コバルトブルーの水槽

菅原 或サ

コバルトブルーの水槽

 弛い。午後の授業にはそんな言葉がよく似合う。それが社会の授業となると尚更だ。皆、初めから眠気に抗うことを諦めている。空気は、どろりとした質量を持ち、エアコンの風が下着に染み込んだ汗を乾かしていく。還暦を迎え、再雇用で母校に舞い戻ってきたと言う白髪の男が、念仏のようにぶつぶつと教科書を朗読している。その声はひどく不明瞭で、断片的にしか聞き取ることができない。

 そんな中、私の目は冴えていた。最後尾の席から教室を見渡すと、各々がオリジナルな方法で午睡という名の深淵へ身を投じていることが見て取れる。突っ伏している者、船を漕ぐ者、瞑想のようにそっと目を閉じている者、シャープペンシルを握りしめている者。実に多種多様である。共通しているのは、皆午後2時の陽光に、その顔を照らされていることだ。と、こうゆう愚にもつかないことを観察していたら、自然と目が冴えてきてしまった。

 やがて、観察にも飽きてくると、私は頬杖をつき、窓の外に目をやった。そこに切り取られているのは、息を呑むような原風景であった。幼稚園児が、何も考えないで絵の具をぶちまけたように鮮やかな青空に、プレーンの積乱雲がそっと乗っけられている。中庭の伸びすぎた芝生の中に、ぽつりと顔を出している白詰草の群生。その上をけんけんぱをするように、二匹のすずめが跳ね回っている。

 例年よりも長かった梅雨が明け、今では屋根を打つ雨粒の音が懐かしく思えた。夏はいつも、気づいた時には目の前にいて、そして次に気づいた時には私の横を過ぎ去っていく。毎年のことだが、いまだに慣れない。

 そんなことを考える私をよそに、窓の外では二匹のすずめが元気に遊び回っている。鬼ごっこをしたかと思ったら、プロレスごっこをするかのように空中で戯れ合う。ちゅんちゅん、と言う軽快な声が、透明なガラス板を通して、かすかに聞こえてくる。そんな彼らの声が、冷房の効いた教室に、少しだけ夏の蒸し暑い空気を吹き込む。強烈な夏草の匂いや、目を刺すような日差し、コンクリートから生える蜃気楼。そんな情景が頭の中に描き出される。

 私はおもわず目を閉じる。そして、そのまますずめになる。

 体が激しく揺れ、心拍数が上がる。さっきまで感じていた腰や肩の痛みもない。自分が起こす風が、全身の羽毛を渦のように巻き上げている。幼子の時のように、地球を肌で感じる。目の前では、さっきまで眺めていた二匹が、鬼ごっこをしている。私は思わず、彼らを追いかけようと、羽をぴたっと体につけて、急降下する。そんな私に気付き、二匹は逃走を始める。夏の青と白と緑が全て混ざりあい、やがて私のことも飲み込もうとする。夏臭い風が、これでもかと言わんばかりに鼻腔へと迫ってくる。鋭い嘴で裂かれた空気の悲鳴が聞こえる。二匹との距離が少しずつ縮まっていく。高速で上下する羽根が、トランポリンのように体を揺らしているのが見える。濃厚な獣の匂いを感じる。あともう少し、もう少し。

 嘴でその尾を掴む。まさにその瞬間、視界の端に見慣れた顔が見えた。一瞬だったが見逃すはずがなかった。私だ。私の顔だ。思わずスピードを緩める。追いかけられていた二匹はちらっと私の顔を見たが、そのうち興味をなくしたように飛び去っていった。小さな心臓が、はち切れんばかりの速度で脈を打っているのを感じる。私は私と目が合う。頬杖をつき、退屈そうな目をしている私。磨かれた窓に反射した陽光が、教室の中のコバルトブルーを映している。私はそこに、巨大な水槽が空中に浮いているかのような錯覚を見る。空中に浮かぶ巨大な水槽。その中にいる私は何を見ているのだろう。

 がくんと頭が揺れる。口の中に苦味が広がり、血液が重い。気づかないうちに寝てしまっていたらしい。不自然な姿勢で寝ていたせいか、体の節々が痛む。小さくため息をつき、軽く痛む頭を持ち上げる。教室の風景さっきとほとんど変わっていない。突っ伏している者がいて、船を漕ぐ者がいて、瞑想のようにそっと目を閉じている者がいて、シャープペンシルを握りしめている者がいる。相変わらずぶつぶつと念仏が聞こえる。

 そんな変わらない世界の中でも、私の中には、飛躍の感覚が艶かしいほどリアルに残っていた。急降下の時の心臓の高鳴り、耳が張り裂けんほどの風の音、獣の匂い。私は思わず手を見る。そこに羽根はない。綺麗に切り揃えられた爪に病的なまでに白い腕。そこに似合わないほど青い血管。いつも見ている私の腕だ。でも、私はそこに、かすかな違和感を感じ取る。かすかに、でも決定的に何かが変わっているような気がする。それが何かはわからない。でも、妙な安心感がある。例えるなら、嵐の日に目を覚まし、鋭く目を刺す白々しい光ではなく、弱々しい青白い光に包まれた部屋の中で、窓に打ち付けられる暴風と雷雨の音を聞いた時のような。

 もしかしたら、と私は思った。もしかしたら、この違和感は、あのスズメとしての私からのプレゼントなのかもしれない。かつて自由だった私が、やがて水槽の中へ押し込められ、何年も何年も青色の水に溺れているのを見て、せめてもの救いにと、私の細胞の隅々まで、夏を送り込んでくれたのかもしれない。そう思うと、相変わらず溺れていることには変わらないけど、でも、少しだけ息苦しさが抜けたような気がした。

 そうだ私もいつか、この狭い世界を抜けて、あのスズメのように、自由な世界へと飛び立てる日が来る。そのために、今は耐えなければいけない。これから飛び立とうとしている世界が、どんなものなのか、目に焼き付けなければいけない。今は退屈で、味気ない世界でも、絶望するにはまだ早いのかも知れない。毎日口にするほど味がなくなってゆく食事や、何も起こらなくなっていくクリスマス。そんな平坦な日々も、いつかは終わるのかも知れない。そう思って、私は窓の外へと目をやった。

 そして私は、大鷹をみる。目の前の桜の枝が、折れそうなほどしなっている。巨大な影が私を覆う。その口には、無惨に翼が折れ、羽根に血がこびりつき、口から黄色い内臓が吹き出した、小さなスズメが一匹咥えられている。大鷹はまっすぐ私の目を見ている。そして、大きく翼を一振りし、空高く飛んでいく。血のついた桜の枝が上下に揺れ、やがてそれも止まる。

 冷房の風が体温を奪っていくのを感じる。銀色に輝くサッシに、逃げられなかった蝶が乾いて死んでいるのを見る。私は18歳になろうとしていた。


 

 

 

 


 

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