第8話 最後の夜

 レクミラの父親と弟が神殿に来たのは、その日の夜の事だった。


 娘がいない。婚約を白紙に戻せと言ってきたので叱り付けたら、家を出ていってしまった。ここに来てはいないか、と。


 弟と目が合うと、彼は私を睨みつけてきた。お前達の関係は知っている、と釣り上がった目が語っている。父親の様子からして、告げ口はまだのようだが。

 父も弟も召使も、レクミラの一家総出で捜索が始まる。私も松明を手に、彼女が行きそうな場所を手当たり次第探し歩いた。

 松明がジリジリと音を立て、次第に小さくなってゆく炎が私の気を焦らせる。

 最後に足を向けたのは、墓場だった。


 彼女がいたのは、とある墓の埋葬室に続く入り口近く。そこの壁にもたれて、うずくまっていた。

 一瞬死んでいるかと肝を冷やしたが、名前を呼ぶと、彼女がもぞりと動き頭を持ち上げたので、ホッと胸をなで下ろす。


 ひとまずレクミラの話を聞こうと考えた私は、チラチラ燃える松明を岩の間に挟み、彼女の隣に座った。

 家族が心配している事を伝えると、レクミラが両膝を抱えて、そこに顔を埋める。


「私の事は放っておいて。このままお母様の墓前で砂に埋もれるんだから」


 また無茶な事を言う……。


「砂で埋もれる前に、飢えた野犬の餌になると思うがな」


 脅してやると、細い肩がぴくりと震えた。しかし、反応はそれだけ。

 いつにも増して頑固だ。こんな事をしていても、事態が好転するわけではないのに。


「どうすれば、貴方の腹が決まるのか……」


「もう心配しないで。今まで迷惑かけてごめんなさい」


 迷惑をかけている自覚があったとは驚きだ。とはいえ、彼女のこれまでの行動は、迷惑と言うほどではなかった。頭痛をおぼえたのは確かにせよ。


 レクミラはすっかり自信を失っていた。無理やり距離を置こうとした事で、私が彼女を面倒に感じているとでも考えたのだろうか。そんな風に言ったつもりは、毛頭ないのだが。


「『私と居るのは楽しいか』という貴方の質問に、私は『はい』と答えなかったか?」


 かつての会話を証拠に、誤解を解こうと試みる。幸い成功したようで、顔を上げて私を見たレクミラの瞳には、力強い輝きが戻っていた。

 がばりと身を起こした彼女が、私の襟周りを掴む。


「一晩だけ付き合って! そしたらわたし、お嫁に行きます!」


「付き合うって、一体何につきあ――」


「わたしを貰ってくれと言っているの!」


 レクミラの目に、涙が浮かび始めている。手も震えている。これはふざけているわけではない。本気だ。


「あなたと友人になれただけでも奇跡だと思う。これ以上を望むのは贅沢だと分ってるわ。だから、あのの名前を呼んでもいい……」


 そしてレクミラは私の服を握りしめたまま俯くと、お願いよ、と小さく懇願した。


 どうしてこんな事になったのか。私は、彼女は、何を間違ったのか。

 私は、最良の選択をしたと信じていた。レクミラを待っているこれからの環境は温かい。だから今は苦しいかもしれないが、それを乗り越えれば、レクミラが未来に恐怖する理由は、もうどこにもない。なのにどうして今、別人の名を呼んでもいいなどと酷い妥協をしてまで、私に抱かれなければならないのか。

 どうして私は、彼女をこんなにも追い込んでしまったのか。


「レクミラ。私にとって、貴方は貴方でしかないんだよ」


 レクミラはレクミラだ。あの人とは違う、私の大切な――


「そうよ。貴方を好きなのはあのじゃないわ。私よ! だけど私が進むべき道は貴方に繋がっていない。ならこうするよりないじゃないの!」


 レクミラの叫びを聞いて、愕然となる。

 なんてことだ。つまり私は、彼女の心を潤すものを与えられていなかったのだ。おそらく、何一つとして。

 与えていたつもりでいて、実のところ彼女に与えられてばかりだった。想いの方向は交わっておらずとも、少なくとも一方通行ではないはずだと、私は愚かにも、そう思いこんでいた。

 彼女にしてみたら、私はただひたすら背を向けてくる相手でしかなかったのに。


「……そうだな」


 自分は実に馬鹿者だと嘲りながら、神官の印である長い肩かけを腰帯から抜き取り、地面に敷く。ここは砂漠地帯だ。相手を砂まみれにするわけにはいかないだろう。

 その上にあぐらをかいた私は、レクミラに向かって両手を伸ばした。


「さあ」


 レクミラは、四つ這い姿勢で私を凝視したまま固まっていた。星灯りの下でも分るくらい、顔を真っ赤にしている。


「迎えに行った方がいいのか?」


 冗談めかして訊ねると、彼女は何度も首を横に振った。続いて私の前まで這って来ると、ぺたりと座る。

 だがまだ恥ずかしいのか、視線は地面に注がれたままだ。


「ジェド メドゥ ネチェルウ ネブウ。メフ-へトゥ ジェト イウ ネチェルウ ディ ネス ヘテプ ジェト ム ヘテプウ-ネチェル ネス ン セジェム シェセプ チェヘネウ」


「今、なんて言ったの?」


「野犬避けの呪文だ。邪魔されたくはないだろう?」


 やっと顔を上げたレクミラに手を伸ばし、引き寄せる。


「うん、そうね……。ありがとう」


 レクミラはそう言うと、私を肩かけの上に押し倒した。


 私は腕の中のレクミラに、千年前から受け継がれる呪文を、ただひたすらに繰り返す。

 何百回。あるいはもっとか。何千回。

 うっかり眠ってしまっては揺すり起こされる事も度々ではあったが、時間が許す限り、声が出せる限り、少なくとも私と彼女が寄り添っていられる間は、与えられるだけ与えようと。


 レクミラに深く口を塞がれた時。こみあげてくるものに負けた時。そうやって時折、祝詞を途切れさせはしながらも、私はその呪文を一晩中、レクミラに捧げ続けた。


 明け方。またいつの間にか眠っていた私は、自分の腕の中にレクミラがいない事に気付いて目覚めた。

 彷徨わせた視線の先に、私の傍らで上半身を起こし、橙色に輝く東の空を眺めているレクミラの後ろ姿を見つける。


「さよなら」

 

 ナイルの向こうから頭の先を出し始めている太陽に向かって、レクミラがぽつりとこぼした。


 まだだ。

 少しだが、まだ時間はある。


 私はレクミラの肩に手をかけ、振り返った彼女に、初めて自分から口づけた。


 唇を離すと、息継ぎより先に呪文が滑り出た。  

 それを聞いたレクミラが、くすくすと笑う。

 

「いいかげん、もう覚えたわ」


「ああ、ならよかった」


 額を合わせて微笑み合えば、お互いの鼻先が擦れ、息が混じり合う。

 幾度も体を重ねたどの瞬間よりも、今彼女と強く繋がっている。そんな錯覚に陥った。


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