第2話 隊長は呆れる

「やあ、サリカ。お疲れ様……?」

 カルマヴィア王家親衛隊の隊長であるヴァリアンテは、王城の廊下のすみに蹲る赤銅髪の青年に声をかけた。

 ブーツの紐でも直しているのかと思ったのだが、長い足を折ってしゃがみこみ、頭を抱えている。情けなすぎる姿に、一瞬だけ近寄ることが憚られた。いくらなんでも、栄えある親衛隊員がしていい体勢ではない。

「立て、ニーヴェナル・サリカ」

 隊長として命令を下せば、彼はびくりと肩を揺らして瞬時に立ち上がった。踵を合わせて直立する姿は、訓練された兵士のそれだ。

 だが。

「……なんで泣いてるの」

「た……、隊長……」

「え? なに? ちょっと、君、ほんと何? どうしたの」

 ニーヴェナルが近衛兵時代にファンクラブがあったほどの美形だということは、ヴァリアンテも素性調査をして知っている。スカウトしたのもヴァリアンテだし、新人教育の大半を行ったのもヴァリアンテだ。

 ニーヴェナルは優秀だった。美貌を鼻にかけることもなく、親衛隊員に相応しい性格と性質を備えていた。いつも爽やかな好青年が、視線を送られるだけで腰が砕けそうだとメイド達に評判の瞳を赤く染め、涙を浮かべている。どことなく肩も震えている。こんな姿を誰が想像できるだろう。きっと誰も見たことないんじゃないかなぁ、なんてヴァリアンテは半眼になった。

「殿下が――いいえ、あの……、僕が……」

 ヴァリアンテを見下ろす美貌の青年は、柳眉を寄せて必死に落涙を耐えていた。これが演技か何かであれば、表彰ものだろう。

「親衛隊はそんなにつらい?」

 親衛隊員は騎士の中の騎士だ。主と騎士の双方が望まなければ主従契約は結ばない。裁判官になるよりも厳しいのが親衛隊の面接試験だ。それを突破した騎士が、そう易々とへこたれるはずがない。

 そうは思っていても、ニーヴェナルは確か二十五か六歳くらいだったろうか。三倍以上年上のヴァリアンテにとっては孫みたいなものだ。新人に甘くなってしまうのは致し方ない。

「泣くほどの何があったの?」

 優しく問うと、ニーヴェナルの両目からついに涙が滑り落ちた。耐えられなくなったのか、ひとまわり小柄なヴァリアンテに縋りつく。本当に子供みたいだ。

「ご、ごめんなさい……、ごめんなさい……っ」

「いいけどね、場所は考えて。ほら、ここは廊下だから。ちょっとこっちおいで」

「うええ……」

 ニーヴェナルは元軍人にしてはずいぶん細身だが、カーマ男性の平均身長と剣士としての筋肉があるせいで、それなりに重い。ヴァリアンテは苦労しながらその青年を引きずって、近くの空き部屋に押し込んだ。王族の私室に近いと備品倉庫も広くて清潔だ。

 とりあえず予備の椅子に座らせてハンカチを貸してやると、ニーヴェナルはしくしくと泣きながら肩を落とした。親衛隊員にあるまじき感情的な姿だなと、心の中で溜め息をもらす。叙任されてから一年程度は新人として甘めに評価してやろうと決めているので、叱責をする気はない。

「それで?」

「……う」

 鼻をすすりながら顔をあげたニーヴェナルに色男の名残はなかった。子供をあやす親の気持ちで微笑んでやれば、緊張の糸が切れたのか彼はさらに泣き出した。困ったな。

「ニール、ニール、大丈夫だよ。事情を話してごらん」

「ダヴィディアート王子が……、殿下は、その……」

 ニーヴェナルが親衛隊員になった経緯を間近で見ていたのがヴァリアンテだ。彼の主であるダヴィディアートがどういう王子なのかも知っている。

 あの聞き分けのいい、我が儘ひとつ言わず、ただ従うだけだった王子が、初めて何かを欲しがった。それがこのニーヴェナルだ。ひ孫みたいな子供の願いを叶えたいと思ってしまうくらいに、ヴァリアンテはカルマヴィア王家に長く仕えている。それに、何より喜んでいたのは、選ばれたニーヴェナルの方だったと記憶している。

 はたしてダヴィディアート・カルマヴィア王子は、己が望んで得た親衛隊員にどんな難癖をつけたのだろう。

「ダヴィット様がどうしたの」

「……押し倒されて、キスをされました」

 ハンカチの隙間から漏れてきた声に、ヴァリアンテは耳を疑った。思い切り素の声で聞き返してしまう。

 誰が、誰をだ。

「王子に、ベッドに引きずり込まれて……」

 思わず声に出ていたらしい。素直に答えたニーヴェナルは、またしくしくと涙を流した。

 馬鹿言うんじゃない。君なら慣れてるだろう。適当にあしらってやりなさい。

 喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、ダヴィディアート王子について改めて思い直す。

 十六歳になったばかりの王子は、カルマヴィア王家らしい小柄な体格の少年だ。いいや、十六ともなれば少年と余部には大人だろうか。声変わりは済んで、男性らしい体つきになる中途といったところだ。

