【完結】家族の味、中華料理ジャン

第8話 市川タコ蔵の注文

博多の秋、街は芸術の季節を迎え、博多座では華やかな歌舞伎公演が行われていた。公演には大物歌舞伎役者、市川タコ蔵が出演しており、その名演技が話題を呼んでいた。

ある日の午後、「中華料理ジャン」の店内はいつも通りの賑わいを見せていた。玲子が厨房の片付けをしていると、店のドアが開き、立派な着物姿の男が入ってきた。

「いらっしゃいませ！」玲子が元気よく迎え入れると、その男が深々とお辞儀をした。

「こんにちは。私、市川タコ蔵と申します。今日はどうしてもこの店の牛丼をいただきたくて参りました。」

店内が一瞬静まり返った。常連客たちも驚きの表情を浮かべた。中華料理店で牛丼を注文するとは、珍しいことだった。

「牛丼ですか？」玲子が驚きながら尋ねた。

「はい、牛丼をお願いできますか？」市川タコ蔵は静かに微笑んだ。

「もちろんです。少々お待ちください。」玲子は厨房に向かい、明に伝えた。

「お父さん、市川タコ蔵さんが牛丼を注文してるわ。どうしてだろう？」玲子が不思議そうに言うと、明は深く考え込んだ。

「まあ、彼にはきっと何か特別な理由があるんだろう。美味しい牛丼を作ってあげよう。」明は頷き、早速料理に取り掛かった。

明は特製のタレで牛肉を煮込み、香ばしい香りが店内に広がった。美咲も手伝いながら、料理を丁寧に仕上げていった。牛丼が完成すると、玲子はそれを市川タコ蔵の元へ運んだ。

「お待たせしました。特製牛丼です。」玲子が言うと、市川タコ蔵は深々とお辞儀をしてから一口食べた。

「これは…素晴らしい味です。ありがとうございます。」市川タコ蔵は感動した様子で言った。

「どうして中華料理店で牛丼を？」美咲が興味津々で尋ねると、市川タコ蔵は静かに話し始めた。

「実は、この牛丼は私の亡き父の大好物だったのです。父も歌舞伎役者で、博多で公演があるたびにこの近くの中華料理店で牛丼を食べていました。その店はもうなくなってしまったのですが、私はその味を忘れられず、探し続けていました。」

「そうだったんですね…。」玲子も美咲もその話に心を打たれた。

「今日、この店でその味を再び味わえるとは思いませんでした。父もきっと喜んでいることでしょう。」市川タコ蔵は感謝の言葉を述べた。

その日の営業は、市川タコ蔵の訪問で一層特別なものとなった。店内には温かい雰囲気が漂い、家族全員がその日の出来事を心に刻んだ。

「これからも、私たちの料理でたくさんの人を幸せにしていこう。」明は静かに、しかし力強く家族に語りかけた。

その日から、「中華料理ジャン」はさらに多くの人々に愛される場所となり、家族の絆と美味しい料理が、訪れる人々の心に深く刻まれていった。市川タコ蔵とのエピソードが、新たな思い出として加わったのだった。