月の王子

カリーナ

第1話

月の王子


リリーが16歳の頃、フランスへやってきました。

ダンス見習いのリリーは、故郷イギリスの田舎町を出てパリ・オペラ座でダンスを学ぶのです。

「明日からレッスンが始まるわ。素敵な先生と出会えたら良いのだけれど」

期待と楽しみに胸躍らせながら、リリーはセーヌ川の川沿いを散歩していました。

月あかりが綺麗です。

「今日はきっと、満月ね」

「ああ、そうだよ、お嬢さん」

「あなた、だあれ?」

リリーが声の方に目をやると、そこには大変美しい人がいました。

涼しい顔をして、リリーに微笑みかけながら木の枝に腰掛けています。

リリーと同じくらいか、少し年上にも見えるその人が、そんなに頑丈でもなさそうな木の枝に座っていることは不思議なことでした。

月の光に照らされて、その人は一層綺麗に見えました。

「さあ、君は僕をなんと呼ぶんだい?」

「……ベアトリーチェ」

「はは、なら僕はベアトリーチェだ。君は?」

「リリー、リリーよ。」

「そう、おいで、白百合さん」

たいそう美しいその人は、ひらりと蝶が舞うように地面へと降り立ちました。

音がひとつもしませんでした。

すらりと長い手足に、黒いタキシード。

王子様ってきっとこういう人なんだわ、とリリーは思いました。

「リリー、僕と踊ろう」

ベアトリーチェはリリーの元へ来ると、優しく腰に手を回します。

「あなたはここの人?私、パリに来るのが初めてなの」

高鳴る鼓動を感じながらリリーは、蒼白い月光を宿したようなその瞳を見つめて問いかけます。

「そうだな、僕はパリにいたこともあるよ」

「そうなの。パリってどんなところ?美しい建物がたくさんあるわ」

「どんな美しい建物だって、君の美しさには適わないさ」

優しく微笑むベアトリーチェを、リリーはすっかり好きになってしまいました。

ダンスも、とびきり上手かったのです。

こんなふうにずっと踊っていたい、そう思いました。

この人が私の先生なら、そんな風にも思いました。

セーヌ川の川沿いを、月あかりを頼りに2人は踊ります。

「ベアトリーチェ、私またあなたに会いたいわ」

「ああ、来月の満月の夜、僕はまたここにいるよ」

そっとリリーの手にキスをすると、ベアトリーチェは行ってしまいました。

こんな夜の街を、どこに行ってしまったのか検討もつきませんでしたが、また来月の満月の夜に会えるんだと、リリーは心が嬉しくなりました。


それから1ヶ月、リリーはダンスの練習に励みます。

パリ・オペラ座はたいへん厳しいところで、先生たちからの叱咤激励や、ライバルたちの視線を負担に思うこともありましたが、またベアトリーチェに会える、その一心でリリーは練習に励みます。


翌月の満月の夜、リリーはまたあの場所へ行きました。ベアトリーチェを待ちます。

給料をはたいて買った新しい真っ赤なワンピースを着て待ちます。

真夜中になりました。

ちょうど満月がリリーの真上に見えます。

どんなに待ってもベアトリーチェは来ません。

こちら側では無いのかしら、と何度かセーヌ川を渡ったり、川沿いを歩いてみましたが、ベアトリーチェはついに、現れませんでした。

あまりの悲しさに打ちひしがれて、リリーは何日も何日も部屋に籠って泣きました。


それから幾年経ったでしょうか。

リリーは歌手と婚約します。

あの日以来、悲しさを忘れるために一生懸命ダンスに打ち込みました。

リリーは気づけばオペラ座いちのダンサーになっていました。

今でも時々、あの夜のことを思い出しては心が傷みますが、それでも夢だったこの舞台で好きなだけ踊ることが出来て、優しいフィアンセがいて幸せでした。

幸せだと思おうと思いました。

「ああ、いよいよ明日は結婚式だね、リリー」

「ええ、楽しみね」

「結婚式は本当にイギリスじゃなくて良かったのかい?」

「ええ、結構ですの。明後日からまたお仕事ですし」

「リリー、君は確かに今をときめくオペラ座のダンサーだが働きすぎも良くないよ。少しゆっくりして僕とハネムーンに出かけよう。どこに行きたい?」

「……月…かしら…」

「なんだって?」

「いいえ、なんでもない。少し外の空気を吸ってくるわ」


リリーは思わず外に飛び出しました。

あの日のことを思い出します。

昨日のことのように思い出せます。

若く、何も知らなかった、パリに来るのが初めてのリリー。

今では美味しいパン屋さんの場所や、ノートルダム大聖堂までの近道を知っています。

どんな風にしたら先生に気にいられるのか、どういうふうに上手く周りの人達とやっていくのか、どういう時にフィアンセの機嫌が悪くなるのか、知っています。

色んなことをパリに来て学びました。

幸せなことばかりではありませんでした。

ライバルに抜かされた時、先生に叱られた時、イギリスへ帰れと言われた時、悔しい時はたくさんありましたが、どんな時でもあの、最初のパリの日にベアトリーチェと会ったひと時を思い出せば、悲しみなんて吹き飛びました。

