第5話 葛藤・昼食・パンの食べカス

 あの人の存在は、私にとって心の支えだった。気を張りつめ、背伸びをし続けなければならない毎日に疲れた時。己を律し、強さを求め精進したい時。あの人を思い出すと、力が湧いた。


 レクミラの求愛に身を委ねるのは容易い。しかしそれをしてしまうと、私は今の私を保てない気がする。

 私を丸ごと愛おしみ、包み込もうとしてくれる彼女の愛に甘えた時、私は、緊張と背伸びを続けられるだけの強さを失うかもしれない。そうなれば、私を補佐役に任じた上司の期待、同僚からの信頼、そして私の事を自分の目標だと慕う第四王子からの敬意を、裏切ってしまうだろう。

 私は、レクミラだけを大切に生きる事はできない。


 そんな風に葛藤していた頃、レクミラが吐露した真意は衝撃だった。


「父の事は好きだし、父が望むようにお見合い出来ればどんなにいいかしらと思うけれど、仕方ないのよ。心がどうしても、政略結婚は嫌だと言うんだもの」


 なんだ。彼女も本心では、見合いが最良だと思っているんじゃないか。私を好きになったのは、現実逃避の結果でしかないのか。

 そう思うと、ゴツゴツとした何かが胸の中を満たし、胸骨の先端が押し潰されるような圧迫感を覚えた。


「頭と心は往々にして離れ離れになるものだ。心は理屈では動いてくれない」


 口では年長者ぶって論じながらも、私は別の思考で、彼女が私を諦める理由を懸命に探していた。さっさと諦めて、父親の望む男と結婚すればいい、という彼女を突き放すような心さえ抱いていた。そして、はっきりと告げたのだ。あの人の存在を支えにしているうちは、レクミラ――貴方の手を取れるはずもない、と。


 なのに私は本日、不覚にも、彼女と結婚し所帯を構える夢を見てしまった。

 それも奥庭で。レクミラがまだ来ていない隙にうたた寝をした最中に、だ。


「んんっ? ……む?」


 レクミラの声がして、深い甘さとスッキリした刺激が立っている香りが、鼻をくすぐる。ケイ(シナモン)だ。レクミラが好んで使っている乳香の……。


「ん? む。ふ。……うむぅ?」


 今日の彼女は妙な唸り方をするな、とは思った。

 今夜は遅くなるから先に寝ていてくれと告げた私に、しばしの別れを惜しんで口づけてきた割には随分舐め回してくるな、とも。

 それに、いくらなんでもそろそろ解放してもらわねば仕事に遅れる、という焦りも。


「レクミラ」


 新妻の名を呼んだ自分の声で、寝ぼけている状態から脱した。有難いことに、完全に覚醒した頭が瞬時に状況を把握し、私に口づけていたのは新妻などではなく私の寝込みを襲っていた図太いフトドキ者だと教えてくれる。

 

 私は喉元まで出かかった絶叫をこらえながら、嫌がるネコが前脚を突っ張る要領で、フトドキ者のレクミラを押し戻した。


「駄目よじっとして!」


 毅然とした態度で叱りつけてきたレクミラが、私の顔を左右から掴む。

 そしてまた、唇を重ねてきた。しかも今度は、舌で無理やり口をこじ開け、私の歯や舌を容赦なく舐めてくる。どんなに顔を背けようとしても、押し退けようとしても、頑として離れず、犬も真っ青になるくらいの舐めっぷりで襲ってくる。


 だから舐めるな! 苦しいもう放してくれ!


 そのように叫びたいのだが、口をしっかり塞がれていては、叫びようもない。


「ぷはっ!」


 上手く呼吸できないあまりに意識が霞みかけた時、レクミラが破裂音を出して、ようやく口を解放してくれた。


「ああ~、やっと分ったわ。デーツなのね!」


「何が!?」


「塩とバターで炒めた卵。蜂蜜パンに、煮込んだイチジクでしょ。それからデーツで風味づけしたビール! どう? 正解でしょ?」


 何が正解かと言うと、私の今日の昼食だ。

 どうやら彼女は、昼食の内容を知る目的で私の口を舐めまわしていたらしい。

 となれば、あの妙な唸り声は、味の正体を探っていたがゆえだったのだろう。

 つい先ほどまで呼吸困難に陥っていたせいもあってか、脱力感がどっと押し寄せる。


「今日は来ないと思って油断した……」


「あらあら。わたしと結婚した夢を見ていたんでしょう? 夫婦なら口づけくらい軽いものじゃないの」


「毎日毎日、貴方が凝りもせずこんなことをしてくるからでしょうが!」


「ええ。おかげで貴方が本当は嫌がっていないと知れてわたしは大収穫よ。あなたの好みの味も知れた事だし、本当に今日はいい日だわ。プタハ神に感謝しないと」


「今度からは普通に言葉で訊いてくれ……」


 ご機嫌に笑うレクミラを前に、私は両手で顔を覆ってうな垂れる。


 ヘソを曲げた挙句、彼女をつき放した自分が滑稽に思えた。また、どんなに彼女を突き放しても翌日には必ず私の元に現れてくれる現実に、情けなくも私は、安堵していたのだ。


 それからというもの、レクミラは毎日弁当を持参してくるようになった。

 他愛のない世間話やおフザケにあてていた昼休みが、弁当をつまみながらの談笑に変わる。

 どこで学んだのかは知らないが、にんにくや玉葱といった私達神官にとっては禁忌となる材料がきちんと避けられているのは、有り難かった。


「ちょっとちょっと! これは貴方たちのじゃないんだってば!」


 餌を食べ終えた野良イヌや野良ネコに弁当をつまみ食いされる事もしょっちゅうで、その度に弁当包みを頭の上に掲げて逃げ回るレクミラの姿は可笑しかった。


「イエンウィアも笑ってないで助けてちょうだい!」


「大丈夫。今日の弁当には、こいつらが食べて悪いものは入っていないから。――ほら後ろ。イヌが来るぞ」


「そおいう問題じゃなくってね!――あぁっ! 一番大きなお肉、持ってかれちゃったぁ……」


 こんな具合に、人間が満足に食べられない事もざらにあったが、それはそれで楽しいひと時だ。


 ある日、レクミラの口角にパンの欠片がついているのを発見する。


「口に食べカスがついてるぞ」


「あら失礼。で、どこどこ?」


 いつもの意趣返しとして舐め取ってやろうかという考えが頭をかすめたが――結局、やめた。

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