第1話 親衛隊員は追い詰められる

 ニーヴェナル・サリカ。現在、二十六歳。

 彼は一番新しくカルマヴィア王家親衛隊に入隊した青年だ。赤銅色の艶やかな髪、美しいアーモンド型の双眸は黄色の強い銅色の瞳が輝いている。すらりとした体躯にカーマ人らしい長身。柔和な笑みを絶やさない美貌。一介の近衛兵だったにもかかわらず、彼は当時から絶大な人気をほこっていた。

 彼の出自に特筆する点はない。元々武人を輩出する名家だとか王家の傍流だとか、噂されているような珍しさはなく、王都カーマの中でも外周に近い下町の生まれで、義務教育を終えてすぐに働きに出されるような貧しい家で成長した。

 ただ、剣技に秀でていたので奨学金を得て王立士官学校への入学が許された。優秀な成績で卒業した彼は赤狼マルコ師団に入団し、規定の訓練期間を終えてから、近衛兵として配属された。王城の近衛兵は花形だ。求められる条件は多いが、ニーヴェナルはその全てをクリアしていた。

 彼が優れているのは容姿だけではない。腰に佩いたギュスタロッサの剣をして、その剣技と実力の証になる。ただ、顔も身体もあまりに整っているせいで、剣を交えでもしなければ正当に評価されない点だけが不遇かもしれない。

 ニーヴェナルは己の容姿の影響をある程度は理解していたが、本人は思い上がることもなく誠実を絵に描いたような男だった。だが、人柄と美貌のせいで恋の噂は絶えず囁かれ、同じくらい恋に落ちる男女の数も多かった。実際に休日ともなれば、彼の隣には美男美女が佇んでいる姿を見る者も多く、だから真偽はさておき、恋多き青年なのだろうと思われている。

 やっかまれることも多いが、彼の顔と人となりを知ってしまえば、嫉妬するほうがおこがましいと恥じるくらいだ。ニーヴェナルという男は、そういう好青年だった。

 そんな彼が王家の親衛隊員に選出された。内定の噂も流れず、本当に突然の抜擢だった。親衛隊は近衛兵よりも高みの職だ。騎士の中の騎士だ。なりたいと願ってなれるものではない。

 誰もが驚き、そして納得した。近衛兵の制服も素敵だけれど、親衛隊の騎士服にはかなわないと。手の届かないところへ行ってしまうけれど、ドコの馬の骨かもわからない相手とまとまるより、王族に仕えている方がマシだわ。なんて、王城に勤めるメイドたちは囀っている。

 親衛隊員になれることをニーヴェナル本人が感激し、ふたつ返事で了承したという。きっと彼はこれから華々しい道を歩んでいくのだろうと、誰もが信じていた。



 だというのに、事実は小説よりも奇なり、だ。

 ニーヴェナルは生まれて初めて、絶体絶命の状況に追い込まれていた。悲鳴を上げてみっともなく逃げ出してしまいたいけれど、親衛隊員として仕込まれた矜持がすんでの所で留まらせている。

「ダヴィット様! 待って! 殿下! ダヴィディアート殿下! 頼みますから落ち着いて!」

 まあ、実際、みっともなく叫んでいたが。

「騒ぐなニール。それでもお前は親衛隊員か」

「僕だって好きで叫んでません!」

「誰かに見られて困るのはお前だろう」

 わかっててやっているのなら、よほどタチが悪い!

 ニーヴェナル・サリカ。二十六歳。

 彼は親衛隊に入隊し、厳しい研修を終え、守るべき主として紹介された十歳も年下の王子によって追い詰められていた。

 王子の名はダヴィディアート・カルマヴィア。女王の孫で、上には兄がいる。王位継承順位は五位と低いが、彼には王座に連なるよりも重要な役割が与えられていた。

 ニーヴェナルは近衛兵として王城で勤めていたさいに、女王を筆頭として何人ものカルマヴィア家の王族を見ていたが、仕えるならダヴィディアート殿下に膝を折りたいとずっと夢をみていた。他の誰よりも、王子が内に抱える魔の濃さに震えたから。

 叶わないだろうと思った夢が叶ったことは天にも昇るほど嬉しいが、その王子に追い詰められることになろうとは、近衛兵だった頃には思いもしない。押し倒されている今ですら夢じゃないかと己の正気を疑ってしまう。

 ニーヴェナルは仕えるべき主の私室の寝室、そのベッドの上で這いずっていた。

 こちとら剣位持ちだぞ。体重だって僕より軽いはずなのに、殿下はどうして僕を押さえ込めるんだ。誰だ守るべき殿下に関節技なんて教えたのは!

