第3-1話 卑猥な書物
私は、最高司祭の補佐役に任命されるには、若すぎた。お陰で、妬み嫉みの感情にさらされやすく、小さな失敗でも批判の対象になる日々を送っている。
隙を見せないようにと振る舞ううちに自然と背中に力が入り、冷静でいようと努めるほどに声量は抑えられ、当たり障りのない笑顔ばかりが上手くなった。
レクミラが好いているのは、そういった私のほんの上辺だけだ。
実際の私は、卑小で平凡。才能も精神も、人並みでしかない。
ある日それを、レクミラに伝えた。
「私は、貴方が思ってくれているような立派な人間じゃありませんよ。ただの堅物です。実際、同僚からも、そう言ってからかわれますし」
「あら。お仲間からからかわれる隙が、貴方にもあるのねぇ。よかったわ」
驚いたことに、短所を長所にひっくり返された。
そして、私の欠点すら愛おしいとばかりに相好を崩したレクミラは、得意気に言ってきたのだ。
「どっちにしても、わたしから見た貴方は、立派な人には違いないけれどね。でもそれだけでコロッといったわけじゃなくてよ」
「そう、なんですか」
「ええ、『そう、なんです』のよ。そもそもわたし、貴方の事なら全部好きになれる自信があるんだから、心配はご無用」
「それはいささか、感情論が過ぎると思いますが」
「違うわ。女の勘なのよ。絶対わたし達、相性がいいって分かるの」
「余計あてにならないな……」
「んふふっ。あてにならなくてもいいじゃない。夫婦になっちゃえば、おのずと答えが出ることよ。――ねぇそれで、いつ結婚する?」
「しません」
「えー? じゃあ、先に子供を作る方がいい?」
「作りません」
「もぅ……堅物なんだから」
「だから先ほどそう言いました」
どうやら、彼女が私に期待し求めるものは、周囲や私自身が私に期待し求めるものとはまるで違うようだった。何故ならレクミラは、私が自然体でいればいるほどに、嬉しそうに目を細めるからだ。
そのせいだろうか。奥庭でレクミラと語らう時間は、肩の力が抜けた。
そうして、私がレクミラの気持ちに応えられない最大の理由は告げられないまま、いつしか私達の交流に、供物のお下がりは不要になっていた。
★
神殿には
そこに、彼女はやってきた。壁の向こうにいる神官が、私とは知らずに。
「プタハ神様。私は恋愛結婚ができるでしょうか。政略結婚ではなく……」
そういえば、最初に求婚された日に、父親が見合いの相手を探している、とレクミラは言っていたか。
貴族の娘は政略結婚が当たり前だが、彼女はそれに抵抗があるらしい。
「政略結婚を恐れてはならない。真の幸福は、結婚後に存在する」
神なら恐らくこう言うだろう、と模範的な回答を与えた。
「へえっ?」
間抜けな声が返ってくる。壁の向こうにいるのが私と知って、驚いたか。
ややあって、緊張した声が訊ねてくる。
「で、では。イエンウィアは、私を愛してくれるでしょうか」
なるほど考えたな。これは神にではなく私への問いかけだ。
「その者は友人として、既にあなたを愛している」
「友情を望んでいるわけではありません!」
やはり即座に突っぱねられた。
「……彼の恋情なら、別の者に向いている」
そうだ。彼女の為を思うなら、もっと早くに伝えておくべきだったのだ。流石に胸が痛んだ。
「……相手方の恋情は、ちゃんと彼に向いているのかしら」
はい。と答えようと思った。嘘だとしても、それで彼女がこれ以上、要らぬ期待を抱かず済むのならばと。
いや、しかしそれでは、あまりに不誠実ではないか。
沈黙を通じて、私が片思いをしていると悟ったのだろう。彼女は、声を落として、こう呟いた。
「そう。わたしも貴方も一方通行なのね。……悲しいこと」
続いて、ズッ、と鼻をすする音が。
あと少しで昼休みだ。けれどもう、彼女は奥庭には来ないかもしれない。
そう思っていた。
ところが、予想に反してレクミラは、これまで通り姿を現した。彼女の定位置である階段に、一人座っていたのだ。その両手には、彼女の顔二つ分程の大きさの一枚紙が広げられていた。絵と文字が記されているので、書物の類のようだ。
彼女は黙々とそれを読んでいた。華奢な背中を丸めて、食い入るように。
彼女お気に入りの
私の足音すら聞こえていない様子だ。一体何を熱心に読んでいるのかと後ろに回って覗いてみると、まさかの
タイトルだろうか。『売春宿の物語』と書かれてある。
寝台の下に隠れた男の絵の上に、『もう勘弁してくれ』という台詞が。
男が隠れている寝台の上から売春婦と思わしき女が男に手を伸ばし『ねえ。可愛いあなた、早く出てきて』
……なんというものを読んでいるんだ、この人は。
失恋が確定したばかりだぞ。
私がここに来るのも、分っているだろうに。
しかもこの場所は、規律を重んじる神殿の一角だ。
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