタンと閉じるのが判った。いつもならそれで少しは目が覚めるのだが今日は無理そうだ。終点の赤羽まで乗るから構うまい、エアコンの効いた車内で小一時間眠気に委ねることにした。亡き者との接触は消耗するものなのだ。






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