第1話:ツツジ咲く庭で(前編)

 あれから2~3日の間、僕は山へは行かなかった。神さまのことが気になってはいたものの、ふわふわとした夢のような感覚にまるで現実味がわかなかった。父さんと母さんもいつものように家を空けて、特に何をするでもない僕はぼんやりと天井を眺めて過ごす。こんなんでいいのだろうか。

 大学を休学してからというもの目的もなく実家に帰ってきてしまった僕は、窮屈ではなくともどこか居心地の悪い思いを抱えていた。一人立ちしたはずの息子が心身ともに疲弊して帰ってきては、何をするでもなく居座っているというこの状況を、父さんと母さんは一体どんなふうに受け止めているのだろう。僕としては、すごく申し訳ない気持ちになる。このままではいけない。

 今はもう朝も遅いとはいえまだ午前中だ。キッチンには母さんがおにぎりを用意してくれている。それを食べて、今日ばかりはさすがに出かけることにした。よし、と思い切ってベッドから立ち上がり、軽く服を着替えて階下に降りる。キッチンの台の上にはわずかに冷えたおにぎりが2個と、ウィンナー、卵焼き、サラダといったお弁当用のおかずが一緒に盛られた皿が用意してあった。僕はそれを急いで平らげると、飛び出すように家を出た。

 春が終わると一足飛びに夏が押し寄せてくるような気配がする。実際には本格的な夏はまだまだ先だし、まだ梅雨だって終えていないのに、すでに先が思いやられるような暑い日差しが恐ろしい。

 僕は、その臆病な気持ちをなんとか鼓舞しながら、とりあえず町の図書館へ行ってみることにした。


 街は、遠くはあるが行けない距離ではない。少し歩いて最寄りの駅に辿り着き、そこからしばらく電車に乗る。時間にしておよそ1時間半ほどで、田舎にしては比較的近い方だと思う。実際、高校の時は毎日通っていた距離だ。久々ではあるものの行き方はすっかり身に馴染んでいて思い出すのも簡単だった。

 電車に乗ったらあとはのんびりしていればいい。それこそ高校生だったときには、本を読んだり、課題をやったりして時間をつぶしていた。一緒に通う友達なんかは流行りのアニメをスマホで見ていて、面白かったら感想を教えてくれたりした。なんてことのない毎日だった。


 僕は大学ではいわゆる上京組というやつで、中高一貫で上がってきた子たちの中では少なからず疎外感を感じたりもした。寮ではホームシックで隠れて泣いている子たちを横目に見ながら、何でもないように振る舞ってはいたけれど、ほんとはすぐにでも帰りたかった。都会なんかに馴染みはしないと思っていたし、実際まだまだ都会での生活は疲れやすくて苦手だと思う。

 それなのに、家の周りや歩く道々、電車の窓から眺める見知ったはずの風景は、なんだかひどくよそよそしくて、すっかり変わってしまったように思える。

 けれど、ここが記憶の中とはいっさい変わっておらず、また何一つ変わりようもないということは自分が一番よく知っているのだ。本当にこの場所は、こんなに何もなかったのだろうか。昔は田舎という場所の不自由さにうんざりしながらも、隣の人とぶつかることのない程よい広さに安らぎを覚えていたものだった。

 ほんの少しの距離だけで完結してしまえる都会の日常ははるかに便利ではあるのだけれど、同時に狭苦しさを感じて時々息が詰まってしまう。圧倒的な選択の自由と引き換えにして、心の余裕を失ってしまったのではないだろうか。時間はもっとゆったりと過ぎ去っていくもののように感じていたのに、今は分刻みで行動しても間に合わない。

 それでも僕は、やっぱり都会の方がいいと思ってしまう。変わったのは、この場所ではなく僕の方なのだろうか。そうだとしたら少し寂しい。

 そうこうしているうちに街の駅に着いた。見慣れた街の見慣れない風景。なんだか少し新鮮だった。


 街の駅は少し混雑している。都会ほどではないけれど、集まるところには集まるものだし、ついでに今日は土曜日だ。

 スーツ姿の人や制服を着た学生たち、おしゃべりに花を咲かせるマダム、行先もわからない人々が、駅構内を行きかっている。僕は流れに乗って外に出る。

 図書館に行くためにはまた30分くらい歩かなければならない。バスでも行けるけれど、この時間は少し本数が少なくてうまいこといかないものだ。

 日差しは少し強いけれど、歩き回るのに苦労するほどじゃない。帽子もかぶってきたから大丈夫だろう。駅前のコンビニでペットボトルの水を買って、一口ごくりと飲み込んだ後で、僕は思い出を嚙みしめるようにゆっくりと足を踏み出した。