また、どんな悲しみも、待っても待ってもベアトリーチェが現れない悲しみに比べたら本当になんでも無いことに思えたのでした。


「ああ、私の美しい人。もう一度あなたに会うことが出来たら」

「やあ、リリー。待たせたね」

「ベアトリーチェ……?」

まさかと思いましたが、振り返るとそこには、あの日のままの美しいベアトリーチェが立っているではありませんか。

「ベアトリーチェ、ベアトリーチェね?」

リリーは夢でも見ているのじゃないかしらと思いました。

「ああ、そうだよ可愛いリリー。」

「ああ、ベアトリーチェ、会いたかったわ、ずっと、ずっとよ。そう、もう何年も何年も、あの日からずっと……」

リリーは嬉しさのあまりベアトリーチェに駆け寄って、抱きつきます。

ベアトリーチェはそんなリリーの気持ちを分かってか、優しく、包み込むように抱きすくめました。

リリーはもう、ベアトリーチェを責める気持ちになんてなれませんでした。

あの愛しいベアトリーチェがまた、自分の目の前にいて抱きしめてくれている。この温かさは本物なんだ、そう思えばすっかり嬉しかったのです。

「リリー、もう君と離れたくないよ。僕と一緒に来てくれないか?」

「ええ、どこへでも」

リリーは不思議と怖くありませんでした。ベアトリーチェと一緒に行くということは、もうきっとこのパリへは戻って来れませんし、きっと遠いどこかに行くのだと思いましたがちっとも怖くありません。

「あなたとだったら、どこへでも」

ベアトリーチェは優しく微笑むと、リリーの頬に手を添え優しくキスをします。今度は手の甲ではなく、唇に。

「リリー!もう寒いから入っておいで。だ、誰だそいつは!!」

フィアンセがリリーを追って外に出てきました。

「離せ!リリーから離れるんだ!!」

フィアンセはがむしゃらになってベアトリーチェを引き剥がします。

「違うの、この人は」

「何なんだお前は!僕はリリーの婚約者だぞ!出ていけ!」

ベアトリーチェが少し悲しそうな目をした、ようにリリーには見えました。

「リリーは僕と来てくれるよね?あの月にも、そうだな、リリーが踊れる舞台はあるんだ。きっとそこで君は誰よりも、」

「黙れ黙れ!何わけのわからないことことを言っているんだ!次俺の婚約者の名前を言ってみろ!お前を撃ち殺すぞ!」

リリーの婚約者は本気でした。ガタガタと震える手で拳銃を取り出し、ベアトリーチェの心臓に狙いを定めます。ガタガタと手は、体は、怒りで震えていましたがこの至近距離では外しようが無いことは明らかでした。

「やめて!あなたやめて!」

「リリー、僕と一緒に、」

「やめろ!」

たん!と轟音が鳴り、リリーが目を開けるとフィアンセの後ろでベアトリーチェがぐったりと倒れているのが見えました。

「ベアトリーチェ、ベアトリーチェいやよ、いや…置いてかないで……」

リリーは駆け寄ります。フィアンセを押し退けて、息も絶え絶えなベアトリーチェに駆け寄ります。

「すまない、リリー。あの時、地球が僕たちを隠してしまって降りられなかったんだよ……リリー、僕と…」

「ええ、行くわ。どこへだってあなたと一緒に、」

リリーの涙がベアトリーチェの頬を伝います。

「リリー、僕にキスしてくれるかい?」

優しく弱く微笑むベアトリーチェに、リリーはそっとキスをしました。


翌日、呆然と公園で座り込むフィアンセは警察に補導されました。

取り乱しながら公園まで走っていき、一夜を明かしたのです。

確かにあの時間、リリーたちを撃つ音を聞いた人達はいましたが、もうそこにはベアトリーチェの姿もリリーの姿もありませんでした。


月の綺麗な夜でした。

きっと月がリリーをさらっていったのだと、後の人は語ります。

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