第3-2話 図太い彼女
「神殿内では、こういった書物はお控えください」
たまらず声をかけると、レクミラがぱっと振り返り私を見上げた。目が合うやいなや、『しまった』という顔をした彼女だったが、すぐに無表情を作り、こう言う。
「誰もいないし、別に構わないじゃないの」
「まったく。図太いお人だ」
本当に、色々な意味で。
「神官さんも、こういったものは見るでしょう?」
「だからといって、堂々と広げていい物でもあるまいに」
残飯が乗った皿を地面に並べ終えた私は、レクミラの隣に座ると、開けっぱなしの
なるほど。本格的な官能書というよりは、喜劇の色が濃いようだ。これならまだ、マシな方か。
「同僚が手にしているのは目にしたことがあるが、それは物語ではなくただの絵だったよ。こういう物語調を好むのは、女性に多いんじゃないか?」
「なんだ、お仲間のもしっかり見てるんじゃないの」
可笑しそうにレクミラが笑う。
何だか
「偶然見えただけだ。私の上司は非常に手のかかるお人なもので、毎日の仕事だけで性も根も尽きてしまうんだよ。だから、他の事に労力を使う余裕はなくてね」
「お気の毒だこと」
レクミラの笑い声が大きくなる。
「余計なお世話です」
彼女は楽しそうだ。私に想い人がいる事実など、まるで気にしていないかのようにふるまっている。その態度は、今までと全く変わらない穏やかで明るいものだ。
望みが無いと知って、少なからず傷ついたであろうに。正直、彼女という人間がよく分らない。
ああ、けれど……変わらない彼女を前にして、ホッとしている自分がいるのも確かだ。
もしかしたら、このまま友人のような関係を続けられるのだろうか。
そんな自分勝手な希望がふとよぎったその時、私の唇に何かがぶつかった。続けて、上唇を軽く噛じられるような感触が。それから、ひんやりとした柔らかいものが、頬に触れてきた。髪だ。緩やかに波うった、茶色い髪が――。
そこでやっと、口づけされているのだと理解した。他の誰でもなく、レクミラに。
一呼吸程度の間の後、ふう、という微かな呼気と共に、レクミラが唇を離した。私と面と向かうなり、そのくっきりとした目を瞬いて首を傾げる。
「あら、もしかして初めてだった? ごめんなさい。その……いい歳みたいだから、もう終わってるだろうと思って」
信じがたい事に彼女は、二十代半ばの私を年寄り扱いしてきた。
年齢はまだ伝えていなかったのだが、伝えずとも年相応の外見ゆえおおよその見当はつくだろうと考えていた。それだけに、私の精神的打撃は大きい。
絶句していると、レクミラがヘラっと笑いかけてくる。
「まあ、軽く噛み付いただけだし。舌は入れてないんだから、数には入れなくていいんじゃないかしら」
「貴方だって頭でっかちなだけだろう! 誤解を招くような発言はやめてくれ!」
思わず、レクミラの口を手でふさいで声を荒げてしまった。しかし、僅かながらも残っていた冷静さが、この事態を周囲に気取られないよう声量を抑えさせた。
「うふふふ」
レクミラがにんまりと笑う。吐息が掌に当たってくすぐったい。
「もう、こういった書物はやめなさい」
口を解放したその手で、レクミラが持っている書物を奪い取った。
「あら」と声を上げたレクミラが、難しい顔で考え始める。
「どうしましょ。家に持って帰れないわ、こんなもの」
「いつもはどうやって処理してるんです?」
「『いつも』って。こんなの買ったのは初めてよ。店主にオススメされたから。だいたい、わたし、そんなにムッツリスケベじゃないわ!」
頬を膨らませたレクミラが、上目使いに睨んでくる。彼女の言い分には、妙に納得するものがあった。
「そうだな。貴方はあけすけだ」
猥褻書を何重にも降りたたみ、誰かに見られないよう腰帯の間に隠す。
「これは私が捨てておきます」
ちょうどそこで、樹木のような深い香りが神殿内部から漂ってきた。午後の香が焚かれ始めたらしい。
「行かなければ」
私が面を上げると、レクミラがさっと立ち上がり、階段をおりてゆく。しかしすぐに体を反転させ私の元に戻って来た彼女は、下からすくい上げるように顔を寄せて、囁いてきた。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
一体何がご馳走で、どう美味しかったかは言わずもがな。
ふっくらとした唇の両端を持ち上げて含み笑ったその表情からは、『失恋』など全く感じない。むしろ、今後さらに、求愛は熱烈になるであろうと私に予感を抱かせた。
軽い足音をたてて走り去るレクミラの背中を無言で見送った私は、やがてぱたりと後ろに倒れ、両腕で顔を覆う。
「恐れ入った……」
私は彼女を見くびっていたらしい。
けれどレクミラの図太さに呆れる一方で、彼女と過ごす昼のひとときが明日からもこの場所で続くのだと考えると、胸のあたりがむず痒く、なぜだか笑い出しそうになる自分もいた。
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