 彼の父はそれなりに長身だからまだ成長の余地はあるけれど、兄のジョルジヴァート王子は祖父である王配に似て小柄だった。ダヴィディアートがどう育つかは未知数だ。

 黒みの強い朱殷(しゅあん)色の髪と、赤紫色の瞳。カルマヴィア王家に相応しい、魔を帯びた美しさは隠しようがない。ただ、やはりまだ子供だとも感じる瞬間もある。

「軍属や親衛隊員が未成年に対して性的接触を行うのは重罪だよ」

 カーマ王国の成人年齢は十八歳だ。性交同意年齢は十六歳ではあるけれど、それはお互いに同じ学生だとか、年齢が近い関係に限られる。カーマは魔族を祖とする国なので、性にはわりと寛容ではあるけれど、子供を守ることに関しては何よりも厳しい。少なくとも二十六歳の立派な成人男性が十六歳の少年に手を出せば、許されることはほとんどない。

「ちがッ、違います! 逆です! 僕が、殿下に襲われたんです!」

「……は?」

 ヴァリアンテはやっぱり素で尋ね返した。

 ダヴィディアート王子の好みのタイプはニーヴェナルのような青年だったのだろうか。王位継承権があっても彼が王座につく可能生は限りなく少ないので、恋愛方面に対する教育はなおざりにしていた。親衛隊を求めた熱意と執着に情熱は感じたけれど、子供だからと侮っていたことは事実だ。

 いや、現実逃避はいけない。襲われた側であっても、子供相手なら拒絶するのが大人というものだろう。もっとも、ニーヴェナルの様子をみると必死に拒絶したのだろうが。

「仮にも親衛隊員が、情けない。百戦錬磨の君なんだから、少年の過ちくらい軽く諫めてやりなよ」

「誰が百戦錬磨ですか!」

「君だよ君。親衛隊員の中で君ほど恋の噂が流れまくってるのなんて、いないんだよ」

「誤解です! というか、その辺のことも面接の時に根掘り葉掘り探ってきたのは隊長じゃないですか。それに、どこの世界に、年下の主に対して貞操の危機を覚えろっていうんです⁉」

 年下云々に関して痛くもない腹を探られた気持ちになったヴァリアンテは、よぎった考えを振り払った。己の二十代を思い出して、あの頃はずいぶん頭が固かったんだな、と過ぎ去った年月を愁う。

「……あまり表だって言うことじゃないけど、一度抱いてやるくらいなら目をつむるよ。親衛隊員の業務に夜伽指南がないでもないし」

 幼児に手を出すなら絞首刑ものだが、ヴァリアンテの判断ではダヴィディアートが性交を試すにはそこまで咎める年齢ではなかった。合意のペッティングならなおさら目くじらを立てるつもりもない。

 何より、王族の教育のひとつとして、性交渉が含まれている。主に座学に留まるので、実地体験を行うかどうかはその時時によるが、暗黙の了解というものは存在した。

 カルマヴィア王家の王族など、生涯が幽閉生活のようなものだ。結婚相手も限られてくるし、恋愛などできるはずもない。せめて想いをよせる相手がいて、それが親衛隊員であるのなら、叶えてやるくらいの温情はかけようと思っている。

「逆です逆! 僕に抱いてほしいと迫ってくるなら、まあ、なんとでもかわすことはできますよ。子供相手に勃つほど節操なしでもありませんし、下半身で物考えちゃいませんからね」

 ニーヴェナルはすっかり涙が止まったようだった。しおらしさは消えて逆切れしている。

 ヴァリアンテはちらちらと下町出身の語彙を耳にして、懐かしくなった。ニーヴェナルを憎めない青年だと思うのは、いくつか己との共通点があるからだろうか。

「抱かせろとか、それこそ言われ慣れてんじゃないの?」

「なんで誰も彼もそう思うんですか。今まで僕を抱きたいなんて迫ってきた相手なんて、いませんでしたよ」

 きっと嘘ではないのだろう。泣くほどだから、本当に初めてのことだったのだ。

 ただ、まあ、きっと、そんな誘いを投げかけられた相手が仕える主でなければ、ここまでの衝撃は受けなかったに違いない。ニーヴェナルは良くも悪くも王族に夢と愛と敬意と憧れと畏怖を抱いている。

 ヴァリアンテは隠しもせず溜め息をついた。面倒くさいなと感じてしまった。

「ダヴィディアート王子の目は、本気でした。あれは、雄の視線だ……」

 身震いするように囁いて、ニーヴェナルはまた銅色の瞳に涙を浮かべた。

「……実家に帰りたい」

 あまりに情けない嘆願は聞かなかったことにする。しくしくと泣き出してしまった青年を見下ろして、ヴァリアンテはとりあえず、ハンカチが返ってくることは諦めた。

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