「殿下、後生ですから、まずは話をしま――」

「黙れ」

「んんッ……!」

 半泣きの美貌の青年は、その主によって文字通り黙らされた。唇で。

 羞恥だとか罪悪感だとか危機感だとか、あらゆる衝撃が駆け抜ける。攻撃呪術にでもかかったみたいに動けない。

 これが守るべき主でなければ、力に物を言わせて止めていた。見た目がどうあれ下町育ちなので腕っ節は強い。何より剣位持ちで現役の軍人だった男が、子供にキスをされて逃げられなくなるはずがない。

 もっと熟練の親衛隊員ならば、きっと上手く立ち回れるのだろう。笑いながらあしらったり、もしかしたら叱ったりできるのかもしれない。だが、ニーヴェナルは親衛隊員として新人も新人だった。正式に叙任されてからまだ二か月だ。近衛兵だった頃の感覚が完全に抜けきってはいない。カルマヴィア王家の王族たちは雲の上の存在で、ひと目見るだけで緊張に手が震えてしまう。

「……思った通り、お前は愛らしい」

「な……ッ、むぐ」

 ダヴィディアート王子は濡れた音を響かせて、一度唇を離した。頭の中で混乱が渦巻いていたニーヴェナルは、王族といえど少年である王子の言動に固まってしまった。

 二十六歳の、それなりに上背のある男を、愛らしいなんて表現する少年がいるのか。王族の感性は一般市民には理解できない何かがあるのかもしれない。

 驚きすぎて逃げ出す隙を逃した。

 技をかけられて押さえ込まれていた一度目とは違い、二度目のくちづけはもっと情熱的だった。思いのほか強い力で顎をつかまれて、苦言を投げようと開いた唇に舌がさし入れられる。

「……は、……ふ」

 これはもう、親愛と呼べる範囲を超えていた。十六かそこらの、学校にも通わず城下町へ遊びに出ることもない正統王家の王子が、こんなキスをどこで教わってきたというのか。

「ずっとお前がほしかった」

「え」

 抱かせてくれと囁かれ、危機感が最高潮に到達する。この少年は今なんと言ったのだ。いくら性に興味がありすぎる年齢とはいえ、あまりに直截すぎる。

 いや、待ってくれ。

 抱かせてくれ? 誰を? 殿下は誰かと僕を勘違いしてるのか?

「俺の可愛いニール」

 うっとりと熱を帯びた声色は、低音を紡ぐにはまだ子供の名残を残している。だが、少なくとも勘違いではなさそうだ。その方がより衝撃的すぎて、頭が真っ白になる。

 ニーヴェナルが完全に固まってしまったのをいいことに、ダヴィディアート王子の暴挙は止まらない。激情をぶつけるようなキスは、あまりに淫らだ。

「ダヴィット殿下、そろそろお時間で――おいおい、何やってんだニーヴェナル」

 僕がしているんじゃない!

 呆れた声を隠しもしない先輩親衛隊員が呼びにきてくれたおかげで、ニーヴェナルの貞操は守られた。ダヴィディアートはしぶしぶ退けてくれたが、果たして本当に助かったのかは疑問だ。職務放棄と責められても反論できない勢いで後のことを先輩に任せ、走る直前の素早さで王子の私室から逃げ出した。

 ニーヴェナル・サリカ。二十六歳。

 この日彼は、歳も身長も十も下である、生涯仕えるべき主人によって、生まれて初めて身の危険を味わわされた。

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