第4話 推しがいる生活

 気付くと口元が緩んでいる時がある。誰かに見られてしまったら取り繕うのが大変なので、気を付けないといけないのだがどうしても抑える事ができない。


 ここ最近、足取りも軽い。おまけに嫌な仕事でも苦にならない。苦になるどころか握手会のネタが出来たではないかと嬉しくなってしまう。


 僕みたいな人間ではあんなハイスペック女子と付き合えるわけないので、笑顔を向けてもらえるだけで十分だ。


 色々意見はあるかもしれないが、僕にとって握手会とは神イベントだ。


 普通の恋愛と違って女性に過度に気を使うことはないし、合わないと思ったらその娘には握手しに行かなければいいだけだ。楽な関係である。


 家に届いた大量のCDを見て、『バカだな〜』と思いつつも口元の緩みをを抑えることができない。


 離婚したばかりなのだが、入っていた保険を解約した分もあったりするので実は懐が少し潤っていたのだ。


 財産分与もなかったので全部使い切ってやろうと思っている。


 元妻は顔は綺麗なのだが家事などは全くしないぐうたら妻だった。仕事に出かけるようなこともなく一日中ゴロゴロ。


 朝、僕が作った朝食をお昼ぐらいに起きてきて食べ、僕が帰るまでにお腹が空いたら買い置きしてあるお菓子を食べる。そんな日々を送っていた。


 僕は帰るとお風呂の掃除をし、妻がお風呂に入っている間に洗濯機を回し、食事の用意を済ませ、妻が食事している間に、干していた洗濯物を取り込み、今日の分を干して夕食を済ませ後片付けをし、入浴し、寝る。という生活を繰り返していた。


 掃除は休みの日だけ、まあ自動掃除機があったのでそれほど汚れてはいなかったと思う。


 無視されているわけでもないし、会話はあったので1人の生活よりはマシと思い続けていたのだが、ある日、妻に謂れのないことでキレられた瞬間、緊張の糸が切れてしまい離婚する運びとなった。


 まあ僕なんかが、あんな綺麗な人と結婚できるなんてそんな上手い話はないと思っていたんだ。切り替えてアイドルオタとしてこれからは生きていこうと思う。



 次に参加する個別握手会の作戦はこうである。


 前回、頭の回転がいいなと思った娘を中心に回る予定だ。その娘はグループ内の人気が、中盤あたりなのでまだ3部制だ。各部14枚ずつ購入し、気分屋さんの娘、色白の娘、萌えキャラの娘をそれぞれ1枚ずつ購入した。


 合計45枚のお買い上げだ。本当にいいカモです。


 頭の回転がいいなと思った娘を推しにする予定である。各部が開始したら他の娘のレーンに行ってから、推しの娘のレーンに居座る予定だ。


 こんなに枚数買ってしまって会話が持つかどうか心配だが、まあなるようになるだろう。


 会場に到着すると前回ほど混んでいないようだった。これもあるあるとのことで、CD発売後の最初の握手会と最後の握手会が混みやすいのだそうだ。


 会場内に入ると人気上位のメンバーのレーン以外はスッカスカだった。


 まず一番最初に気分屋さんの娘のレーンへと向かう。待機列からチラチラと見えるその表情は、どうやら今日は機嫌が良さそうだ。

 そして今日も最上級の可愛いさだ。ホント可愛いなー、気立ての良い性格だったらなー、ここのレーンの主になってもいいんだけど。

 今まであの娘とはまともな握手会はできていない。今日こそはと思い、いざレーンの先へ。


 こんにちはー、と言って勢いよく手を差し出し握手しようとしたら、手を引かれてしまった。


 ??


 やっぱりこんなオジさんの手には触れたくないのだろうか。寂しい気持ちが込み上げてくる。


「今日お弁当2個も食べちゃってー、偉い人に怒られちゃったのー」


 思わず拒否反応が出てしまったのを誤魔化すためだろうか、何やら失敗談を話し出し取り繕おうとしてきた。


 後から聞いた話なのだが、ピアノの練習で指を酷使していたのであまり強く握られたくなかったので、そういう反応になったとのことだった。


 別にオジさんだからというわけではなく、皆さんに同じような対応だったらしい。それならそうと先に案内を出してくれればいいのに、、。


 どれだけ悲しい気持ちになったことか。



 その悲しい気持ちを抱えたまま推しのレーンへ。


 「握手会楽しんでる?」


  いきなり掛けられた言葉に驚いて固まってしまった。テンションが低めだということを察したのだろうか。

 なんて気立てのいい娘なのだ。たったその一言でテンションMAXになってしまった。もう天使にしか見えなかった。


 自分がこんなに単純なヤツだとは思ってもみなかった。レーンを出る時、僕はどんな顔になっていたのだろうか。間違いなくアホ面だったと思う。


 興奮冷めやらぬうちにループし再び推しのレーンへと急ぐ。


 1枚の握手券で10秒弱握手することができる。1枚出してもう一回並び直して握手するのもいいし、まとめて数枚出しても大丈夫だ。何十枚もまとめて出す場合は最後の方に回った方がいい雰囲気になっているが、基本出し方は自由だ。