 30分の道のりは記憶よりもずっと長かった。高校生くらいまで、1時間の距離だろうとお構いなしに歩き回っていたのに、少し体力が落ちたらしい。

 役所の近くにある図書館は、四角くて飾り気のない建物だった。駅前にはビルも増えたけれど、少し遠ざかれば2階建て以上の高い建物はほとんど見なくなる。入口を前にしてわずかにためらってしまったけれど、このあたりの郷土文化や歴史資料を調べようと思ったら、まずはここに来るのが定番なのだ。なにもおかしいことはない。

 深呼吸をして建物に入る。エントランスから先がいくつかのエリアに分かれているため、すぐに受付があるわけではない。もっとも、受付を利用するのは書架を案内して欲しい時と、貸出の時だけだ。それ以外で利用することはほとんどないだろう。

 目的のエリアにたどり着いた。郷土文化と歴史資料が保存されているエリアだ。貴重な書物があるため持ち出しは基本的に不可、資料を持ち出したい場合はメモを取るか、必要なページだけ複写依頼を出すことになる。撮影は、OKだったろうか。まぁ、論文を書くわけではないのだし、とりあえず読んで覚えられる範囲で問題はない。

 探すのは「皆瀬村」にまつわる「龍神伝説」の資料だ。大まかな伝承についてはネットにも載っている。昔、水無き村に舞い降りた外つ国の龍によって雨が降り、水多き村になったという物語だ。「皆瀬村」は、もともとは「水無瀬」、つまり水無き村だったというわけだ。もともと水が少なかった土地に対して水の恵みをもたらした龍を、村民たちは神と呼んで祭り上げた。

 五穀豊穣を願って藁で編んだ龍を燃やす「虫送り」、身分違いの恋の末に湖に身を投げ、その後龍になったという姫の話など、龍が絡む伝承や祭祀というのはいわゆるどこにでもある話だと僕は思う。

 しかし、皆瀬村の龍は外から来たのだという。訪れて災いを成すものと言えば彗星や隕石の暗喩とする説があるが、これはどうだろうか。つまるところ、あの人は本当に龍なのか?

 もう一度、あの人の風貌を思い出してみる。そういえば、肌の一部に、黒い光沢があった気がする。あれは、もしかすれば鱗だったのでは。そんなわけないか。記憶が確かだともいえないし、この件はもう一度会った時に確認してみるほかないだろう。僕は、目を閉じて少し溜息をついた。そうだ、秘匿されている存在なのだから、わかる形で答えが残されているはずがない。


「おや、朝陽くんじゃないか。久しぶりだね。」

 急に肩口から声をかけられたことに驚いてしまった。パッと勢いよく振り返ってみると、僕にとって懐かしい人がそこに立っていた。

「やぁ、ごめんね。驚かせてしまったかい?」

「いえ、いや、少し、びっくりしましたけど。」

「すごく集中していたもんね。調べものかい?」眼鏡をかけた短髪の、物腰やわらかそうな男性が立っている。文人あやとさんだ。胸元には「司書:倉内」と書かれた名札がついている。

 僕が高校生の時にこの図書館でアルバイトをしていた彼は、図書館に通い詰めていた僕に折を見て声をかけてくれ、息抜きに付き合ってくれたり、おすすめの本を紹介してくれたりした。互い違いに本を進めあっては、お互いに感想を言い合ったて話し込んだりと、友達の少なかった僕にとっては唯一といっていい気の置けない他人であり、心温まる貴重な時間だった。

「あっ、その、村の伝承について興味があって。」久しぶりに会って気恥ずかしくなった僕は、しどろもどろになりながら彼の質問に答えた。

「そうか。いったいどこの?あぁ、その資料は皆瀬村のものだよね。僕も、その資料なら読んだことがある。」

「え。」

「僕はほら、大学で人文学部だったから、専攻は違うけど教授の影響で伝承系は少しかじったことがあるんだ。あんまり詳しくないけどね。」そう言って左手で耳の後ろを触りながら気恥ずかしそうに話を続ける。

「もしよかったら、調べもの手伝おうか?ほら、久々に朝陽くんと話もしたいし。」 

 ありがたい提案だった。それに、僕も文人あやとさんとは話がしたいと思っていた。文人あやとさんは僕より少し年上だから友達というのは気が引けるけど、心置きなく話せる人なのは確かだから、僕は喜んで提案を受け入れた。

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