第4話 王子は反省する
「ニール」
「はっ、はい?」
ダヴィディアートが呼んだ瞬間に肩を揺らしたニーヴェナルは、恐る恐るといった様子で視線を向けてきた。
家庭教師を見送って、教科書や文献を片付けている最中だ。私室にふたりきりになった途端、親衛隊員は落ち着きのない態度になった。そのわかりやすさに、憤りと同時に悲しさを覚える。
「俺を守るべきお前が、俺を警戒してどうする」
「そ、そんなつもりは」
「ないと言うならこちらにこい」
それは確かに命令だったが、彼は最初の一歩が踏み出せないようだった。あからさまな警戒に小さく溜め息をはきだしたダヴィディアートは、肩を落として目を伏せた。
ニーヴェナルが警戒している理由はひとつしかない。つい数日前、寝室に引きずり込んで押し倒してキスをしたからだ。合意ではなかったと反省はしている。一応。
「このあいだは悪かった」
「……え?」
「あんなことでお前に嫌われてはかなわない」
こうやってふたりきりになったのは、あの日から初めてだ。どうやら親衛隊長が何かしらの配慮をしたらしく、ニーヴェナルが単独で護衛につくことはなかった。そのおかげで、己がやりすぎてしまったことを理解した。
心の底から欲しいと願ったものを、急いたせいで取り上げられるなんて愚かなことだ。
正直さは美徳だと言われるが、真正面から挑んでも攻略できないものもある。それを知った。ほとんど積めていない経験は、先達の助言で補うことができた。
抗いがたい衝動はあるけれど、己の望みに一番近い形で手に入れるためには、ある程度の我慢は必要だ。我が儘を許される立場ではあるが、それも使いどころを見極めなければならない。
十六という己の年齢を歯がゆく思っていたが、逆手に取れるのだと知った。くだんの先達の分析によれば、それなりに効果は得られるだろうということだ。
だから、らしくもなく肩を落として消沈をみせていた。弱みをさらすことは恥ずかしいけれど、幸いにもこの場にはニーヴェナルしかいない。らしくない、だなんて疑われることはないだろう。
それに、嘘をついているわけではないのだ。実際、ニーヴェナルに避けられるのは心底堪えた。好きな相手に嫌われることほど怖いことはない。
「嫌いになど、なりません!」
「では、怒っているのだろう?」
「う。いいえ、驚いただけ、ですよ」
ちらりと見上げれば、ニーヴェナルはバツの悪そうな顔をしていた。逡巡がみてとれる。それから、ゆっくりと緊張を解いていった。
けれどもまだ距離がある。あいだに挟んだデスクは心理的な壁も同じだ。
「……お前に嫌われたくは、ない」
ダヴィディアートは視線を落とし、小さな声でこぼした。自分でも驚くほど寂しそうな声音で、弱みをみせているようで恥ずかしくなった。
近くに呼んだからといって、何をするつもりもない。ただ、遠巻きにされて、避けられているのだと突きつけられることが耐えられなかった。言葉ではなんと言おうとも、一度裏切ってしまった信用を取り戻すのは難しいのだ。
「嫌いません」
不意に影が差したかと思えば、足先にまで近寄ってきたニーヴェナルが跪いた。顔を伏せていたのに視線が絡みあう。黄色みの強い瞳が優しく細められ、彼は輝くような微笑でダヴィディアートを見上げていた。
「僕はあなたの親衛隊ですよ」
剣士にしては細い指が、俺の手を取った。身長は彼の方が高いけれど、手の大きさはそう変わらないのだと初めて知った。
「最初に膝を折ったあの瞬間から、僕はあなたの味方です。何があろうと、あなたを嫌ったりしませんよ」
その視線と表情は、叙任式で見たものと同じだった。忠誠心に満ちた誇らしい顔だ。
ニーヴェナルはダヴィディアートの指先に触れるか触れないかのくちづけをした。それから、ちらりと上目遣いでウィンクを送られる。
ああ、なるほど。これでは城勤めの使用人たちの恋心を奪うわけだ。
笑顔が眩しい。気障ったらしいと蔑むことも憚られる。あまりに様になりすぎて、むしろ感心してしまう。
初めてニーヴェナルを見たときに瞳を奪われたのは確かだが、ダヴィディアートは羨望を抱いて憧れるというより、彼の美しさを我が物にしたかった。独占欲や支配欲のほうをより刺激される。どうしてなのかは、今でもわからない。
ほとんど衝動的に彼の手首を掴んで引き寄せ、すがりつくように抱きしめた。体格差が悔しい。けれど、瞬間的に逃げられたりしないことに安堵する。
「で、殿下!?」
「……よかった」
欲望を腹の奥に隠して、ダヴィディアートは囁いた。少なくとも嫌われてはいない。それを知れただけでも充分だ。
「大丈夫。嫌いになったりしませんよ」
母親が子供をたしなめるような、兄が弟妹をあやすような、ニーヴェナルの声と背中をなでる仕草にはそんな気配があった。子供扱いは癪に障るけれど、彼の首筋に顔を埋められただけでたまらないので、反感は見ないふりをする。
「お前は俺のものだ」
こらえきれずに漏れた本音は、唇の中でくぐもってまともな音にはならなかった。今はまだ、彼に聞かせたいわけじゃない。
「殿下? ダヴィット様?」
主の言葉を聞き漏らすまいと尋ね返してくるけれど、伝えてやる気は毛頭なかった。せいぜい俺のことを子供扱いしておくといい。
ダヴィディアートは自然とつり上がる唇の動きを隠すべく、抱きしめる腕に力をこめた。
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