 レーンにはほとんど待機している人がいなかったので、1枚出してまた並び直してを繰り返し、そのレーンにずっと居座り、レーンの主になってやろうと思っている。


 なので、1度目の握手を終えるとループしてまた直ぐ並び直し、レーンの先へと進んでいく。


 直ぐにまた同じ顔が入ってきたので推しは驚いた様子を見せた。


「今日ちょっと多めに券取ったのでいっぱい来ます」


 そう伝えると。


「本当にっ!ありがとー」


 オーバーすぎるんじゃないかと思うほどのリアクションをして、キラキラと輝く目をこちらに向けそう言ってきた。


 本日最初のキュン死となりました。


 他のレーンに行ったりしてないで、もうこの娘を単推しにしてオタ活していった方が楽しめるのではないかと思った。


 14枚持っていたのだが特に話す内容に困ることもなく、あっという間に券を使い切ってしまう事となってしまった。推しとの楽しい時間は本当にあっという間に過ぎ去ってしまった。


 まだ終了まで20分以上残っている。これってもしかして、もっと取っても大丈夫なんじゃね?



 次の部もまず最初に推し以外のレーン、色白の美白美人のあの娘のレーンへと進んでいった。

 開始間もないというのに多くの人が並んでいる状態だった。推しの娘とは違い、相変わらずの大人気っぷりである。


 握手を終え推しのレーンに到着すると、いつも通りのスッカスカだった。


「こんにちはー、相変わらず流行ってないねー」


「わるぅ〜、ございましたねぇ〜」


 一度吹き出した後、苦笑いを浮かべながらそう言ってきた。なにー、その言いかたー。可愛いすぎるんですけど。

 ていうか、若い女性が使うような言葉じゃなくない?でもなんだか、距離が縮まったような気がして少し嬉しくなってしまった。


 また直ぐに並び直しレーンの先へと進む。


「さっきさー、フロアで転んでいる人見かけたんだけど、そういえば体力測定企画の時に盛大に転んでたヤツいたよね?あれ誰だっけ?」


「私だよっ!」


 何その反応!こわっ!でも可愛い!


 距離が縮まった気がしたので、テレビの企画の体力測定で推しの娘は張り切りすぎて盛大に転んでいたので、それをイジった感じのことを言ってみたら強めのツッコミが返ってきた。


 なんかちょっと楽しい遊びを覚えてしまったかも。


「なんかさー、◯◯さんと一緒にMC任された時、異常にテンパって何言ってるか分からないヤツいたよね?あれ誰だっけ?」


「それもアタシだよっ!」


 今度は拳を振り上げる仕草までしてきた。可愛い〜!


「スーパー小学生とドッチボールをする企画で、直ぐに当てられて、、」


「それもアタシだっ!」


 直ぐに当てられて転がってたヤツいたよね?と言おうと思ったら言い終わる前に握手している手を振り払われ怒られてしまった。


 推しメンを怒らせて強めのツッコミを貰うという、そんな変な遊びを覚えてしまったこともあり、この部もあっという間に14枚の握手会券を使い切ってしまった。


 美白美人の娘のレーンで時間が掛かって、だいぶ遅れて来たにも拘らず時間内に使い切ってしまった。これはいよいよ買い足さないといけないかも。



 次の部もまず他の娘のレーンから始めようと思い向かって行った。最初の握手会でパンチをしてきたあの娘だ。

 ここ最近、ぶりっ子キャラと不思議なことをいうキャラが完全に定着してきている。


 元来の綺麗なルックスもあり人気は急上昇してきていて、美白美人の娘とクールビューティの娘と合わせてトップ3なんてオタ界で言われている。


 また来ますねー、頑張ってください。と伝えると。また来てねー。と萌え萌えの声と仕草で返してくる。


 可愛いけどなんか違うような気がする。


 すっかり推しの反応にハマってしまっているみたいだ。


 可愛い反応だけではなく、ツッコミも入れて欲しい感じになってきてしまっている。もしかして実はM体質だったのだろうか。



 本日最後の推しとの握手はまとめ出しにしてみる事にした。ただ14枚全部まとめて出すのではなく、何度か回って来た後に数枚まとめて出す事にした。


 何度かループし、人がいなくなったのを見計らって最後の握手へ向かう。


「今日はありがとうございました。楽しかったです」


「いえいえ」


 以前、歌や、ダンス、笑顔でたくさんの人からありがとうって言ってもらえるようになりたいとか言っていたので、なれるようになったんですかー?と聞いてみたらやや顰めっ面になり。


「ちゃ、ん、とー、な、れ、て、ますー」


 っと嫌味ったらしい顔をしながら言ってきた。可愛い。


 あれ?最後は真面目な質問だったんですけど?まあいいか。今日は1日中ずっとそういう流れだったからしょうがないね。


 あー、終わってしまったー。会場を出ると現実世界に引き戻されたようで虚無感が襲ってきてしまった。


 これはまた来るしかないよね。

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